第2話 兵部

 聞きなじんだ声だ。不機嫌を隠さない声音だ。

 源五郎はさらに背を反り返らせた。

 真っ逆さまの世界では、戸障子が開け放たれていた。四角く切り取られた淡い逆光の中に、二つの人型の影がある。

 一つは、戸障子の向こう側にあって、おびえた青白い顔で室内をのぞき込んでいる。これは源五郎に仕えるわかとうかけいじゅうだ。

 もう一つ、戸障子の内側に入りつつある、不満を満たした赤い顔で、とうこんのような細く鋭い目をしている。源五郎を睨むこの若者は、


むろひょう


 源五郎は口の中で彼の名をつぶやいた。覚えず口元がゆがむ。


「何がおかしい?」


 兵部は床を踏みならして源五郎に近寄った。ドスンと大きく音を立てて尻を落とし、袖をわざとらしく大きくひるがえした大きなな動きの所作で、源五郎の背後にする。

 背後といっても、このときの源五郎はりに後ろを向いていたのだから、兵部の不機嫌顔をまともに――真っ逆さまに――見ていることになる。


「何もおかしくはない」


 源五郎は背のそりを戻し、体を反転させ、室賀兵部と向き合いに座り直した。座り直したが、いらつきの度を増しつつある兵部の顔は見ていない。

 まず源五郎が見たのは、戸口の向こうで当惑し、不安げに若い主人の顔色をうかがっている十兵衛であった。


じゅうよ」


 呼びかけて、目顔で下がる様に命じると、十兵衛の顔にぱっと安堵の色が広がった。

 一礼して小走りに去って行く十兵衛の背から、これも兵部の渋っ面へと目を移した源五郎は、


殿でんこそ、それがしに何かご用か?」


 もったいぶった丁寧さで訊き返した。


 むろひょうだいまさたけは、真田源五郎昌幸と同じく信濃国人衆であり、源五郎と同様に武田家に差し出された証人ひとじちだ。

 年頃も源五郎と近い。境遇も幾分似ている。源五郎は三男坊だが、兵部もまた上に兄が――源五郎が知る限りでは二人――いる。

 武家の三男といえば、長じれば兄の家来となり、あるいは他家に養子に出される立場である。

 実際、源五郎は養子に出ることが決まっている。

 他方、兵部は実質的なちゃくなんであった。

 彼の長兄は若くして急逝している。次兄は同じ村上氏の一族で、峠を一つ超えたりんごうの領主であるしろ家へ養子に入っていた。

 跡継ぎのお鉢は、彼の元に回されてきたのだ。


 室賀家は清和源氏村上氏の支流で、信濃国ちいさがた郡の室賀鄕を治めている。そのさとは、千曲川の左岸であり、上田盆地の南側が勢力域だ。居城は山裾にある。

 真田家の所領であった真田鄕は、同じ小県郡だが、千曲川という暴れ川を一つと、太郎山という面倒な山と、それらが創り出した盆地とを挟んで、北側に位置している。

 二つの家は、遠い様な近い様な、実に持って微妙な距離で向かい合っていた。

 しかし、境を接していないからといって、争いがないという訳ではない。お互いに勢力圏を広げようとして、間に点在する小豪族を巻き込んでの小競り合いが度々起きている。

 今は両家とも武田家に従っているから、直接に斬り合う様な争い事は止んでいるが、水面下での確執は「全くない」とは言い切れぬ物がある。


 室賀郷と屋代郷の間にある室賀峠は、まんようの昔には既に京からえちへ抜ける街道の要所であった。幾人ものぎょう、あるいは有名無名の歌人たちが、この地を歌に吟じている。

 時は過ぎ、戦国乱世となっても、この地の重要性は変わらない。

 彼の地は、甲斐武田の勢力が越後上杉のそれとぶつかる境界線の最先端だからだ。

 故に武田方としては、室賀家が上杉方へ付いてしまっては困る。

 何分、室賀家の本家は長く敵対している村上氏で、これは上杉と親しい。絶対に裏切らないと確信出来る重要な人質を取っておかねばならない。

 室賀家としても、武田に攻め立てられては困る。

 なにしろ周囲の信濃国衆は殆ど武田のにあるのだ。万が一の時は、全方位から矢玉が飛んでくることになる。絶対に裏切らないと信用されるに足る重要人物を証人にせねばならぬ。

 双方の思惑によって、室賀の実質的な嫡男は証人として武田に差し出され、躑躅ヶ崎館に棲み暮らすことを余儀なくされていた。


 向き合いに座った二人は、しばらく言葉を発しなかった。

 部屋の中の火は、小袖をかぶった火桶の埋め火だけだ。

 床板が冷たい。

 どれほど黙りこくっていたものか。当人達が思うほどは長くはない時が流れた後、しびれを切らしたのは兵部であった。


せんべつをよこせ」


 出し抜けに言う。


 源五郎の片方の眉が僅かに持ち上がった。


「おぬし、どこかへ行くのか?」


信濃くにに帰る」


「それは、お屋形様ので?」


「お屋形様からはお許しを得ている」


「つまり、のだな?」


「お屋形様に行って良しと言われたのだから、同じ事だ」


「何事のために?」


「父が……寝込んだ」


いちようけん殿が?」


 源五郎の背筋が伸びた。

 室賀満正も真田幸綱がそうしたのと同じように、信玄の出家に伴って頭を丸めて、一葉軒入道を号している。


「父も高齢としゆえ、どうごうかいみょうになるやも知れない」


 冗談や軽口で言っているのはないことが、源五郎にもすぐに知れた。兵部の顔色が青白く変じている。


「急な事だ」


 源五郎は低い声を絞り出した。


げんしちろうがわしの代わりに証人として出される。というか、もうわしの代わりにわしのに入っておる」


「さすがに名家・室賀家のすることだ。はやまわしだな」


「ほざくな」


「なんの。本心そう思って、感心して言っているのだ」


「抜かせ」


 吐き捨てるかのごとくいい、兵部は口を固く結んだ。何か別にいいたいことがありそうなのだが、それを言葉に出来ない、いい出せない、そんなもどかしさが、ヒクヒクと動く唇の端から見て取れる。

 黙り込んでいる兵部の様子に、かえって源五郎の方がじれったくなって、


「で、いつ出立する?」


 呼び水を入れた。兵部は間髪を入れずに、


「今、すぐにだ。迎えが外で待っている」


 この答えには源五郎も驚かざるをえない。


「それは……さすがの名家・室賀家のすることでも、いささか早手回しに過ぎないか?」


「うるさい」



 小さく、鋭く、くしゃみのように言って、兵部は奥歯を強くかみしめた。こめかみが拍動している。


 確かに、人質暮らしは気苦労が多い。

 送られてきた証人は、敵対していた、あるいは味方ではなかった勢力ところからやってきた、言ってみれば「訳ありのしんざんもの」であるのだから、武田家の旗本である甲斐衆からの風当たりも無いではない。

 その辛さはあったにしても、じんさいせいせいたる武田信玄の幕屋内にあれば、故郷の、それこそ山奥の片田舎である信濃小県では、まず見聞きすることも学び取ることも出来ない事柄と出会う喜びが山とある。人質とならねば親しく知り合う事も無かったであろう人々が、ここはいる。

 兵部は甲府を離れたくないのだろう。

 少なくとも、これほど急に、慌ただしく引き戻されるような帰還は、望んでいないに違いない。


 源五郎は大きく息を吐き出した。

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