第42話 昨日の平成の街
「やっぱり気になる。あの婆さんが……」
劇団での居残り自首稽古を終え、バイト先に向かう途中。
平田成典はくるりと引き返した。
浅草ひさご通りの四つ辻、職場のステーキ店への途中の路地で、燃えるごみのように転がっていた浮浪者の老婆。
「あんたもあたしと同じだよ」
数日前、妙に冴え冴えと光る目で見上げられ、その体から立ち上る強烈な便所のような臭気と共に閉口したっけ。
あれは、何を言いたかったんだろう。
『あんた』。自分をそんなに近しい呼び名で呼ぶ女は一人しかいない。
平田は、中途半端に話しかけた後、老婆を放置して逃げ出したことを悔やんだ。
今日は平成30年4月30日。
大型連休の最中でしかも月末だから、店は常連と観光客とですさまじく混んでいるはずだ。
そういう時は出来るだけ早めに入店して仕事にかかるのが礼儀というか、職場で可愛がられるコツだ。
だがそんな重々承知しているローカルルールとは逆に、彼は職場まであと少しという手前から戻り始めた。
浮浪者の老婆は、いた。
言問通りを渡った先、𠮷原方面へと続く千束通り商店街の、路地の闇の奥からのっそりと現われた。
汗と脂で固まったざんばら髪、埃と泥や汚物で汚れたぼろぼろの生地をまとった姿。
それは本当に幽鬼か、人生に堕ち続けてたなれの果てのようだった。
だが、平田の姿を見た老婆の唇が動いた。
『ひらたさん』と。
そして、おぼつかない足取りでよたよたと車が行き交う夜の車道に歩き出した。
避ける間もなく、ドーンという衝突音を残して、老婆は横から突っ込んできたワゴン車と重なり、べちゃっと消えた。
車が全速で立ち去った後、黒い血だまりの中に黒い老婆がひしゃげていた。
「和子! 」
平田は急いで夜の言問通りを横切り、穢い老婆を抱き起こした。
ワゴンに轢かれた身体はぐにゃりとつぶれ、顔面もぱっくり割れていた。
元々のすえた様な臭いに流れ出る血の臭いが合わさって、たまらない。
だが平田は老女を胸に抱きしめた。
和子、和子と呼びかけても、うめき声も反応もない。
息をしている気配すらない。
手足は在り得ない方向を向いてだらりと垂れている。
地面に着いた膝と、彼女を抱きかかえた手が滑る。
血と、傷口から弾け出た内臓だろうが、構わない。
「だれか、救急車呼んでください! この人を助けてください!」
泣き叫ぶ平田の腕の中で、和子の体は次第に冷たくなっていった。
誰も立ち止まらない。
どの車も止まってくれない。
誰一人としてパトカーや救急車を呼んではくれない。
平田は腕の中で死にゆく和子を呆然と見つめていた。
その時、スマホの着信音が響いた。
自分のポケットの中だ。
平田はゆっくりとスマホを取り出して、耳にあてた。
マネージャーからだった。
「平田君、やったね。この前オーディションを受けた連続ドラマの親友役、見事最終選考合格だよ。これが当たれば映画化やスピンオフのネットドラマと続くそうだから、でかした。いやあ、待った甲斐があった。君も平成最後の年にやっと芽が出たね」
いつもは無関心で冷淡な、所属プロダクションのマネージャーの声が弾んでいる。
「明日一番に六本木の局にご挨拶に行くから、今日はバイトも早く上がらせてもらって帰りなさい。詳しくはラインで送る」
平田はふらりと立ち上がった。
老婆の身体が載っていたはずの膝が、軽い。
下を向くと、和子の遺体も血だまりも、服に着いたはずの血のしみすらも消えていた。
言問通りの信号が青に変わり、車が猛スピードでとばしていく。
「はい……ありがとうございます。こちらからもご連絡させて頂きます……」
返事をしてスマホを切った平田は、辺りをよくよく見まわした。
だがぼろきれのような浮浪者の老婆の姿も、轢いた車の痕跡もどこにもない。
『昭島和子』は彼の前から姿を消したのだ。今度こそ完全に。
平田成典はよろよろと足を踏み出した。
自分のアパートに帰ろう。
でもその前に浅草の外に行くんだ。この街から出るんだ。
歩きながら、バイト先に電話をかけた。
大きな仕事が入ったので、お店を辞めます、と。
彼は立ち止まり、古い商店の硝子戸に姿を映してみた。
ジャケットをしゃきっと着なおし、襟元と髪を整える。
スッと表情が変わった。
その顔はもう、毅然とした大人の役者の顔だ。
どこかでクラッカーの音と若者たちの嬌声が聴こえる。
テレビやネットや、都心の繁華街で大勢の人々が集まり、騒いでいる。
日付が変わり『平成』が終わったのだ。
平田は勝手知ったる駅へ向かった。
今度こそ、この街から、外へ出るために。
(了)
観音裏の迷宮 南 伽耶子 @toronamasan
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