第41話 昭和元年の終わる冬

 雪が降っている。

 青年は薄い粗末な外套の襟をかきあわせ、鳥打帽を深くかぶり直した。

 指の先が破れた手袋は、片方をどこかに無くしてしまった。

 底が破れた靴に体温で溶けた雪がしみ込んで、足先の感覚がない。


 当てもなく歩いている浅草六区の街は、一部を残して震災の傷跡は見られない。

 ぽっきりと途中で折れた十二階、凌雲閣は軍が爆破した後片付けられ、興業街になっているし、芝居小屋や剣劇の小屋、映画館と続々と建物が建っている。

 隅田川の向こうの本所や向島も、大震災の火災で灰塵に帰したのに、もうびっしりと小さな長屋が軒を連ねていた。

 焼け出された新橋や京橋、日本橋の飲食店も、観音堂が焼け残った浅草に引っ越して、ますます栄えるようになるだろう。

 そう商店主たちは話している。

 だがそんな景気のいい話は、平田成典には関係なかった。


 彼は職を失ったばかりだった。

 元々商社の事務員だったが、震災後の大不況と事業拡張に伴う会社の借金で人員整理され、辞めさせられたのだ。

 もともと目だった技術も才覚もなく、のんびりと最低限の書類仕事をこなしている『ふり』をしていたのが目についたのだろうか。

 素行不良とされた他の退職勧告組二人に比べたら自分など平和な方だし、理不尽とは思ったが、どうにもならないのだから言うだけ虚しい。



 昨日、天皇陛下が身罷られたらしい。

 若き新天皇陛下が即位されるとの話で、世は持ちきりだ。

 大正の世が終わり新しい時代が始まるのだろう。

 新しい世界は、果たしてどんな世の中になるのか。

 自分も明るい方向へ行けるのか。

 平田はそうは思えなかった。

 自分はもっと暗くみじめな道を、一人で歩いて行かなければならないだろう。

 以前誰かと一緒にいた気がするが、それは幻の記憶だったかもしれない。



 降りしきる雪が道路を白く埋めてゆく。

 全身にまとわりつき、肩や腕に積もっていく様を見ると、結晶がはっきりと見える粒だった雪だ。

 上空の気温が高いのだろう。

 暗い夜の底を白く照らしながら、べちゃべちゃとした柔かい雪が積もり、人々の足元で薄黒く汚れていく。

 天から降って来た時は純白でも、この雪のように汚されないものはこの世にないし、また汚されたものを包み込んでゆく雪の結晶の純白があるように、汚されたままという事も無いのだ。

 だが平田は、自分に復活の機会があるとは思えなかった。

 彼はすきっ腹を抱えて浅草寺の周りに寝泊まりし、あてもなくほっつき歩いていた。


 ふと、路地の間から、か細い泣き声が耳に飛び込んだ。

 降った雪が音を吸い込んでしまうのか、常より大層静かな夜。

 その切れ切れの泣き声は今にも途絶えてしまいそうだった。

 迷子か、折檻に遭って家を締め出された子供だろうか。

 こんな寒い夜に可哀想に。

 平田は声の方に足を向けた。



 震災から復興成った浅草の、雑然とした路地の間。

 植えられた南天の木の下で、今にも途絶えそうな声を上げていたのは、子供ではない。

 赤ん坊だった。

 赤や桃色の綿入れでいっぱいに体を包まれ、農具のざるの中に置かれていた。

 住民は気付かないのか、気付かないふりしているのか、誰も出てこない。

 平田は驚いて駆け寄った。

 辛うじて雪のかからない掘っ立て小屋の軒下ではあったが、赤ん坊の手足は冷え切って氷のようだ。

 抱き上げるとひんひんと鼻の詰まった声で泣き、平田の方に顔を向けた。

 まつ毛の長い、つぶらな瞳が彼をとらえた。


『どなたかお優しい方、お願いですから育ててください。この子の名前は和子です』


 そう書かれた手紙が、身体の下に置いてあった。


「和子、やっと見つけた。一緒に行こうな」


 平田は赤ん坊を外套の中に入れた。

 冷たい手足がぺたりと押しつけられ、やがて血の温かさが伝わってくる。

 彼は大事に『和子』を抱きしめ、雪の中を去っていった。

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