三 立秋編

7立秋 涼風至る


涼しい風が立ち、秋の気配を感じる頃。暦上は秋といっても、まだまだ暑く、空には入道雲が浮かんで、蝉が鳴いている。


己の想いを自覚してから、陸と水木先輩の関係は何も変わらなかった。陸は、水木先輩に想いを告げるつもりは毛頭なく、墓場まで持っていくつもりだ。男から好意を寄せられる事事態、陸にとっては異質だった。それを憧れの先輩に抱いている事実に針を呑むような呵責の哀しみを感じる。恋心は煩わしいだけだった。

陸にとっての理想は、このまま何事もなく先輩後輩関係を保ち、卒業後も先輩の絵を見られる立場にあり続けることだ。告白は、その理想を脅かすだけで、百害あって一利なし。陸は、現状に満足していた。想いを隠して接する事に、良心の呵責を感じるが、何事もなくつつがなく生活を送っている。


頭に河内先輩の事がよぎったが、陸はあえてその存在から目を背けて、意識しないようにつとめた。河内先輩の事を考えると、再びよくない感情が溢れ、自分ではない何かになってしまいそうで、恐ろしかった。幸い、嫌なものから目を背けて、忘却することには長けていた。


壁画が完成すると、三年生はめっきり足を運ばなくなる。予備校などで忙しいのだろう。


陸は、課外授業を終えると、鞄を掴んで教室を出る。足を向ける先は美術室ではなく、靴箱だ。今日は部活が休みなのだ。陸が、靴箱で履き替えていると、背後から名を呼ばれた。


「陸―!」


振り返ると、澤田の姿がある。


「どうした?」


「たのむっ絵の具を貸してくれ」


「…何に使うんだ?」


陸は渋面を作りながら、問いかけた。絵の具は部費と学校から出る資金で賄っている。個人的な事情で、使用してはいけないと美術部員は全員、田中先生から釘を刺されていたのだ。


「写真を取りたいんだ…後輩が…美術部に知り合いが居ないから、頼まれてさ…」


困ったように眉毛を八の字にして、陸を見る。


「写真を撮るだけなら…まぁ…」


ため息を付きながら、陸がそう言うと澤田は嬉しそうに笑顔を浮かべた。澤田に尻尾が生えていたら、ブンブンと左右に振っているだろう。


「ありがとうっ!」


「色の指定はあるか?」


「なんでもいいそうだ」


「じゃあ取ってくるから、写真部で待ってな」


「分かったー。待ってるなー!」


澤田はそう言い残し、その場を去っていった。陸は渋々掃いた靴を脱いで、ロッカーに戻す。


階段を使って、芸術棟の二階に上がり、端に位置する美術室に向かって廊下を突き進む。廊下は静かで、人気がない。途中、書道室をドアから覗くが、ガランとした空間に古い机が整列しているだけで、人の姿がなかった。きっと書道部もお休みなのだろう。陸は、閑散とした廊下を歩き、漸く目的地である美術室が見える。アトリエには、電気がついていない。部活がないので先生は帰ったのだろう。ひょっとすると学校に来ていなかったのやもしれない。

ドアを開こうとドアノブに手を掛けると、中から人の声が聞こえて、手を止めた。その声が溌剌とした秋元先輩だったら、迷うことなくドアを開けて挨拶をしただろう。だが、美術室から聞こえてきたのは、猫のように甘える声だった。その声に聞き覚えがあって、陸の頭に嫌な予感が過る。

頭の警鐘がけたたましく鳴り、ここに居ては危険だとサインを出す。だが、陸の足は地面に縫い留められて、そのドアの先で聞こえる会話に耳を済ませた。


「ねぇーいいでしょ。しようよ…」


「はぁ?ここで?」


突き放すような冷たい声は、陸が恋い焦がれている水木先輩のものだった。陸が聞き間違えるはずはない。

冷たい水木先輩の声に、全く堪えてない様子で、甘い声が再び響く。


「じゃあさ、キスだけでいいよ。」


甘える声は、水木先輩の彼女の河内先輩のものだった。

中からガタリと椅子を引く音が聞こえた。その後、リップ音がドア越しに響いて、陸は耳を塞ぎたくなる。その場を去ろうと、足に力を入れるが、衝撃のあまり石のように硬直した足は、意志に反し動かない。室内で何が繰り広げられているのか。見ずしても容易に分かる。水木先輩と河内先輩は恋仲だ。恋人なら当然、性行為に準ずる行為だってする。

覚悟していたはずなのに、目の当たりにすると、心がバラバラになりそうな程痛かった。喉から哀しみがせり上がる。同時に、腹の奥でドロリとした感情が、渦巻いた。陸は必死にそれを抑制する。


「んふっ…ねぇ。蒼君。私のこと好き?」


「あぁ」


「陸くんより?」


突如出された己の名前に心臓を掴まれる。なぜ、河内先輩の口から、陸の名前がでたのか、陸は冷や汗をかいながら、混乱した。そして、水木先輩の答えを聞きたくなかった。耳を塞ごうと両手を上げる。聞かなくても分かっている。だって、彼らは恋人なんだから。一介の後輩と比べられても、勝ち目なんて無い。


「あぁ」


耳を塞ぐ前に、無情に響いた声が耳朶に響いた。その声が陸の心にとどめを刺す。陸は自分の心が壊れる音を聞いた。絶望で足元から床が崩れていくような感覚に陥る。分かっていたはずなのに、水木先輩の声で再認識させられると、格別な痛みが胸に走った。同時に、箍がはずれ、黒いドロリとした感情が湧き上がる。それは、水木先輩に好きだと肯定された河内先輩へ向けられた。この間とは比にならない強い感情は、抑制しようとしても、とめどなく溢れ、抑えがきかない。そして、はあっという間に陸の体を呑み込んだ。呼吸が浅くなる。醜い感情は、明らかに嫉妬だった。彼女として水木先輩の横に居る河内先輩の存在が鬱陶しくて、邪魔で、憎くい。陸は、水木先輩の後輩という立場に満足していた。そのはずなのに、キスをして、甘えられる彼女の立場が口から手がでるほど羨ましかった。


涙が溢れた。つうっと頬を流れる雫が、床にポタポタと落ちる。そのまま陸は覚束ない足取りで、音もなくその場を離れた。


フラフラ歩き続けながら、頭の中で先程の会話を思い出しては、陸は自分の心を抉った。


醜い嫉妬心に苛まれた陸は、今までのように河内先輩を無視できない。彼女の影が付きまとい、今までのように水木先輩の前で笑える自信がなかった。水木先輩の顔を見る度に、陸は河内先輩の存在を意識し、嫉妬する。嫉妬すれば、きっと水木先輩に良くない態度を取ってしまう。後輩としての立場を失ってしまう。


「陸くん?」


その声に顔を上げると、そこには秋元先輩と岸田先輩が手にプリントを持って立っていた。そこで陸は、三年生の棟まで歩いてきたのだと気づく。


「先輩。」


笑おうとしたが、駄目だった。気が抜けたのか、陸の双眸から涙が決壊し、涙が乾いた頬に、再びポロポロと頬を伝う。急に泣き出した陸に、秋元先輩だけでなく、常に冷静な岸田先輩までもがぎょっと目を剥いた。


「どどどどしたの?!陸くんっ大丈夫?落ち着いて?」


「貴方が落ち着きなさい。…陸君、大丈夫かね?」


二人の先輩に心配げに覗き込まれて、陸は嬉しさに更に泣き出した。二人は顔を見合わせて、陸の肩を優しく抱いた。


「陸くん。ここじゃ、人通りがあるから場所を変えようか?歩ける?」


「近くの空き教室を使おう。…手を貸そうか?」


「うん。お願い。」


二人に連れられて、陸は空き教室に入る。


秋元先輩は陸を椅子に座らせて、岸田先輩は教室のエアコンを付けた。一息ついて、漸く落ち着いてきた頃に、陸は痴態をさらしたことの羞恥心に見舞われる。


「陸くん。話せる?」


「まぁ、なんとなく予想はつくがな…陸君。話すべきだ。悩みすぎても良い答えは出せない。一度外へ吐き出すのも一つの策だ。」


先輩たちの優しい声と、心配そうな顔に、陸は胸が痛くなる。できれば、誤魔化したいと想った。しかし優しい彼女らなら、受け止めてくれるのではないだろうかと、浅ましい想いを抱いてた。声に誘われ、陸は躊躇いながら口を開いた。


「実はですね…最近気づいたことなんですが、…俺は水木先輩が…その恋愛的に好きでして…」


「それは今更だね。」


「既に知っているが?」


「え…」


陸は顔を上げて、涙で腫れた目で二人を見る。二人は陸の告白を難なく受け止めただけではなく、既に知っていたと言った。二人は平然とした表情で、いつものように会話する。


「寧ろ、遅かったぐらいだよ。」


「はたから見たら、かなり分かりやすかったしな。」


「で、陸くんはなんでそんなに泣いているの?辛いことあったの?」


「水木君が何かしでかしたのか?」


陸は拍子抜けして、息を吐く。そしてポツポツと語りだした。


「…さっき美術室に言ったんですけれど、中で水木先輩と河内先輩がいて…聞いちゃいけないって思ったんですけれど、どうしても気になって…会話を聞いたんです…すると、二人は…キスをして…水木先輩が俺より河内先輩の方が好きだって言うから…ショックを受けて…はは…知っていたはずなのに、本人から聞くと…心にかなりキて…つい、泣いてしまいました…」


軽く笑いながら、鼻の奥に独特な痛みが広がり、泣きそうになる。その言葉を聞いて、岸田先輩は首を傾げた。


「ん?…おかしいな…アイツは君のことが…」


「ちょっと、美香?何を言っているのかな?はは、この子ったら」


秋元先輩が岸田先輩の言葉を遮り、手で口を塞ぎながら、焦った表情を浮かべた。陸は、二人を不思議そうに見上げた。

二人は陸に聞こえないように身を寄せ合って、耳打ちする。


「ちょっと、何をするんだ。」


「私達が手助けしてもいいと思うけれど、…二人の問題なんだから、二人で解決すべきよ。あまり外野が出しゃばるらない方がいい。」


「だが、この場合は明らかに伝えた方が、事が円滑に運ぶ。」


「今はね。でも、この場は凌げても、二人がこれから壁にぶつかったら?私達はずっと彼らの側に居るわけじゃないの。この二人で乗り越え、解決できないと、これから深刻な事態に陥ったら対処できないかもしれない。杞憂かもしれない。でも、私達は当事者ではなく、見守る側なの。」


秋元先輩の言葉に岸田先輩は言葉を詰まらせて、「確かに一理ある。」と呟いた。陸にはその会話が聞こえず、何を話しているのだろうかと首を傾げた。

二人は和解して、再び陸に向き合う。


「コホン…えっとね、陸くん。私は陸くんの心のままに振る舞えばいいと思うの。」


「心のままに…」


「そう。あまり深く考えすぎないようにね。上手く行かなかった時はその時よ。…でも決して諦めない事。最後に笑うのは、我慢する人でも諦める人でもなく頑張って諦めない人。その姿に、人は心を動かされるんだと思う。」


陸は秋元先輩の言いたいことが何となく分かった。まるで体育会系のような精神論だ。それを実践できる術がない。


「だって、俺は男で…顔も平凡だし…告白しても玉砕が目に見えている…」


「玉砕の何が悪いの?」


「…先輩の絵が見れなくなる…」


「それが先に来るのか」と岸田先輩が呆れた顔で言った。秋元先輩も少し顔が引きつった。


「…まぁ、絵に関しては美香に任せればどうとでもなるね。」


「何故私なのだ…」


岸田先輩が不満そうに秋元先輩を見る。


「だって、水木くんは、美香みたいなネチネチした執念深い人苦手みたいだし。美香が頼めば絵はいくらでも見れるよ。」


「ほー。私のどこがネチネチと執念深いのか、教えてもらいたいものだ。」


岸田先輩が額に青筋を立てながら、ニッコリと笑った。陸にとって、岸田先輩は真面目で誠実で、少し神経質な人だった。執念深さとは無縁のように思えて、秋元先輩の言葉に疑問を抱く。そんな陸の顔を見て、秋元先輩は肩を竦めた。


「…たしかにね。一見真面目な優等生でしょう?…でも中学の時凄かったんだから。当時好きになった人に、執念深く付きまとい、『自分と付き合ってくれ。必ず幸せにする』って言いまくってたの。まるでプロポーズね。でも、その子は美香のことなんて眼中になくて、面倒くさいなぁ程度に思っていたの。美香は、何度も告白して何度も振られた。でもね、美香はめげなかったの。で、色々あってね。その子は美香の執念深さに折れて、絆されたみたい。本当、美香の執念深さには舌を巻くね。」


秋元先輩はやれやれと肩を竦めた。陸はその話を聞いて瞠目し、岸田先輩を見る。岸田先輩が情熱的な一面を持っているのだとしり驚いた。岸田先輩は言葉を肯定するように、渋面を作っていた。


「美香は、自分の要望を通すためには地獄の果まで付き纏うほど、執念深いのよ。そんな美香が水木くんは苦手みたい。最後には折れるに決っている。だから、玉砕後の絵に関して、何も心配することはないよ。」


「は、はい。」


岸田先輩のエピソードが強烈過ぎて、陸は気の抜けた返事をする。秋元先輩は優しく陸の頭を撫でて、笑った。


「私は陸くんの味方だから。頼ってくれると嬉しい。」


その屈託ない笑みに、陸は救われた。



陸が落ち着いて、空き教室を後にすると、二人の間にこんな会話が交わされた。


「美香が、陸くんにあんなに優しいなんて驚いた」


「後輩だから当たり前だろう。」


過去を暴露された尾を引いているのか、岸田はどこか不機嫌そうだ。


「だって美香、最初は陸くんのこと目の敵にしてたじゃない。どういう心変わりした訳?」


「…女の子同士は恋ができんからな。」


「え?陸くん男だけれど…」


「性質の話だ。性別じゃない。」


独特な自論を展開する岸田の言葉に、秋元は呆れ顔で相槌を打つ。彼女には、理解できない考えらしい。


「ふーん。でも、私と美香は女同士だけど付き合っているよ?」


「…君は、私だから付き合っているのだろう?女だからではない。…君は元々男性が好きなのだからな…」


岸田は、白い頬を赤らめながら言った。秋元は珍しく照れる岸田に笑みを湛える。


「…そうだね。美香だから付き合っているんだよ。…だから、妬いちゃった」


「当たり前だ。…ん?妬いたとはどういう意味だ?」


岸田は胡乱げに片眉を上げて、眼鏡越しに返答を催促する。


「だって、あんまり他人に興味示さない美香が陸くんにはなーんか優しかったんだもん。」


口を尖らせて秋元が言った。その言葉に、岸田が軽く咽る。


「ゴホンゴホンっ…私には露里だけだ…」


「え?今名前呼んだ?珍しー!もう一回呼んで!!」


「はぁ!?何度もは呼ばん!減るだろう!」


「減らないよー何言ってんのー」


「その…勿体無いんだよ…」


モゴモゴと口の中で岸田が言うと、秋元はふてくされた表情を浮かべる。


「えー意味わかんないー」


「うるさい!いいから教室に戻るぞ!」


照れ隠しに怒り出した岸田に秋元はため息混じりに返事をする。


「はーい。」


「なぁ、露里…幸せか?」


窺うような岸田の表情は、中学校の時に堂々と告白してきた彼女と同一人物には見えない程、弱々しかった。あの頃は必死だったんだろうなぁと思いながら、その問いに秋元は胸を張って答える。


「もちろん。」


二人は笑い合いながら、空き教室を後にした。



8立秋 蒙霧升降す


朝に深い霧が立ち込める頃。陸は水木先輩とぎこちないままでいた。秋元が背中を押してくれた言葉がぐるぐると頭の中に渦巻くが、いざ水木先輩を前にすると、どうしても尻込みしてしまう。告白など夢のまた夢であった。だが、思いを打ち明ければ楽に慣れるのではないかと、考えることが増えた。陸にとって、水木先輩の恋心は重すぎて、一人で抱えていると潰れそうになる。ならば、いっそその恋心を終わらせたいと思うのは人間自然なことではなかろうか。告白して、恋心に区切りをつけたいを思いながらも、ウジウジ悩んでいる自分に、陸は自己嫌悪していた。


秋元先輩から任命された飲み物を運ぶ係も、後輩に押し付けた。陸は、ここ一週間ほど準備室を訪れていなかった。

後輩はしばしば、お茶を運ぶことを忘れるようだ。それに、夏の暑さに、喉はいくらでも乾く。水分摂取は大切だ。だから、最近はよく水木先輩が美術室に現れる。

その度に陸の神経は水木先輩の一挙一動に注がれて、手元が疎かになる。

遠い水木先輩との距離に悲しくなるが、陸が心を落ち着かせられる距離だった。


陸は現状を打破できず、頭の毛が抜け落ちそうなほど悩んでいた。


「でさー、家にいる猫がさー」


陸と机を挟んで向かい合うように座っている澤田は、家の猫について延々と語っていた。この間、頼まれた絵の具を忘れていた陸を、澤田は責めなかった。ただ、美術室にきて、陸の前を陣取り、「後輩がすっごく睨んできて、肩身が狭いのよー」と陸の過ちをチクチク刺激する。絵の具を借りてくるように頼んだ後輩からみたら、澤田が約束を破ったように見えるのだろう。実際は、陸が悪いのだ。そう思うと、澤田の雑談に付き合うぐらいなんてこと無い。罪滅ぼしだ。


「へー。澤田の家の猫、長生きだな」


「そうなんだよー。でも、すっげぇ元気でさ。俺より長生きするんじゃねーかって思うぐらいだ。」


「そりゃすげぇな。長生きすると猫の尾は2つに分かれるんだっけ?」


「こわっ。そんなみーさん見たくないっ。そういえばさ、この間猫を拾って…」


こうして澤田の話はコロコロと変わる。それが面白いから、陸は特に気にしていない。澤田が少し前に拾ってきたという猫の可愛さを熱心に語るので、陸は薄く笑った。


その時、美術室のドアが開く。それから響く足音だけで、見ずしてもその人物が誰なのか分かってしまう。そんな自分が気持ち悪かった。


澤田は、硬直する陸に構わず好き勝手に話す。陸は固い面立ちで、先輩が美術室から一刻も早く去る事を願った。


「おーい。大丈夫か?」


その声に陸は我に返り、視線を上げる。反応の薄い陸を、心配そうに澤田が見つめていた。陸は首を振って、澤田を安心させるため軽く微笑む。


「いや、少し考え事を…」


言葉は最後まで続かなかった。派手なガラスの破壊音が響いたのだ。視線を音のした方へ寄せる。


「ちょっと、水木君。大丈夫?」


田中先生が慌てた様子で、呆然と立っている水木先輩に駆け寄る。水木先輩の足元には、無残なグラスが破片となって散らばっていた。どうやら、グラスを落としたようだ。田中先生は反応のない水木先輩を訝しく見上げた。


「怪我は…なさそうね…」


田中先生は、安堵の息を漏らし、ちりとりと箒を取りに掃除ロッカーに向かった。


水木先輩は冷たい目で落ちたガラスを見下ろし、その視線を徐に上げて陸を見る。恐ろしいほど冷え切ったその目を向けられて、陸は呼吸を止めた。その瞳の奥に宿るのは、間違いなく憎悪だった。向けられる強い視線に、陸は背筋が凍りつく。


「水木先輩、怪我はないですか?」


最近よく、水木先輩に飲み物を運ぶ後輩が近づいた。水木先輩の視線は漸く陸から剥がされ、その後輩を見る。


「ない」


淡々とした声音に、秘めた怒りを感じ取った。後輩は鈍感のようで、それに気づかない。水木先輩はその場にしゃがんで、欠片に手を伸ばす。


「そうですか。欠片集めるの手伝います。」


後輩が水木先輩に倣い、その場にしゃがんだ。その光景をみた澤田が、ふと思い出したかのように口を開く。


「そう言えばさ。去年の夏にお前んち言った時に、壺壊したよな」


その言葉に陸は呆れ顔になる。


「あれは壺じゃなくて、花器だ。」


「そうだっけ?同じもんでしょ。」


「違うよ。ばか」


壺と花器は似ても似つかない。形状が全く異なし、用途も違う。陸は澤田の言葉に思わず笑った。「そうかー?」とおどけた様子で澤田が言う。すると、焦った後輩の声が耳朶に響いた。視線を向けると、先輩の手が血で赤く染まり、それを見た後輩が顔を青くしている。どうやら、鋭い欠片で傷ができたらしい。田中先生がちりとりで欠片を拾い終わり、新聞紙で包んでいるところに、水木先輩が近寄る。


「先生、怪我をしました。」


その手から鮮血がポタポタと流れて、床に血痕を作る。


「え?まだ欠片あったの?…とりあえず保健室行ってきなさい。誰か付き添ってくれる人は…」


先生が言いながら辺りを見渡す。美術室はしんと静まり返り、先生と目を合わせようとしない。だが、水木先輩の近くに居た後輩だけが、おずおず近づく。


「わ、わたしが…」


頬を染めながら後輩が申し出る。その表情から、後輩が水木先輩を好いているのだと察した。その事実に、胸が締め付けられ、閉塞感を覚える。

田中先生が「あ、そう?…じゃぁ、お願いしようかしら」と言う。その言葉に陸は耳を塞ぎたくなった。固く握った拳が白くなる。


水木先輩は、二人の会話を無視して、陸に近づいてくる。先輩は能面のような顔をして、驚愕する陸の腕を引っ張り、強引に立たせた。


「行くよ」


先輩がそう言って、陸の腕から手を離すと、スタスタ歩いていく。陸は、当惑しながら先輩の言葉に従い、後を追う。背後で澤田の焦ったような声音が掛けられるが、陸には聞こえなかった。陸の神経は、前にいる先輩に全て注がれていた。


芸術棟の横に隣接されている棟には職員室や事務室、生徒会室ある。その端に、保健室があった。

ドアを開けるが、先生の姿がなく、不在のようだ。水木先輩は、保健室に設置されている水道で血を洗い流して、無断でガラスケースを漁る。その動きに迷いはない。

水木先輩はガーゼと紙テープ、そして包帯を手にした。呆然と立ち尽くしている陸に視線をやり、ソファーに座る。

陸は恐る恐る近づいた。

年季の入ったソファーは、所々破れれている。腰を下ろし、足を組んだ先輩が、手に持っている用品を陸に押し付ける。それを受け取る時に、手が触れて、陸はビクリと手を震わせた。その仕草に水木先輩は、舌打ちをする。

機嫌が頗る悪い水木先輩は、かなり怖い。しかし、怪我をしている手が気になって、陸は水木先輩の横に腰を下ろした。緊張で震える指先で水木先輩の手を取る。掌には赤い切れ目が入っていて、水で滲んでいた。陸はそばにあるティッシュを取り、優しく水を拭う。そして、ガーゼを傷口に押し当てて、紙テープで固定した。

用意された包帯を使うべきか迷い、水木先輩の顔を窺う。そこには、能面のような表情をした水木先輩が陸を凝視していた。陸は慌てて、顔を伏せる。陸が傷の手当をする間も、そうして陸を見ていたのだろうか。そう思うと、壊れた心臓が勝手に高鳴る。

怪我していない手が差し伸ばされて、陸の顎を掴み、くいっと上を向かせる。乱暴な手付きだった。

不機嫌そうな水木先輩の目が、陸を責めるように見下ろす。


「…あんまりヘラヘラしていると…校内で犯すよ。」


低い声で紡がれた声は、陸に衝撃を与えた。陸に笑うなと言っているのだろうか。それは、あまりに酷い。その上、陸に無体をはたらくのを仄めかす。陸は先輩に嫌われてしまったのだろうか。

恐怖より、哀しみと自分勝手な水木先輩の言動に腹が立ち、キッと睨んだ。


「彼女がいるのに、俺にそんなこと言って良いんですか?…浮気ですよ…」


陸の反抗に、水木先輩は片眉を上げた。従順な陸が、先輩に口答えする事に驚いたようだ。


「は?何いってんの?」


眉を寄せ、しらばっくれる水木先輩の言葉に、感情が高ぶって、泣きそうになる。


「先輩、俺より河内先輩が好きだって言ったじゃないですか…なのに、俺に、おか、犯すだなんて…酷いです…しかも、はぐらかすし…」


言いながら、目から涙が決壊し、ボロボロと陸の頬を伝う。急に泣き出した陸に、先輩は驚いて、顎から手を離した。

吹き荒れる嵐のような感情をコントロールできない。そんな自分が怖くて、好きな人の前で無様に泣き出した自分が情けなくて、陸は恥じ入るように顔を伏せた。涙腺も心臓と同じく壊れたようで、涙が止まらない。

水木先輩は、バツの悪い表情をして、陸の肩に手を掛けて、己の懐に閉じ込めた。ふわりと香る先輩の匂いが強くなって、陸は胸が詰まる。心臓が勢いよく鼓動を刻み、胸が痛い。


咽び泣く陸の頭を、慰めるようにポンポンと撫でた。


「何言っているのか分からないけれど、言いたいことが有るならすぐに言ってよ…溜め込まれて、急に避けられると…困る」


弱々しい先輩の声が、間近から聞こえた。聞いている方が胸が痛くなる程、悲痛の色が滲んでいた。


「キスした事、怒ってんの?」


陸はフルフルと首を横に振る。


「…もしかして、俺の事嫌いになったとか?」


先輩の声が消えそうなほど小さくなる。

その声に陸は、はっきりと首を横に振って否定する。その逆のなのだ。好きで好きでたまらない。だから、困っている。


「そう…良かった。嫌われたのかと思ったよ…」


ぎゅうっと陸を抱きしめる腕に力が込められる。先輩の胸に頬が押し付けられて、先輩の存在を強く感じられた。嬉しかったけれど、苦しくて、先輩の胸を叩く。すると、先輩の体が離れた。息を吐き、名残惜しさが体に残る。


涙はいつの間にか止まっていた。陸の情けない顔を見て、水木先輩は優しく笑った。その目は、春の日だまりのように温かな光を湛えている。

顔を見て笑われたのは、不服だけれど、水木先輩の笑顔を見ると全て吹き飛んでしまった。


水木先輩は、陸の眦の涙を指で拭き、頬を撫でた。その手付きが宝石を触るように、恭しい。陸は擽ったさに笑った。


「なんか言うこと無い?」


蕩けそうなほど、優しい声だ。眼差しは、何かに焦がれているように熱く、陸を見下ろす。目の前にいる先輩の眼差しや声に、陸の恋心は触発され、溢れた。自分の気持ちを言うつもりは無かった。告白すれば困らせるだけだ。失うものばかりで、得るものはない。臆病な陸は告白するつもりなどなかった。だが、そんな意思よりも先輩が好きだと言う気持ちが、この瞬間何よりも勝った。2人きりの保健室で、陸の目の前には性別を超えて好意を寄せた先輩がいる。先生がいつ帰ってくるともしれない状況なのに、世界には2人しかいないと覚えるほど静かだった。己の心臓の音がはっきりと聞こえる。陸は、口を開いた。今なら言える気がする。


「先輩…俺、先輩のことが…」


陸の声は突如響いたケータイの着信音に遮られる。水木先輩は、舌打ちを二回ほどして、ケータイの電源を落とす。


「…俺のことが?」


水木先輩は真剣な目をして、陸に迫った。陸は水木先輩との距離の近さに仰け反る。呼吸が肌に掠めるほど、近くに好きな人の顔があり、陸は頭がクラクラした。


「せ、先輩…電話…」


「良いよ、あんなもの。たいした用事じゃない。…で、俺の事が?」


「でも、彼女かもしれないし…」


陸は顔を暗くしながら、弱々しく言った。やはり、河内先輩の影がチラついてしまう。水木先輩の眉間にシワが寄る。


「さっきから、よくわからない事言っているけれど、彼女ってなに?俺、彼女なんて居ないよ?」


「え…でも河内先輩が彼女じゃ…」


「はぁ?誰がそんなホラ吹いたの…まさかそんな嘘信じたの?」


責めるように睨まれて、陸はむっと口を尖らせる。


「だって、美術室で…きす…してたし…」


水木先輩は、訝しそうに眉を顰めてから、視線を上げて、記憶の糸を辿る。


「あぁ。見たの?…しつこいから黙らせるには良いかと思って…母親の会社とアイツんちの会社が取引しているから、親から適度に接するように言われてたんだよ…でもね、恋人にはちゃんと尽くすよ。浮気もしない。」


後半部分の声音は甘く溶けていた。先輩が恋人の話を振った理由は定かではないが、恋人になれる人が羨ましいなと、思う。

河内先輩との恋仲ではないと判明すると、陸が一人で突っ走っていたようにも思えた。簡単に、他人の噂を信じた陸が悪いのだが、随分頭を悩ませていた事があっさりと解決し、嬉しいのだが、どこか釈然としない。陸は、何か責める場所は無いか考える。


「…それに…秋元先輩が俺より好きかって聞いた時、うんって頷いた。後輩の俺よりしつこい河内先輩が好きなの?…」


まるで嫉妬する女性のような言葉を吐いて、陸は僅かに後悔した。しかし、水木先輩は気にした風もなく、首を傾げる。


「あーそんな事言ったけ?…考え事してたから、適当に返事してた…アイツ好きでもなんでもない。俺、こう見えて一途だよ。」


目尻を蕩けさせて、まるで陸を想うかのように見つめる。その視線の強さと、甘さに陸は勘違いしそうになる。先輩が陸のことを想ってくれているなどと、天地がひっくり返ってもありえないのに。陸は、できるだけ平然と顔を装う。今、崩れてしまったら取り返しのつかない事になりそうだ。


「へ、へぇ…誰か好きな人でも居るんですか?」


聞きたいような聞きたくないような複雑な心境で聞く。正面から先輩の返答を聞く自信がなく、顔を背けた。しかし、目を逸らすことを許さないと言わんばかりに、頬に添えられた手を顎にかけて、水木先輩の方を向かされる。

水木先輩は、陸の顔をじっと見て、嬉しそうに甘い笑みを浮かべた。その笑顔にチクリと胸が痛む。


「うん。その子は一個下で、俺の絵がすっごく好きで、美術部で、俺に飲みモノを運んできてくれる優しい子。それで…」


長い指で鼻と唇の間をトントンっと指で叩いた。その仕草に既視感を覚える。


「笑うとここに横線ができるんだ。その笑顔が好き。…でも最近避けられてて、でもそのくせ、今日は知り合いの男に笑いかけてた。そんなフラフラした所が憎たらしいけれど、かわいいって思っている。そんな子だよ。」


「それって…」


陸は言葉を失い、甘い期待に胸を高鳴らせた。天地がひっくり返ったのだろうか。水木先輩の言う人物像に酷く心辺りがあった。


「お前は、好きな人とか居るの?」


水木先輩が囁くように言う。水木先輩は陸の心臓を狂わす天才だ。

陸は、首肯し、戦慄く唇を動かす。


「…はい。」


「どんな人?」


「教えてよ」と水木先輩が甘く囁く。期待しても良いのだろうか。迷ったのは一瞬だった。陸は意を決し、水木先輩の目を見た。水木先輩は、陸を優しく見下ろしていた。


「1個上で、絵が上手で、美術部の先輩で、いつも突拍子も無い事を言い出す人。」


声が情けなく震えた。


「意地悪で、俺をよく虐めるけれど、同じくらい甘やかしてくれます。その人の浮かべる微笑が凄く好きで、いつもドキドキします。」


心臓が煩いほど高鳴り、胸が痛かった。顔が熱くなり、目が潤む。その情けない顔を見て、水木先輩は微笑み、愛しげに指で頬を撫でる。甘美な快感がチリチリと肌を焦がした。


「へーそれは知らなかった。…で俺に何か言いたいことある?」


水木先輩は巧みに誘導して、陸から言葉を引き出そうとしている。それを分かっていながら、陸は瞼を震わせ、陸の想いを口にした。


「俺、先輩のこと…好きです…」


口に出してみれば呆気なく、何故自分が尻込みしていたのか不思議なものだった。頭の端で秋元先輩の笑い顔が掠める。


すると、先輩は笑顔を濃くする。


「うん」


拒絶は無い。寧ろ、その言葉を待っていましたと言わんばかりに、水木先輩は頷いた。受け入れてもらえた事が嬉しくて、想いが湧き水のように溢れて止まらない。


「凄く凄く好きです。」


「うん。俺もだよ。陸」


陸と同じ気持ちだと水木先輩は言った。そして、初めて名前を呼ばれた。それもとびっきり優しい声で。陸は嬉しくて、また泣いてしまった。それを見て「よく泣く子だね」と陸を抱きしめて、つむじにキスを落とす。


「つむじまでかわいい。困ったね…」


全然困っていない声で、嬉しそうに水木先輩が言った。陸は顔を上げて、水木先輩の頬に手を添える。


「先輩、ちゅーしたい。」


甘える様に言うと、水木先輩は「かわいい」と言い、陸の唇に触れるだけのキスを落とした。そのキスは、震えるほど甘い。湧き上がってくる想いは、際限がなく、溺れそうだった。



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青を食べる。 幾瀬 詞文 @yuuzcle

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