龍蝨―りゅうのしらみ―
神光寺かをり
第1話 黒方
桐材に描かれた
櫓の幅はおおよそ二尺、高さも同じ程だ。
しばらくの間、源五郎は櫓と火桶を各々押したり戻したり、
年が明ければ、源五郎は十八歳となる。
『せめて来年の間は、何事も起きなければ良いな』
源五郎の頬に、今度は誰にもそう見えるほどにはっきりした笑みが浮かんだ。
いや、笑みという穏やかな言葉で表せるものではない。
にやけている。口元がだらしなく緩んでいる。
甲州、
御長屋と呼ばれるこの屋敷には、
先頃
すぐに
少なくとも、最初の内はそうだった。
はじめは疑念の針で刺す様だった信玄の目つきが、厳しくも暖かい、期待のこもった眼差しへ変わるのに、長い年月は必要なかった。
気に入られたのだ。
十歳になる頃には、甲斐衆の名門の子等に混じって
十五歳で元服し、足軽大将に任ぜられて、
それでも彼は
人質である彼の出世は、信濃国人の真田家を甲斐に縛り付けておくのに、十分すぎる理由付けとして効力を発揮している。
平時は弟と二人、躑躅ヶ崎の
源五郎は小ぶりな木組みの櫓に、一枚の
目に鮮やかな、流水に菊花が散る文様が描かれている。
あまり物のない部屋が、ふっと明るくなった。
武人としては実に小柄な源五郎が着たなら、
小袖は、先の戦の折にめざましく働いた彼へ、
その
懐から油紙の包みを取り出し、そっと、丁寧に慎重に開く。
大豆ほどの黒い塊が三つ、転げ出た。
数種類の香料を配合したものを、蔦の樹液を煮詰めた
その一つを埋め火の上の
雲母の上の小さな粒が、ほのかに甘い匂いをたて始めた。
木組みの中から頭を抜き取った源五郎は、小袖の文様を眺めるともなく眺めた。
美しい小袖だった。
『来年は何事もなく過ごしたいものだ』
何事もなければよい。
ことに戦などは起きなければよい。
戦が起きれば、戦場に出なければならない。
戦場に出たなら、命をかけて働かねばならぬ。
命をかけて働けば、命を落としかねない。
命は落としたくない。
つい先日まではそのような弱気を覚えることはなかった。それが、このところは生きることばかり考えている。
『この俺が、嫁を貰うというだけで、これほど死ぬのを恐れる様になってしまうものか』
年が明ければ、源五郎はこの証人屋敷を出ることになっている。
同時に妻帯することも決まっている。
歌人としても名高い
三郎左衛門尉は武田信玄の生母・大井の方の縁戚である。それ故に武藤家を絶やすに忍びないと考えた信玄は、養子を入れて家を残すことを決めた。
そして選ばれたのが真田源五郎である。
異例の抜擢といって良い。
来年早々、源五郎は名乗りも武藤
主君の縁戚に繋がる武藤家の家格は、源五郎の実家である真田家よりも高い。
それに信濃先方衆ではなく、甲斐国人衆という扱いになる。
隠居と称して信濃の
たいした出世だ。
しかし、だ。
家を持てば家来を抱えることになる。家来にはその家族がいる。領地には領民がいる。
『今までは、お
殿様が守るべきものは多い。
背筋を反り返るほどに伸ばした。顔は真上を向いている。すすけた天井が見えた。見る先を定めていない視野の端には、薄暗い壁と、僅かに明るい戸障子も入り込んでいる。
源五郎は息を吐いた。
「死ねぬなぁ」
思わず声が出た。
心細げなその声の、弱々しくもある語尾の音に、別の声が被さってきた。
「誰が死ぬだと!?」
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