第10話 妙案
ちょうどそのとき、丸めた肩越しに源太郎が振り返った。
まなざしが源五郎のそれと真っ当にかち合う。
源五郎は息を呑み込んだ。徳次郎と源次郎が
源五郎、声もなく長兄の言葉を待つより他に無し。
「困ったぞ。なんたる失態だ。どうすれば良い?」
主語が無い。述語が無い。何のことか判らない。
次の言葉を聞かねば、何を答えて良いのか判断が付かない。
待ちかねている次弟の顔を茫漠と眺める源太郎が
「儂は我が子を……我が娘を、娘と知らずに、男の名で呼び続けていた……」
三兄弟が目を見開いた。
平伏していた権助が、頭を持ち上げる。
その場の全員が、同じ事を考えていた。さりとて、口には出せぬ。
『そこかー!?』
各々、胸の内で叫ぶのが精一杯だ。
口には出せない。出せるはずがなかった。
詰まるところ、皆、源太郎の
源太郎は生まれてきた赤子に対して、何の不服不足も持っていないのだ、と。
元気に泣く姫は、父親から祝福され、愛されているのだ。
徳次郎の脂汗が引いた。源次郎の震えが止まった。源五郎の顔に
ことに源五郎は、凝り固まった緊張の
源太郎が、
「ああ、思えば儂が小太郎と呼びかける度に、あれが北の腹を内から蹴っておったのは、『その名で呼ぶな、我は女ぞ』と、怒ってのことだったのか……。いや、そうに違いない」
うろたえ言うのを、源五郎は、却ってすっかり落ち着いた心持ちで聞いていた。
「儂はどうしたらよかろうか? いや、娘に謝らねばならぬ。それは判っておる。判っておるが、一体なんと言って詫びたものか?」
謝るも何も、まだ生まれたばかりの赤子である。何を言い立てたところで
だが源太郎は決して混乱しているのでも錯乱しているのでもない。
彼は妻の腹の中にいた胎児を一個の人間として見ていた。
生まれ落ちた赤子は、男であれ女であれ、変わりなく大切な我が子であり、また一人の人間である。
一人の人間に対して過ちを犯したのなら、一人の人間に対する謝罪をせねばならない。
その謝罪の術を、彼は懸命に探っていた。
三つ重ねの菱餅の真ん中が、すっと体を立てた。一番上が慌てて避け、一番下もその逆方向に身を動かした。
源五郎は素早く広縁へ出、源太郎の前へ
「恐れながら」
源太郎が不可解げな眼をうろうろと動かした。どうにか源五郎のつむじに焦点が当てられる。
「堅苦しいことを言うな。源五よ、良い知恵があるのか? あるなら申せ。いや、云ってくれ」
「ございます」
強く断定的にいい、源五郎は頭を上げた。笑っている。不敵と言って良い笑顔だった。
源太郎はその顔に力づけられた様子だった。
「教えてくれ、頼む!」
弟の両の肩に手を置き、掴む。
「
「
源太郎の声には元の力が戻っている。しなびきっていた体にも張り出てきた。
眼前の弟の顔は自信に満ち満ちている。その知恵に期待が持てた。
源五郎は爽やかに、にこやかに笑って見せ、
「姫君に、特にお謝りになる必要はございますまい。兄上は姫君のことを、今まで通りに『こたろう』とお呼びなさるがよろしいかと存じます」
きっぱりと言った。
「なんだと!?」
驚きと困惑と、僅かな安堵、あるいは微かな喜びが混じった奇妙な声が、源太郎の頭の天辺から出た。
「小太郎は宗家の名ゆえ、宗家で無い我が家の跡取りに付けてはならぬ、と申したのは、その方であろう!?」
裏返った兄の声を浴びても、源五郎は笑顔を崩さない。
「宗家の嫡男の名ですから、分家の嫡男に付けることはよろしくないと申し上げました」
「それを、何故?」
「
妙に
源太郎は速い瞬きを繰り返した。
我が子に小太郎と名付けることを反対していた弟が、突如として意を翻し、賛成に回った、それも自分がその名を諦めようと決意した途端に、逆にそれを勧める側に付いた……ということに気付くのに、僅かな時を要した。
気付いた。そのことは理解した。そして弟の言うことは、ある意味で理屈が通っている。だがその通り方は斜めに過ぎる。ねじ曲がっている。
つまり、
「すりゃ、
「左様、屁理屈にございます。なれど、屁も
源五郎は笑っている。笑っているが、その笑顔にはふざけたところが一切無い。真面目に献策しているのだ。
源太郎の瞬きは止まらない。むしろ速度が上がった。口をもごもご動かして言葉を探している。探し当てた言葉が、
「儂が困っておるのは、生まれたのが娘ゆえ、女の名を付けねばならぬが、あの子供にはそれ以外の名を思い付かぬと言うことでな」
争点はすでにそちらに移ったはずだ。
「『こたろう』が男の名に思えるのなら、そう思える部分を省かれればよろしい。つまり『郎』を取ってしまえば良いのです」
源五郎は空中に指で『郎』の一文字を書いた。
「『郎』の
源五郎の指先が先の『郎』文字を消すように左右に揺れ、新たに『良』を描いた。だが、直後、指先は再び左右に揺り動く。
「……いや、これは郎の略字に用いられることもある。もっと別の『ろう』と読める文字を……例えば……『籠』」
中空に書かれる見えない『小太籠』の文字を、それを書く源五郎の指先を、源太郎はいぶかしげに見ている。
源五郎は言葉を続ける。
「さて『太』は大きいの意ですから、意味だけを考えれば、女児に
中空に『小多籠』の文字が浮かび上がる。
「さて……『
源五郎の指筆が、一瞬、天を指して止まった。源太郎は不安げな目をその人差し指の頂点に注いだ。
ピタリと天を指し示していた指先が、円を描き始めた。
はじめは小さく。徐々に膨らみ、らせんを描いて大きく。
幾重も描かれた真円は、大きく膨れきったところで、次第に扁平に潰れた形になっていった。
潰れた楕円は半円周の弧となった。
指先は同じ弧の軌道の上で反復を繰り返す。
揺り動くうちに弧の長さが縮んで行く。
そして、弧は丸みを失って、短い直線になる。
「父上の一字を頂戴して、『幸』」
短い細かな直線は、中空で『幸多籠』という文字に変じた。
「
源五郎の指は空中から広縁の床板の上に降りた。彼の頭も低く下げられた。
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