第11話 命名

 だが源太郎の目は、そこにあるはずのない、目に見えるべくもない、空を漂う『』の文字に釘付けとなっていた。

 眼に宿っていた不審の色がじわじわと消えた。代わりに広がるのは喜びの光だ。

 夜明けの空が薄紙を剥ぐように明るく変じて行く、それと似た明るさが、源太郎の目にも顔にも浮かび、広がり、輝く。

 バタバタと走る音が、源五郎の背後でたった。続いて紙のすれる音、そしてまた走る音。

 足音は源五郎の脇を抜けて、源太郎の前で止まった。

 徳次郎が源太郎の前に膝を突いている。

 手には硯と筆、そして紙。

 紙は広縁の板張りの上に広げられ、すずりが紙の端を僅かに抑える位置に置かれ、筆が源太郎の眼前に差し出された。

 源太郎が奪うように筆をとる。

 硯の池の粘った墨に筆先がとっぷりと浸された。

 墨を十二分に吸い込んだ筆の穂先が紙の上に落ちる。

 筆が走り、白い紙の上に漆黒の跡が残された。


 幸多籠


 空を漂っていた目に見えぬ三文字が、確かな形を得て現れた。

 見えぬものに姿が与えられ、無かったものが有るものに変じた。

 勢いのある、大きな、逞しい、黒々とした、つややかな、美しい文字を、源太郎はしばらくうっとりと眺めた。

 それを、口に出して読み上げる。


ろう。こーたろう。こたろう。。こた。於幸多おこた


 何度も読む。呼ぶ。呼びかける。


「よし、よし、よし!」


 やがて、一人うなづいた源太郎は、筆を放り捨てた。まだ墨の乾かぬ紙を鷲掴みにする。そして飛び跳ね上がった。


「姫よ、姫よ。愛し子よ。今、父が参るぞ!」


 床板を踏む音がした。

 大ぶりな体が、小さく丸まって平伏していた源五郎の背の上を軽々と飛び越える。

 巨大な鞠が弾みながらころがり行くように、源太郎は広縁から庭に飛び降り、奥向きの一番奥に新築されたうぶに向かって一散に駆け出した。

 小者頭の権助が慌てて主人の後を追いかけてゆく。

 律儀なもので、彼は広縁の端ほどに当たるところまで駆けたところで、ピタと立ち止まり、振り向いて、彫像の様に固まっている三兄弟に一礼をし、再び主人の背中を追った。

 真田源太左衛門尉信綱の家臣へのしつけは、隅々まで行き届いているものと見える。



 長兄の足音が聞こえなくなった頃、源五郎が顔を上げた。

 次兄・徳次郎の、安堵した、力の抜けた顔が見えた。緩慢な動きで、投げ捨てられた筆と、取り残された硯を拾い上げている。

 振り返れば、書院と広縁の間で床に伏したままの源次郎も呆然として、しかし微笑していた。ゆっくりと起き上がって、兄たちにうなずきを送った。

 背を伸ばした源五郎は、長兄が走り去った方を見やって、一つ、息を吐いた。

 その吐いた息を、直後、彼は呑み込んだ。

 あっという間に姿が消えたはずの源太郎が、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。


「源五ぉ!!」


 眉をつり上げて叫んでいる。

 源五郎は慌てて居住まいを正し、平伏した。

 徳次郎も源次郎もその場に座り直す。


『気落ちして頭から血の気が下がりきっていたところへ、俺がこね上げた屁理屈で一息に血を上らせたが……。さて、一息吐いて兄上も正気に戻られて、屁理屈の屁理屈加減に気付かれたか?』


 床板の木目を数えながら、源五郎は兄の言葉を待った。


「前にうぬに申したなっ!」


 源太郎のは、なるほど大声ではあったが、怒りも憤りも混じっていない。


「は?」


 それでも兄の顔を見るのは少々恐ろしかった。腹の辺りがチラリと見える程度に、源五郎は頭を上げた。


「お前に子が……だんが生まれたなら、の婿に迎えて、当家の跡取りにする。よいな。忘れるな。よいな!」


 源五郎が驚いて顔を上げた時には、既に源太郎は再びきびすを返して駆け出しており、


よ、姫よ! 今度こそ、父が参るぞ!」


 叫び声は遠く、背中も小さく見えるばかりだった。

 権助が戸惑いながら、文字通りに右往左往して、駆け戻る主人の背中を追いかけているのが見えた。



 源五郎は一度尻を浮かせたが、すぐにその尻を床板に突いた。体に力が入らない。後ろに倒れそうになる上半身を、両手を付いてどうにか支えた。


「正気で仰せなのだろうか?」


 口を突いて出た言葉に、徳次郎が苦笑しながら、


「甲斐国人衆・武藤家の嫡男を奪い取るようなまねは、さすがになさらぬだろう」


 硯と筆を持って書院に戻った。

 次兄の足取りを見ていた源次郎は、三兄の方へ顔を向け、


「源太兄上のことゆえ、あるいは本気のことやも」


 首を振るそぶりをして見せた。

 源五郎の首も、小さく左右に振れた。


「……信濃者は、みな困り者じゃ」



 赤子の産声は、通りにまで聞こえる程大きく、力強い。

 それに比べて、この書院に残された男どもの笑い声の、なんと力なく小さなことであったか。


 寒空の中を一辺の黒雲が、北風に押されてそろそろと流れている。


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