第6話 初子

 武田信玄の出家に追従して頭を丸め、いっとくさいこうりゅうと号した真田だんじょうのちゅうゆきつなは、その頃、信濃小県郡にあるいし城という山城に引き籠もっていた。

 その幸隆が、先年「発病した」と称して隠居の願いを出した。

 幸隆はまだ五十前だ。その知勇・武勇を高く買っている主君が、そう易々と隠居願を受理する筈がない。

 だから今もって真田家のは真田弾正忠幸綱である。

 躑躅つつじさきやかた南方の、武田家重臣達の屋敷が林立する一角には、立派な「真田屋敷」がある。

 それにもかかわらず、いっとくさいこうりゅうが砥石城に籠もっていられるのには訳があった。


 砥石城は元来、村上氏の城であった。かつて圧倒的な兵力で攻め込んだ武田軍が、なんとしても抜けなかった、要害の山城である。

 そのとき、この城は武力を持って攻めても落とせぬと悟った真田は、村上方諸将を武田方へ寝返らせる工作を始めた。

 元々小県に領地を持っていた真田家であるから、村上方に付いている同郷の国人衆との縁は深い。地縁が有り、血縁が有る。良縁が有り、悪縁がある。

 八方手を尽くしての調略が実って、ようやく砥石城をのは、天文二十年(一五五一年)の夏だった。

 村上氏は上杉領へ逃げ込み、真田一族(と本家の海野うんの氏)が失っていた旧領を、幸綱は武田信玄から与えられる形で取り戻した。

 そして元々は村上氏の勢力下にあった信濃小県郡のくにびと諸衆も、真田の説得に応じて武田に恭順してくれた。

 しかし、彼らは武田の武力と調略の中から己の利を感じ取り、味方に付いたに過ぎない。別の武力と調略に利を感じ取ったなら、ほんするという可能性が捨て切れようか。


 いっとくさいこうりゅうは天文二十二年(一五五三年)に砥石城番を拝命して以降、主命がない限りは、殆どこの山城に居座っている。

 幸隆の本拠地は、あくまでも取り戻した本領である真田の郷だ。

 その故郷の古城には、甥の真田まのすけつなしげを入れて、万事を取り仕切らせている。

 砥石城は真田の郷に近く、且つ、上田のたいらを――つまりは信濃小県郡ちいさがたぐんの国人諸衆の動きを――見渡すことができる場所だ。武田の勢力下である上野へ向かう街道沿いであり、越後・上杉の勢力にを利かせることが出来る。

 信玄は、このろうかいな武将が彼の地に居座り、諸方に目を光らせることこそ、武田家にとって有益であると考えたのであろう。

 幸隆が信濃を出ないことを、信玄はむしろ頼みとしている。


 だがそうなると、躑躅ヶ崎城下の「真田屋敷」は主不在ということになる。

 そこで代わって長男の源太郎のぶつなが住んでいる。

 真田源太郎は、信玄からもんじょうの官名を賜って以来、表向きには、げんもんのじょうと名乗っている。

 幸隆の隠居は正式なものではないが、それが正式なものになった暁には、源太郎が真田家の当主となるのであるから、彼が真田家当主の屋敷に主として住むことに異論を唱える者はいない。

 ところが、である。

 源太郎は、自身も主君からの信任が厚く忙しい身でありながら、家臣には任せきれぬ、つまりは極々内密な内容の主君の書状などを、本来の家長である父に届けると称して、甲州と信濃とを行き来することが多い。

 ややこしい話ではあるが、父の屋敷を預かっている源太郎自身が、その屋敷を空けがちになっている。

 そこで、さらなる代人が屋敷を守る役を負うことになる。

 これも信玄寵愛で精鋭部隊であるかでしゅうに抜擢されている荒武者・真田徳次郎まさてる――彼もひょう少輔しょうの官名を賜っているので、同輩達からはそちらで呼ばれている――である。


 こういった訳で、真田弾正屋敷の奥向きには、本来の主である幸隆の妻・やすと、主人代行の源太郎の妻・きた殿、そして代行のさらに代人である徳次郎の妻・相木殿あいきどのの、よめしゅうとめ達が仲良く住み暮らしている。

 徳次郎も中奥に一室を与えられていて、在府の時にはほとんどそこで寝起きしていた。



 師走十二月の薄寒い午後――。


 真綿を引き延ばしたような薄い雲が、空を覆い尽くしていた。風は重く、冷たい。

 真田源五郎と源次郎は真田屋敷門前で下馬した。

 門は大きく開かれている。門脇の小屋は番小屋と小者の住まいを兼ねたものだ。その中に人の気配がある。

 源五郎は屋敷とその上空を、しばらく眺めていた。その視線の鋭さは、戦を前にして敵陣を観測し、その勢いを占い見る「ぼう」のそれそのものだ。源五郎は敵陣ならぬ肉親の屋敷に対して、それを行っている。

 ややあって、源五郎の視線は天と地を行き来しはじめた。

 その目には、屋敷が何やらそわそわとした気配で満たされているのがいる。

 期待と不安、喜びと憂い、相反する気の動きが、ない交ぜになった、不可思議な興奮状態が、そこにある。

 源五郎は小首をかしげた。


義姉あねうえは……産み月であったかな?」



 二十七歳の源太郎と、五つばかり年下の妻・於北は、縁組みして早六年ほどになるが、なかなか子宝に恵まれなかった。

 この時代の感覚では、二人とももはや中年を過ぎたといって良い。

 年齢はともかくも、封建の時代に、武家に嫁いだ女性が数年経ても子を産めぬとなれば、それを理由に離縁されても文句は言えない。離縁しないとしても、夫は側室を入れて跡継ぎを作らねばならない。

 この夫婦は、どちらもしなかった。


「わしらに子が生まれないとするならば、それも真田のうぶすながみたるはくさんごんげんの思し召しであろう。それならばそれでよい。この後、跡継ぎが必要となったそのときには、弟のうちの誰か、ないはその子供らの誰かを、養子に迎えれば良いのだ」


 源太郎はそういってはばかることがなかった。

 源五郎が来年に妻帯するというのを聞きつけるや、


「お前に子が出来たなら、養子に迎えさせてくれまいか? 息子なら当家の跡取りに、娘ならに良い婿を迎えよう」


 祝言の日取りも決まらぬ内から、気の早い話をしたものだ。

 源五郎にしても、初子が生まれたならば、それは彼が養子に入る武藤家の跡継ぎという事になるのだから、おいそれとに出す様なことは出来ようがない。


「そのときになってみぬと、ようにもお返事出来かねます」


 断る心算こころづもりを濁していう弟の苦笑いを、源太郎は真顔で見つめて、


「良いな、忘れるなよ。忘れてもろうては困るからな」


 決めつけた。

 本気なのだ。

 何分にも、源太郎と次弟・三弟は、十歳とおも年が離れている。この長兄からすれば、下の弟たちは、同世代というよりも、一世代下のように感じているのかも知れない。


 ともかくも、この年の初めまで、源太郎・於北夫婦は実子を諦めていた様子だった。

 それが弥生三月も中半を過ぎた頃になって、於北夫人が懐妊したことが解った。

 待ちかねたういであるから、は大変に浮かれている。また待ちかねたはつまごであるから、は大いに喜んだ。

 家人けにん達にも安堵が広がったし、弟達は心から祝福している。

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