二 大暑編

4大暑 桐始めて花を結ぶ


桐が梢高く、淡い紫色の花を咲かせる頃。漸く学期末試験のテストが全て返却された。陸は学年の真ん中辺りの成績を常に漂っているので、返されたテストの成績も可もなく不可もない。平均点数より数点上だったり下だったりする程度だ。テスト返却後、全校集会が体育館で行われた。

窓を全開にし、扇風機を隅に数台設置しているはずなのに、全く涼しくならない。空気に汗の匂いが滲み、制汗剤や女子の柔軟剤が混じり、なんとも言い難い匂いが体育館に充満している。

校長の長い話や、生徒指導部の毎度ながら聞き飽きた夏休みの注意や心構えを聞きながら、陸は額に滲む汗を拭う。


全てが漸く終わった頃に、今回は一年から退場だった。全学年の生徒が一斉に教室に向かうと混み合うので、学年ごとに退場するのが常だった。一年が退場した後二年、三年と続く。陸は体育館近くにあるトイレに寄り、遅れてクラスに戻る。廊下を歩いていると、二年生の軍団が反対側から歩いてきている姿が見えた。


最初に気づいたのは、水木先輩の方だった。陸は視線に気づいて顔を上げると、丁度水木先輩の姿が見えて、顔をぱぁっと明るくする。


(準備室以外で先輩を見つけた)


声を掛けたかったが、邪魔だろうと思い、口を噤む。水木先輩は無表情でクスリともせず、陸を見ていた。あまりにも熱心に見るので、横に居た水木先輩の友人が「どうした?」と声を掛けた。その言葉に「なんでもない」と先輩が返した。

すれ違う時に、先輩側の体の側面が熱くなった。理由は分からない。その熱が陸の体に深く根付き、陸は冷めない熱を孕む二の腕をひっそりと擦った。きっとこれは良くない傾向で、良くない感情ではないだろうか。そんな事を漠然と思った。



夏休みに入った。

部活は学校課外が無い日は10時から、課外がある日は1時から始まる。だが、ほとんどの美術部員が時間にルーズだった。時間をきっちり守る陸は、毎度のことながら美術室に一番乗りだ。


つい最近引っ張り出された扇風機が、美術室の両端に二台置いてある。美術室にエアコンなどという贅沢品は無かった。古い扇風機の強風ボタンを押して、窓を開けると、涼しい風が教室に流れ込む。


扇風機の稼働音を聞きながら、眩しい空を見上げ、夏の匂いを感じる。電気は暑くなるから点けない。薄暗い美術室は、青い影を落としていた。


窓際から体を離し、壁に立てかけられているキャンバスを机に置く。美術の授業が無い夏休み期間だけは、描きかけのキャンバスを準備室ではなく美術室の壁に数枚重ねることを許されている。理由は単純で、授業の邪魔になるからだ。


陸がコンクールに向けて描いている絵が、どこか恨めしそうに陸を見つめる。近所の町並みをキャンバス一杯に描き、色とりどりの花が町の隙間を埋めるように描かれている。その町並みを海に沈めて、気泡を描き、更に魚を町に泳がせている。そして、斜めに横断する道路には、朽ちた鯨の骨が横たわっていた。


一体何を表現したいのか分からない。


「好きなの物を詰め合わせたら、こうなりました」というような絵だった。青を基調にしたこの絵は、明らかに水木先輩の影響を受けている。水木先輩の影を追って出来上がりつつある絵は、水木先輩への憧憬を表しているようで、見ていて恥ずかしい。自分で描いたはずの絵が自分の手から離れ、まがい物のようだった。


ため息を吐き、キャンバスを撫でていると、美術室のドアが開く音が響いた。視線を向けると、そこには顧問の先生がいた。


「林田くん、早いね。」


先生がにこやかに笑いながら、近づいてくる。真面目な生徒の陸を見て、先生は気を良くしたようだ。先生の指示通りに絵の具とパレットを準備して、机に並べる。先生は陸が持ってきた筆を取り、サラサラと迷いのない手付きで魚の絵を描く。陸が細々と描いていた魚より大きく、顎が出た魚だ。インパクトがあり、細かい魚の絵だけではダメなんだと自覚する。そして、いくつかアドバイスを陸に与えた。その過程で、与太話をする。


「そう言えばね、プールの壁画があるでしょ?」


「あぁ、あの壁画のことですか。」


校舎横にある学校のプールの壁画が脳裏に浮かぶ。何が描かれていたのか、今では想像もつかないほど色が薄く、下の白い壁が見えていた。いっそ洗ったほうが綺麗だろうと、プール掃除の時に思ったものだ。


「ずいぶん前に書かれた壁画だから雨や風で色落ちしてて、せっかくだから美術部にリメイクして貰おうって話が出たのよ」


「そうなんですか。…三年生は忙しいから悔しがりそうですね。」


大学受験に向けて、予備校に通っている三年生の先輩を思い浮かべて、陸は残念そうに言った。秋元先輩は三年生で、今年の秋のコンクールを最後に、引退する。寂寥の念が胸を突いた。


「そうね。…でも、参加できる日だけでもいいから、参加してほしいわねぇ。」


最後の思い出作りに。


先生のその言葉が耳に残った。



先生から壁画の話を聞いて、数日後。陸たち美術部員はプールの壁画の前に立っていた。壁画のリメイクの話がまとまったのだ。できれば、短い夏休みの間に終わらせたい、そして、三年生も参加したいという思いで、壁画プロジェクトは秋元先輩の手腕により、あっという間にまとまり実現した。壁画デザインは、秋元先輩が急ピッチで作って、田中先生のアドバイスで、より良いものになった。照りつける太陽の日は容赦なく、プールサイドをジリジリと熱している。叫ぶように鳴く蝉の声が響き渡り、遠くのグラウンドから高々と金属バットでボールを打つ音が聞こえた。


「よっし。じゃあやるよーっ」


タオルを首に巻いた秋元先輩は、元気よく腕まくりをして、部員に指示する。下絵担当の生徒が率先して、壁に張り付き、鉛筆で線を描く。デッサン用の濃い鉛筆は、壁のボコボコした凹凸につっかえながらも、はっきりと弧を描く。


三年生は、用事で来られない人もいたが、比較的集まった方である。午後から来る部員も居た。反対に午後から抜ける部員も居た。水木先輩の姿がなかった。秋元先輩も水木先輩を気にしているようだった。後から準備室に行こう。


陸は、出来上がった下絵の線をネームペンでなぞる。日光の鋭い日差しに肌を焼き、先輩たちはしきりに日焼け止めを塗った。途中、秋元先輩が「日焼けすると痛くなるよ」と言い、陸の手に日焼け止めを分けてくれた。みずみずしい匂いのする白い液体は、よく肌に馴染んだ。


十二時半頃になると、一旦日陰に道具を引き上げて、エアコンが効いた涼しい空き教室で御飯を食べる。陸が、コンビニで購入したピザパンとメロンパンを食べていると、先輩たちからおかずをお裾分けして貰った。秋元先輩曰く「育ち盛りの健全な男子生徒がそんなに食細かったら、危ない」らしい。こうして、夏休みの間は毎回部員におかずを貰っていた。陸は、パン二個でもお腹いっぱいになるが、先輩たちの好意を有り難く受け取った。


それらを全て食べ終わると、先輩たちはお菓子を広げて駄弁っていた。それを尻目に、陸は美術準備室に向かう。渡り廊下を渡り、二階の階段を登る。準備室の木製のドアを二回ノックすると、中から了承の声が聞こえた。

陸はドアを開けて中に入る。


「先輩、壁画作成に来ないんですか?」


水木先輩はいつものように、机に置かれた花を写生している。今日は、どこからか手折ってきた桐の梢だ。


「面倒だしね」


「…三年生と一緒の共同作業は多分これで最後ですよ…」


「そうだろうね」


淡々とした口調で、何でもないことのように先輩は言った。陸は、顔を暗くして、どうすれば水木先輩が壁画作成に協力してくれるのか考える。


その時、風が一際強く吹込んできて、花瓶に活けられた桐の梢が揺れた。花弁を散らし、不安定にぐらいた桐は、風に押されるように倒れた。花瓶から水が溢れ、桐の花を濡らす。花瓶は机の端へ転がり、床に落ちかけた。陸が慌てて、花瓶を受け止めようと駆け寄るのと、水木先輩が花瓶を受け取ろうと腰を浮かせたのは同時だった。水木先輩の肩がぶつかり、陸は花瓶から横にいる先輩へ視線を移した。水木先輩の黒曜石のような瞳と視線がぶつかり、呼吸を忘れる。


バリンっ


乾いた音が静かな準備室に響き渡った。視線を音のした方へ向けると、花瓶は床に叩きつけられ、無残な欠片の姿になっていた。高鳴る鼓動を抑え、その欠片を手で触れると、無意識に力が入り、欠片で手を切る。


「…っ」


痛みに顔を歪めて、痛みが走った指を見る。赤い切れ目から、血がぷっくり盛り上がっていた。


「怪我したの…ドジだね」


背後から甘く貶され、水木先輩の手が伸びてきた。手首を絡め取られる。そのまま流れるように、怪我した指をパクっと咥えられて、陸は驚愕に目を見開いた。熱い舌が、ピリピリと痛む傷口をなぞり、ちぅっと音を立てて吸い上げられた。まるで全神経がその指に通っているみたいに、先輩の舌や唇の動きに体が反応して、全ての意識が奪われる。心臓が口から出そうなほど、早鐘を打ち、痛みさえ生じる。痺れるような甘い痛みが、指から全身へと巡り、体温が数度上がった。全身にびっしょり汗をかく。この反応が良くない方向へ向かっているのだと、陸は漠然と考え、恐れていた。この感情はまだ名前がない。しかし、いつか名前がつくだろう。その日が訪れることを本能的に恐怖する。


ちゅっとリップ音と共に、熱が離れた。安堵するような、名残惜しいような複雑な気持ちを抱いた。


「…お前、なんか付けてる?」


水木先輩が責めるように陸の瞳をじっと見ながら、そう言った。一瞬なんのことか、分からず首を傾げた。直ぐに、心当たりを思い出し、口を開く。


「秋元先輩から日焼け止めを貰ったんです。」


「…なるほど。」


自分で聞いたくせに、水木先輩は興味なさそうに呟いて、床に散らばった欠片を集める。陸も手伝おうと手を伸ばしたが、欠片に触れる前に、手を叩かれる。


「お前がやると、逆に手間取る。」


不機嫌そうに言われて、陸はしょんぼり落ち込んだ。もし陸に耳と尻尾があるならば、ペタリと垂れているに違いない。

欠片を集める水木先輩の背中を見ながら、陸は先程の事を思い出していた。

なぜ、水木先輩は陸の指を咥えたのか。古代の療法で、傷口には唾をつれば治ると言われている。その言葉に則り、実行したのだろうか。

しかし、一介の後輩に過ぎない陸の指を舐める事にいささか疑問を抱く。女子ならまだしも男子の指を咥えること、抵抗を感じないはずはないと、自分の事は棚に上げ、そう思った。陸は先程味わった先輩の舌や口内の感触を思い出して、顔を真赤にさせた。また、心臓が痛いほど高鳴る。思い出すだけでも心臓に悪い。陸はそれ以上思い出さないように、頭を振って感触を外へ追いやった。


陸が独りで頭を悩ませている間に、水木先輩は壊れた花瓶を片付け、濡れた机を雑巾で拭き取り、窓から桐の梢を捨てた。下は人通りの少ない地面なので、枯れて土に返るだけだ。背後を振り返ると頭を振っている陸がいて、水木先輩は若干顔を引き攣らせた。


「何やっているの?行くよ」


「…え」


頭を振るのを止めて、陸はいつの間にかドアの側に立っている水木先輩を見上げる。目を瞬かせて、水木先輩の真意を図ろうとしたが、仮面を被ったような表情の水木先輩から何も分からなかった。


「どこに行くんですか?」


「プールだよ」


「え、先輩が壁画作成に参加するんですか!?」


「お前がそうしろって言ったんじゃないか。もう忘れたの?」


水木先輩が呆れながら、「バカだな」という目で陸を見た。しかし、陸は全く気にならなかった。それよりも急に先輩が壁画作成に参加すると言い出したことで大いに喜んだ。

陸は飛び上がるように立ち上がり、水木先輩の気が変わらぬうちに、さっさと現地へ行こうと水木先輩の背中を押して、準備室を後にした。


陸と水木先輩がプールサイドに着くと、他の部員はすでに壁画の前にいて作業をしている。彼女らは水木先輩に気づくと、美術部の主に三年生が、幽霊でも見たように驚愕する。水木先輩は特に気にする事もなく、スタスタと壁画に近づいて、部長である秋元先輩の指示を仰いだ。秋元先輩は驚きつつも冷静に指示を出す。

水木先輩は、指示通りに地面に落ちた鉛筆を持ち、デザインの紙をじっくりと見てから、迷いなくその手を動かした。さっさっと勢いよく線を描いていく。


陸も秋元先輩に近づく。


「何かやることないですか?」


「そうね、なら此処と此処をまたネームペンでなぞってくれる?」


「はい。」


「…陸くん。」


名を呼ばれて、足を止めた。振り返ると優しい顔をした秋元先輩がいる。


「呼んできてくれてありがとう。」


「いいえ。」


陸もにっこりと笑う。すると、秋元先輩が陸から視線を外し、横を一旦見て苦笑した。


「あまり陸くんと仲良くすると、怒るかな。」


「え、どういう意味ですか?」


「ううん。なんでもない。」


秋元先輩が笑って誤魔化すが、陸は釈然としない気持ちになる。先程、秋元先輩が視線を向けた場所を見ると、そこには水木先輩がいて、壁に向き合って、腕をせっせと動かしている。目を引くものは何もなく、首を傾げた。陸は、秋元先輩の指示に従うべく壁に向かって歩きだす。


5大暑 土潤いて溽し暑し


線画ができたのはそれから一週間後のことだった。水木先輩は来たり来なかったり、まちまちだった。陽の光の強さが益々増す溽暑の頃に漸く一段階ついたのだ。

線画が完成すると、その上からペンキで塗って色を付ける工程に入る。ペンキは制服に付着するとなかなか落ちないので、部員は汚れても良いような服装でプールサイドに集合する事になった。

陸は、課外が終わると、昼ごはんを食べて、使い古された白いワンポイントの半袖と中学校の頃使っていた短パンに着替えた。それから、美術室へ向かい、昨日部員で準備したペンキをプースサイドへ運んだ。ペンキの数は原色の青と赤と黄。主にアクリルや水彩、そして油絵しか使わない美術部に、ペンキの色は必要最低限しか残っていなかった。しかも、量が少ない。体育祭の装飾で使うペンキを借りられるか、先生に駆け寄ったが、結果は芳しくなかった。学校からペンキの借用を諦め、原色の三色もあればなんとかなると判断した。それらを混ぜて色を作る予定だ。もし、量が足りなかったりしたら、部費で買い足せばいい話だ。

全て運び終わる頃に、部員たちが全員集まった。秋元先輩が不在なので、副部長の岸田先輩が指揮をとる。

必要な色を作り終えると、刷毛を持って壁に張り付いた。線画を埋めるように色を塗っていく。むわっと熱気がまとわりつく蒸し暑いプールサイドで、度々休憩を挟みながら、作業は順調に進んだ。


陸が日陰で休んでいる時に、重役出勤で水木先輩がプールサイドに姿を表した。岸田先輩は神経質そうに眼鏡を指で上げて、水木先輩に指示を出す。その際に、小言も忘れていない。

水木先輩は適当に頷いて、岸田先輩がまだ話している最中に、面倒くさそうな足取りで壁に近づく。床に落ちていた刷毛を拾うと、陸の視線に気づき、水木先輩がチラリと陸の方へ向く。目が合った事に心が浮き立つほど嬉しくなり、陸はへらっと締まりきらない笑顔を浮かべる。水木先輩は、呆れた顔で陸を見て、犬を呼ぶように手をちょいちょい動かし「来い」と指示する。忠犬のように陸は腰を上げて、水木先輩に駆け寄る。


駆け寄ってきた陸の頭から足先まで観察してから、手に持っている刷毛を陸に渡した。青い絵の具が既に刷毛先に付いている。


「此処と此処ね」


壁の箇所を指で指しながら水木先輩は言った。それから、陸も胸元にプリントされているダサいマークをちょんっと突いて、「変なマークだね。」と言い、目元を和らげて微笑する。その表情に胸が痛いほど高鳴って、陸は最近困っている。

それから、何事もなかったかのように水木先輩は別の刷毛を持って、壁に手を添える。突かれた胸を押さえながら、陸は水木先輩に倣うように壁に張り付いた。色を塗っているのにちっとも集中できない。陸の神経は全て横にいる水木先輩の方へ注がれていた。青い絵の具で塗りながら、チラリと横目で水木先輩を盗み見る。ちょっと面倒くさそうに立ちながら、手を動かしている水木先輩の姿があった。横顔も整っていてかっこいい。横に立つ先輩を意識しながら、陸は手を動かして、差された箇所を塗った。

指定された箇所を2つとも塗り終わり、先輩を見ると、先輩は大きな箇所を塗っていた。その掌外沿に青いペンキが付着していた。恐らく気づかぬ間に乾いていない壁に接触したのだろう。

青いペンキに濡れた手を見て、準備室での一件を思い出した。

珍しく水彩絵具を出していた先輩の指に付いた青い絵の具と同じ色だ。それを言われるがままに口に含んで、吸ったあの日のことを今でも鮮明に覚えている。夢にまで出てくる始末だ。

思い出しただけなのに、体温が数度上がり、顔が赤くなる。陸の視線に気づいた水木先輩は、自分の手についたペンキを見てニヤリと口を上げて笑った。偶に見る表情だ。よく陸をいじめようとする時に浮かべるので、陸にとっては不幸の前兆である。

他の部員は、作業に集中していたり、雑談していたりで、誰も陸たちを見ていない。笑みを湛えた水木先輩が陸の方に体を寄せて、内緒話をするように耳打ちする。


「…舐めたいの?」


熱い吐息が耳に掛かり、低く掠れた声で甘く問われた。息がかかる程近くにいると、全身で水木先輩の存在を感じられる。水木先輩が常に付けている爽やかな香水が強くなり、包み込まれているかのような錯覚に陥った。陸の体温がぐっと上がって、逆上せそうになる。舐めたいかと聞かれて、すぐに拒否できない自分に驚いた。寧ろ、その言葉に頷いきたいと思った浅はかな自分がいる。そんな自分に戸惑いながらも、物欲しげに水木先輩を見上げた。


「ふふ…流石に此処じゃ不味いし、ペンキは体に悪いからね。」


陸の目線から意図を察した水木先輩は、優しく綺麗な方の手で陸の頭をポンポンと撫でた。離れていく水木先輩の手と体温が惜しいと思った。しかし、体は硬直して動かない。この感情は、日に日に大きくなっている気がする。陸はそれが恐ろしくて、抑えるのに必死だった。いつか、その感情がなくなればいいと強く願うばかりだ。


水木先輩が刷毛を置いて、外へ行こうとすると、岸田先輩に呼び止められる。水木先輩はそれを無視したが、岸田先輩が強引に腕を掴み、立ち止まらせた。岸田先輩は、聞くまでどこまでも付いていくと言わんばかりに、強い視線で水木先輩を見上げた。水木先輩は面倒くさそうな顔をしながら、岸田先輩を見下ろす。


「案の定ペンキが足りない。先生は、会議だから車出せないし、ペンキは意外と重い。そこで、男である君たちに買い出しを頼む。」


岸田先輩は、いつものように慇懃で堅苦しい口調で話す。


「…面倒くさいんだけど。」


「たまには、部活に貢献したらどうだ。」


有無を言わせない岸田先輩の口調に、水木先輩がとうとう折れた。


「…わかったよ…」


諦めて、了承した水木先輩。岸田先輩はそれを聞いて、満足そうに頷いた。それから、狙いを水木先輩から、壁の横に突っ立っている陸へ移し、堂々とした足取りで近づいてくる。彼女の仕草は不思議と陸より男らしさがある。


「陸君。君も買い出しに言ってくれるね?」


「は、はい。」


「君を使うと露里に怒られそうだが、君も男だ。女と比べると筋肉はある方だろう。」


眼鏡を指で上げながら、岸田先輩が言った。露里というのは、秋元先輩の名前だ。秋元先輩と岸田先輩は中学からの同級生らしい。朗らかで明るく人望熱い秋元先輩は、部員の気持ちを尊重する人で、反対に岸田先輩は、規則や合理的な考えを尊重する人だ。正反対な性格の二人はお互いの欠点を補い、長所を伸ばすいいコンビだと陸は思っている。

もしこの場に秋元先輩がいたら、岸田先輩の言葉に表面上は同意しつつ、「本当に大丈夫かな。陸くんはこんなに細い腕だし…」と心配そうに陸を見るに違いない。

陸は、思わず苦笑を浮かべた。


「で、お金は?領収証持ってくればいいの?」


面倒くさそうに近づいてきた水木先輩が聞く。


「ああ。立て替えてくれ。後から部費で返済する。」


「分かった。」


その会話に、陸は不安と心配で心が陰る。陸は今日お金を持ってきていないのだ。だから、お金を立て替える事もできない。

それを言おうと口を開くが、言葉になる前に、水木先輩に腕を掴まれた。


「じゃ」


水木先輩が陸を引っ張るように歩きだした。陸は、後ろを振り返って、物言いたげに岸田先輩を見る。


「程々にな」


岸田先輩は意味深な言葉を吐き、手を振って、陸たちを見送った。



風林高校からまっすぐ伸びる一本道を辿ると繁華街に出る。繁華街の南に位置する細い道に、小さな画材店があった。そこに陸たちは足を運んだ。


ペンキは原色をそれぞれ2つずつ購入した。会計の際に陸は申し訳なさそうに「今日お金持ってきていません。」と白状する。水木先輩は、とくに気にした風もなく、「そう」と軽く流して、ポケットから財布を出して会計を済ませた。陸は、罪悪感と己の情けなさに体を縮こませる。


総計六個のペンキは円柱形の缶に入っていて、持ち運びしやすいように、取っ手が付いている。陸が三個持とうとしたら、横から水木先輩がペンキを掻っ攫う。三個持つと意思表示をするが、「そんなヒョロヒョロな腕で持てるはず無いでしょ。怪我して余計な時間とりそうだから、これは予防」と言った。酷いい草である。陸は頬をぷくぅっと膨らませ、精一杯の怒りを表した。すると、水木先輩は目元を和ませるだけでまるで効果ない。結局、水木先輩がペンキを四個持って、画材店を出た。


繁華街は風通しが悪く、蒸暑さに拍車がかかる。待ちゆく人も暑そうに汗を手で拭い、疲れた面立ちで歩いている。


繁華街を抜けて、日陰の少ない道を歩いていると、水木先輩がとある広告板に足を止める。陸も倣って足を止め、視線を追うと、そこには花火大会のチラシが張り出されていた。


「花火大会ですか。」


ポツリと呟く陸の声に、水木先輩がチラリと一瞥する。


「かき氷食べたいですね。」


「…行く?」


陸は、水木先輩の言葉に驚いた。そして、言葉の意味を確かめるべく水木先輩を見た。水木先輩は、陸の視線に気づいているはずだが、じっとチラシを見て、目を合わせようとはしない。陸の自意識過剰な判断かもしれないが、先程の言葉は、水木先輩と一緒に祭りに行くかと問われた気がする。だが、単純に今年陸が祭りに行くのかを問われたようにも聞こえた。陸は躊躇しながら、願いを込めて、コクリと頷いた。それを見た水木先輩は、お得意の「ふーん」という相槌を打ち、再び歩き出す。その相槌から、果たして陸の考えが正しかったのか、分からずじまいだ。曖昧な相槌は、陸と水木先輩が一緒に行くのか、それとも今年陸が祭りに行くのか、どちらも問いかけでも返えりうる反応だ。後者の意味の方が、より自然な受け答えな気がして、陸は僅かに落ち込んだ。陸は、「まぁ良いか」と思い、すぐに忘れて足を進めた。



壁画の完成がいよいよ迫って来た。

汗水垂らしながら、部員は壁に張り付いて、刷毛を手に色を塗る。秋元先輩が言うには「後数日すれば出来上がりそうだね」だそうだ。陸も秋元先輩の意見に賛成だ。壁画の三分の二は、色が塗られていた。

水木先輩は相変わらず気分屋で、偶に来ていつの間にか居なくなっている。幽霊みたいな人だ。

時折、プールサイドに打ち水をして、涼みながら作業は順調に進んでいった。

終わりを迎えるのはいつもあっという間だ。最後に、一際大きな絵を塗り終わって、壁画は完成した。

たまたま水木先輩が居る日で良かった。

一旦離れて、その壁画を見る。つい先日ほどの壁と見違えた。ペンキを塗り重ね、完成した壁画がそこにあった。


風林高校の”風林”という響きにあやかり、描かれた大量の風鈴が音もなく風に揺らめいていた。一つ一つ模様が丁寧に施されて、風鈴の透き通ったガラスの向こうには見事な入道雲が堂々と佇んでいる。


部員は互いに抱き合い、嬉しさを分かち合っていた。こんな蒸暑の日々に外に出て頑張った同志だ。仲間意識が高まるのは自然の道理だろう。これがクラスの男子だったら、一人ぐらいは喜びで、プールに飛び込んだはずだ。女子だとその場を飛び跳ねて、抱き合う程度で、喜び方にも性差があるんだなと感心する。


チラリとプール端にいる水木先輩を盗み見る。水木先輩も、壁画を眺めて、しみじみとしていた。誘って良かったと思える。水木先輩が陸の視線に気づき、この間のように手を動かして「来い」と指示する。陸は見えない尻尾を振って、水木先輩の元に駆け寄る。


「本当、お前って犬みたいだね」


目元を和ませた先輩の顔に、無条件に高鳴る鼓動。先輩の犬ならなりたいとか思ってしまった自分がいた。それはやばいだろうと冷静な自分が言った。自分の考えに困惑し、胸にそっと閉じ込める。その扉は決して開けてはいけない。


「蒼くーん」


突如響いた声に、陸が顔を上げる。水木先輩は面倒そうに、声の響いた方へ視線を向けた。そこには、笑顔を浮かべた河内先輩がいた。手には皿を持っていて、切り分けられたスイカが息苦しそうにラップに覆われていた。河内先輩は水木先輩の元まで歩いてくると、ふふっと小さく笑った。笑い方まで上品だ。


「園芸部で取れたスイカを差し入れに持ってきたの。」


そう言って、河内先輩は皿を差し出した。水木先輩は、それを受け取り、秋元先輩の元へ歩いていく。取り残された陸は、気まずさに、唾を呑み込んだ。


河内先輩は陸に視線を向けて、にっこりと微笑む。人中に横線が入っている河内先輩の笑顔を正面で受け止めた。水木先輩が言っていた好きな子に河内先輩は当てはまるのだ。その事実を再認識して、足元の地面が崩れていくような、不安と落胆に襲われる。


「蒼くんと仲良くしてくれてありがとう。」


河内先輩は水木先輩を”蒼くん”と呼ぶ。その呼び方が、二人の親密さを表しているようで、顔が強ばる。


「蒼くんって少し人見知りだから…慕ってくれる後輩がいて、助かるわ。」


彼女の河内先輩だから、まるで所有物のように水木先輩を扱う。自分とは全く違う河内先輩の立ち位置に、陸はドロリとした感情を覚えた。その感情の黒さと禍々しさに、陸は衝撃を受けた。この感情は良くないと、すぐに抑制をかける。その感情は、不服そうに陸を見ながら、形を潜めた。


「はい。水木先輩のこと凄く尊敬しているので…」


乾いた笑みを浮かべながら、必死で取り繕う。足元がぐらついて、不安定だ。今すぐ河内先輩の前から走り去りたいと、強く願った。これ以上、一緒にいたらまたあの汚い感情を生み出してしまいそうだった。


「河内さんもスイカ食べる?」


暗闇を払うように、秋元先輩の声が聞こえて、陸は顔を上げた。陸の横に立っている秋元先輩の手には、切られたスイカが二個あった。陸は、助かったと胸を撫で下ろす。


「ええ、貰おうかな。」


河内先輩はスイカを受け取り、水木先輩の元へと歩いていった。水木先輩は日陰で涼みながらスイカを食べている。


「陸くんも、どうぞ。」


秋元先輩の柔らかい声に誘われて、陸はスイカを受け取った。


「ありがとうございます。」


「…陸くん。大丈夫?」


気遣う目線に、陸は微笑んだ。


「何がですか?」


「…私は陸くんの味方だからね。何かあったら私に相談してほしい。」


秋元先輩の言葉に、陸は口を開いた。しかし、結局言葉にはならなかった。胸に渦巻く感情を外に出すと、胸が軽くなるかもしれない。だが、同時に目を背けずに向き合わなければならなくなる。陸は、まだ目の当たりにしたくなかった。


「ありがとうございます。」


シャクリと食むと、瑞々しい果肉が口に広がる。その潤いは、陸の腹に渦巻く感情を癒やすかのように、身にしみた。その感情の正体は何か、もっと考えれば良かったのかもしれない。秋元先輩に打ち明ければ良かったかもしれない。しかし、陸はその感情を上から蓋をして、目を背けてしまった。無いものとして扱う。感情の正体を知り、陸の考えを覆される事が怖かったのだ。


6大暑 大雨時行る


部活の無い日曜日に、陸は水木先輩の家を訪れた。水木先輩の家に訪問するのは、今回で二回目だ。場所は既知だが、水木先輩はわざわざ☓☓駅に来た。それから二人で、5分程度歩き、高級住宅地に入る。水木先輩の家は一際大きくて、白い壁の家だった。


「先輩の家って大きいですよね。」


陸は、玄関で靴を脱ぎながら呟くように言った。


「俺んち、父は医者で、母親は小さい会社経営やっているから。」


その返答に、陸は納得する。水木先輩の両親が高給取りだから、誰もが羨みそうな大き見事な家に住んでいるのか。


「へーそうなんですか。」


陸は感嘆の声を上げると、丁度靴を脱ぎ終わった。前回と同様に、二階に上がり、水木先輩の自室に入る。相変わらず、必要最低限の家具しか置かれていない、簡素な部屋だった。水木先輩が台所から、ジュースを持ってきて、グラスに注ぐ。甘いりんごの香りが部屋に広がった。礼を言い、グラスに口を付けて、一服する。


「じゃあ、いいかな。」


そう言って水木先輩は、徐に立ち上がる。陸はコクリと頷いた。そのために今日は水木先輩の家に来たのだ。


「まずは、…そうだね。ベッドに乗って」


陸は指示通りに、ベッドの上に手を置く。ふわっと香ってきた水木先輩の匂いを嗅ぐ。此処で先輩が毎日寝ているのだと、実感すると、顔が熱くなった。男の先輩のベッドに乗って顔を赤くする後輩など、旗から見て気持ち悪いだろう。陸は必死に平静を装う。

靴下は脱ぐべきか迷い、問いかけると、水木先輩は「そのままでいい」と言ったので、靴下を履いたまま、ベッドに乗る。


スプリングマットは弾力があり、手触りの良いシーツは虫も滑りそうなほどだ。此処で寝たら快眠だろうなと陸は思った。


「とりあえず、横になって。それから、足を曲げて、上半身だけ肘を立てて起こして」


水木先輩が事細かく指示するので、それに従った。微妙な体勢なので、長時間はきついだろう。水木先輩は、満足げに陸を見下ろすと勉強机からスケッチブックと鉛筆を取り出して、椅子に座って写実しはじめた。


そう。陸は今日、水木先輩の絵のモデルになるためにお邪魔したのだ。どうやら、今年のコンクールに出展する絵に描く少年が陸の背丈と同じくらいらしい。だが、まだ少年のポーズや絵の構造が決まらないために、アイデア想起を兼ねてデッサンをしたいそうだ。陸は一度、全体の構造を考えて、隙間を埋めるように小物を描くので、水木先輩のように主役となる物を決めてから、全体の構造を練る方法は新鮮だった。

しかし、後二ヶ月ほどしか作成期間がないのに、構造すら決まっていない水木先輩の悠長さに、陸は内心呆れていた。陸は、半年かけてコンクールの絵を描いている。しかし、水木先輩が怒号の勢いで書き上げた一品は、軽々と賞を勝ち取ってしまうのだと確信していた。水木先輩はそういう人だ。だからこそ、努力が報われない人から妬まれやすいのだろう。


考え事をしているうちに、水木先輩は鉛筆で写し終え、手早く水彩絵の具を取り出した。水木先輩は油彩絵の具よりも水彩絵の具を好む。此処半年間に、水木先輩は数回ほどしか油彩絵具を使わなかった。油彩画が下手という訳でもない。むしろ、その技術は卓越したもので、下手なプロよりも上手いと思う。水彩画も同様に、巧みで、独自の表現法を身に着けている。陸は、水木先輩の描く油彩画も水彩画も好きだが、淡い色合いで深みのある水彩画の方が個人的には好きだった。


陸はくいっと顎を上げ、息を吐く。シャツが後方に引っ張られて苦しい。水木先輩を一瞥すると、その真剣な眼差しと目が遭い、ドキリと胸が高鳴る。その鼓動を誤魔化すように、陸は口を開いた。


「…先輩、まだですか?」


「まだだね。」


「…シャツが引っ張られて苦しいです。」


水木先輩は眉を上げて、陸の首元に視線を注いでから、筆を持ったまま腰を上げる。動く許可は下してくれないようだ。水木先輩は、ベッドに乗り出して、陸の第一ボタンと第二ボタンを外す。


筆先が白いシャツにつきそうで、陸はヒヤヒヤしながら見守った。水木先輩は視線を上げて、意味深げにニヤリと口端を吊り上げ、意地悪そうに笑う。間近でその笑顔を見た陸の胸が、勝手にスピードを上げる。ドンドンと胸を叩き、痛みさえ生じる。


「気になる?」


水木先輩の手は、そのまま第三ボタン、第四ボタンを外していく。そこまで開ける必要はない。陸は既に、十分苦しさから解放されていた。


「先輩…もう、苦しくありません…」


驚くほどか細い声が出た。水木先輩がボタンを外す手を動かす度に、筆先に含んだ青色が踊るように動く。白いシャツの下から、現れた白い肌が頼りない。


「…そうだね」


水木先輩はシャツのボタンを半分程外すと、手を離し、ベッドから退く。陸は拍子抜けして、目を瞬かせる。


水木先輩は何事もなかったかのように、再び椅子に座った。


いつもなら、水木先輩が陸の想像もつかない事を言い出す場面であったが、呆気なく身を離された。陸はその考えに、顔に朱色が走る。まるで、自分が期待していたようではないかと、気づいたのだ。


水木先輩は、舐めるように観察してから、スケッチブックに視線を移す。筆をサラサラと動かして、また陸を見る。その冷たい目に、焼き尽くされそうな感覚に陥った。鼓動は、緩やかに時を刻み始めたが、平常より速い。それから永遠と思えるほど、長い時間を過ごす。それは、陸の体感時間の話であって、実際には十分も経っていなかった。水木先輩は、息を吐いて、スケッチブックを開けたまま、机の上に置いた。どうやら、デッサンを終えたようだ。どんな絵か気になるが、自分の絵だと思うと、見たくない気もする。複雑だ。


「じゃあ、次は上半身脱いでもらおうかな。」


「え…」


陸は自分の耳を疑い、水木先輩を見た。水木先輩は能面のような表情で、新しいスケッチブックを開きながら、淡々と言った。


「上半身だけね。」


「…はい」


美大生が、体の構造を知るために、裸体の女性や男性をモデルにデッサンすることがある。それを思えば、上半身だけ脱ぐ行為は、大したことでもない。可笑しな指示でもないはずだ。陸は自分にそう言い聞かせて、体を起こし、シャツのボタンに手を掛けた。先程、水木先輩が半分ほどボタンを外してくれたので、あっという間に、外し終える。シャツを脱ぐと貧相で薄い上半身が外気に晒された。


「シャツは適当にベッドに置いて」


「はい」


「で、ポーズは…そうだなぁ…体の角度は斜めにして、そう、で、ぺたんこ座りして、手は膝に添えて」


子供のようにベッドの上に足を崩して座り、手を膝に添える。それを見ると、水木先輩は満足げに頷いて、スケッチブックを手にした。今回は、鉛筆で大雑把に辺りを付けるだけで、直ぐに着色に入る。


最初は上半身をむき出した状態に、恥ずかしがっていたが、時間が経つと不思議なもので慣れてきた。水木先輩の、舐めるような視線も、気にならなくなる。時間を持て余した陸は、窓の外の入道雲を見た。


「…お前の肌って白いキャンバスみたいだね。」


唐突に響いた声に、陸は視線を水木先輩へ移す。


「…それは、肌が白いって言いたいんですか?」


「まあ、そうだね。」


「…男が白い肌なんて言われても、貧弱だねと言われた気がして、嬉しくありません。」


口を尖らせて、不服そうに言った陸。水木先輩は苦笑する。


「別に貶したわけじゃないよ…ただね」


陸は水木先輩の雰囲気の変化を、空気を通して感じた。水木先輩は筆に青い絵の具を付けて、筆先をスケッチブックではなく、己の指に惜しげもなく付けた。椅子から立ち上がり、水木先輩は陸に近づく。ベッドに手を掛けて、水木先輩が乗ると、二人分の重さが加わったベッドが沈んだ。水木先輩との距離に比例して、鼓動がまた早くなる。揶揄混じりの微笑を浮かべて、陸をみた。


「汚したくなる。」


「…え」


瞠目し、硬直する陸。水木先輩の目に、自虐的な光が宿った。べっとりと絵の具のついた親指を陸の口に突っ込んだ。ピクリと動く陸の手を、上から水木先輩の大きな手が抑え込んだ。その手が、案に抵抗することを許さないと言われているようだ。間近にある水木先輩の目が、「舐めて」と静かに、命じてくる。陸は当惑しながら、強い眼力に逆らえず、絵の具が付着した指をパクリと咥え、そろそろと舌を動かし、水木先輩の指の絵の具を舐める。甘い味のする絵の具がドロドロと溶け出して、麻薬のように脳を痺れさせる。水木先輩は満足げに見下ろして、指をぐいっと動かし、絵の具を舌に擦りつける。苦しさに、目を震わせた。

「口を開けて」と水木先輩が甘く囁く。その声に、心臓の鼓動が更に早くなる。陸は目を潤ませ、言葉に従い、口を開けた。絵の具で少し色づいた口内を見て、水木先輩は嬉しそうに、そして満足そうに笑った。初めて見た、屈託ない微笑みに陸は呼吸するのを忘れて見入る。しかし、その笑顔は一瞬だった。

水木先輩は、前触れもなく、陸の口内から指を引き抜いた。可笑しそうに細めて、呆然としている陸を見る。


「理科の授業をしようか。」


「りか?」


陸は、頭に沢山のクエスチョンマークを浮かべた。りかって教科の理科のことだろうか。陸が戸惑っている間に、水木先輩は手に持った筆を持ち替えて、陸の胸元に筆先を這わせた。冷たく柔らかい感触に、陸の体がビクつく。水木先輩はサラサラと筆を動かし、陸の白い上半身を水色で汚していった。


「此処が胃ね。食べ物は口から食道を通り、胃に入る。此処で食べ物が柔らかくほぐされる。一旦食物を蓄える貯蔵庫みたいな所。」


体表のみぞおち辺りに袋状の胃の絵を描いて、真ん中をトントンと筆先で突く。


「タンパク質をある程度分解するね。糖分や脂質もちょっとは消化されるけれど、本格的な消化はこっちの小腸。」


胃の尾っぽから管のような十二指腸を描いて、その先の下腹辺りに小腸を描く。しかし、その筆が止まった。陸は腸骨辺りまでズボンを引き上げていたので、邪魔だったようだ。水木先輩が、陸のズボンに手を掛けてずらそうとした。陸は慌てて先輩の手を止める。


「せ、せんぱいっ」


「なに?」


少し不満げに先輩が陸を見た。その視線に、「うぅっ」と弱腰になりながらも、陸ははっきり言った。


「…これ以上ズボン下げたら見えちゃいますって…」


何が見えるのか。それはナニである。それは阻止しなければいけない。陸は、全裸のデザインを了承して、着たわけではないのだ。頑なな陸の態度に、水木先輩は肩を竦め、ズボンから手を離す。陸は安堵の息を漏らした。下腹に、冷たい筆先が這って、擽ったさに身を捩る。小腸と大腸がうねっている絵を書かれた。すこしリアルなのが気持ち悪い。


「小腸では、食べ物を最終段階まで消化して、内壁からその栄養分を吸収する場所。大腸では、腸内細菌により、更に分解、そして水分を吸収される。その残り滓で便を成形するね。これで食べ物編は終わり。次は肺ね」


そう言って、水木先輩は陸の胸元に筆先を伸ばした。まだ続くのかと、陸は内心げんなりする。しかし、楽しそうな水木先輩を見ると、静止の言葉が出なかった。


「呼吸は外呼吸と細胞呼吸に分かれるけれど、今回は外呼吸について触れるよ。鼻や口から吸い込んだ空気は、喉頭に入って気管を通る。気管は左右の肺の中に入ると、2つに分かれて気管支になる。さらにその気管支は細かく別れて、肺胞という小さな袋があるね。ここから毛細血管に酸素が取り入れられる。」


チラリと胸元を見ると、肺の断面図が描かれていて、これまたリアルに肺胞まで書き込まれていた。グロ画像などに免疫がない陸は、「気持ち悪い」という感想しか抱かなかった。気がつけば陸の上半身はリアルな内蔵の絵でひしめき合っている。青い絵の具で書かれているから、まだマシだが、これが赤い絵の具だったらと思うと顔が青くなる。


水木先輩は肺を描き終えると、筆先を一旦表皮から離した。漸く、変な模擬授業が終わるのかと、安心する。しかし、陸の予想に反して、筆先は再び陸の肌に近づいた。


「…あ…」


クリクリと筆先が陸の乳首を弄る。陸は、吐息を震わせて、水木先輩を見上げた。間近にある水木先輩の顔は平然とした表情で、陸の乳首を見ている。


「せ、先輩…」


「ん?」


「そこを…その…」


「そこって?」


「ち…乳首をあまり…触らないで欲しいです…」


毛先の細かな筆で、乳輪を撫で回し、先端を突っつく。女性ではないので、感じないが、擽ったい。乳首は外部からの刺激を受け、段々硬度を高める。ツンと上向いた乳首を満足そうに観察しながら、水木先輩は言った。


「乳首とは、哺乳類が有する、胴部に左右の対を成している小さな突起物の事を言うね。女性は、ここを刺激すると性的快感を得られる。性感帯としても知られているね。…男性に置いてもあり得るって知っているかい?」


「え」


「男性の乳首も何度か外部から刺激を受けることで、性感帯になれるってこと。」


陸は混乱しながら、水木先輩が披露する知識に顔を引き攣らせる。水木先輩の言葉通りならば、陸が女性みたいに乳首を刺激されて、感じるようになる可能性があるということだ。その事実に、抵抗感を抱く。陸は、平均身長よりも低いし、貧相で薄い体つきだが、股間には逸物がしっかり男だ。

女のように、乳首で感じる事などなったら、ゾッする。男ならだれしも嫌がるはずだ。現に陸は抵抗感を抱いている。

しかし、心のどこかで先輩なら何されても良い等と血迷った考えが浮かんできて、自分が怖くなる。自分はおかしい。男なのに、最近は女々しいことばかり考えるようになってしまった。それが嫌で嫌で堪らないのに、理由を探ると、辿り着く先はいつも水木先輩だった。自分が分からず、半泣きになる。


涙ぐんだ陸に、水木先輩は珍しく瞠目して、体を離した。少しバツの悪い表情をして「ちょっとやりすぎたかな…」と呟いている。


涙は水木先輩と離れると、引っ込んだ。水木先輩は、ベッドから降りると、クローゼットから黒いtシャツを取り出して、陸に投げた。陸は反射的に受け取る。投げ出されたtシャツをしげしげとみて、首を傾げた。


「それを着てね。着替え終わったら、外に出よう」


「…え?デッサンはもう良いんですか?」


「うん。大体イメージがつかめてきたから、あとは構造を練るだけだね。」


水木先輩は言いながら机の整頓を始めた。正直シャワーで上半身の絵の具を洗い落としたかったが、他人の家なので言い出せず、陸は渋々渡された黒tシャツを身に着けた。



太陽が中点から西に傾いた午後。セミの大合唱を聞きながら、陸は水木先輩の後を連いて行く。漸く付いた目的地は、人で賑わう大通りだった。通りの両端には屋台が立ち並び、いい匂いがする煙が空へ昇っていく。ふと、部活の買い出し帰りに見たチラシを思い出す。そのチラシに記載された花火大会が今日だった。横にいる水木先輩を見上げて、陸はこっそり笑った。あの時、陸に尋ねた問いかけは祭りに一緒に行くかという誘いだったようだ。

分かりにくい水木先輩の物言いに、照れ隠しが混じっているようで、陸はくすくす笑った。水木先輩は、不審そうに陸を見てから、かき氷屋を見つけると、陸の手を引く。

当たり前のように握られた手が熱く、ずっと水木先輩に手を引かれたいと願った。


かき氷屋には、30代のおじさんがいて、陸たちが近づいてくると、ニッコリと笑った。


「ハワイアンブルーを2つ。」


水木先輩は、陸に尋ねず、勝手に注文した。


「へい。」


屋台に垂れさがっている値段を確認し、財布の残高で足りるだろうと考えた。

横に居たおばさんが料金を提示したので、陸は鞄をあさり、財布を取り出す。


「これで」


陸がお金を取り出す間もなく、水木先輩が先にお金を払った。水木先輩の袖をクイッと引張り、「先輩」と声を掛ける。それから、差し出したお金を見て水木先輩は「いいよ。モデル代だから」と言って受け取ろうとはしなかった。

モデル代なんて必要ないのにと思いながらも、渋々お金を財布の中に戻した。


おじさんは、安っぽいプラスチックの容器をかき氷機の下に置く。鰹節のように削れた氷は、容器にこんもりと盛られて、まるで雪山のようだった。その上に、水色の液体を掛けると、液に溶けて雪山が小さくなった。スプーンストローを差して、にっこりと笑顔でかき氷を手渡された。


陸と水木先輩はそれを受け取り、かき氷屋を後にする。雑踏を少し歩き、近くの茂みに入ると、小さな公園があった。人気はなく、廃れた遊具が寂しそうに佇んでいる。小さい頃によく遊んだ公園と似ている。

水木先輩は、古いベンチに座ったので、陸はその横にちょこんと腰を下ろす。かき氷は、夏の暑さに溶け、受け取った時に比べ小さくなっていた。陸は急いでストローを持ち、口に運ぶ。陸は冷たい物を早く食べる事が得意だった。幼い頃に食べるスピードが遅く、溶けたアイスが棒から滑り落ち、地面に無残に落ちたのだ。それが一度ならず、二度三度と繰り返され、悔しさや悲しさでいっぱいになった陸は、早く食べるコツを覚えた。


陸はあっという間にかき氷を平らげる。横を見ると、水木先輩がちまちまかき氷を口に運んでいた。どこか女の子らしい食べ方で、陸はふふっと笑う。


「もう食べたの?」


「はい。」


「ならこれもあげるよ」


差し出されたかき氷のカップを、陸は嬉々として受け取る。はくっと食べてから、陸は気づいた。そう言えば、間接キスだと。水木先輩の使用したスプーンストローを使って、陸も食べてしまったのだ。男同士なのだから、気にする方が可笑しいと冷静な自分が言っている。だが一旦意識してしまうと、知らなかったように使う事ができない。だからといって、スプーンストローを変えるわけにも行かず、陸は途方に暮れた。


「どうしたの?」


硬直する陸を見て、水木先輩は訝しげに聞く。陸は困惑し、視線を宙に彷徨わせた。


「えーと…か」


「か?」


「かん…せ」


「かんせ?」


「…間接…きす…だなぁっ…て…」


弱々しく吐き出された言葉に、水木先輩は瞬きを繰り返し、陸を見た。最近良く見る意地悪な笑みを浮かべる。


「…間接キスだね」


陸はその笑顔に「うぅ」とついうめき声を上げて、顔を背けた。嬉しそうな先輩の声音が心臓に悪い。背後で先輩の笑い声が聞こえて、更にときめく自分は可笑しい。変だ。高鳴る心臓も壊れているに違いない。だって、先輩はどこからどう見ても男で、陸も男なのだ。男にこんな反応する自分は変である。


「何見てるの?」


耳元で囁かれて、陸は震えて顔を伏せた。水木先輩の声で腰砕けになる。心臓が痛いほど高鳴る。胸から心臓が突破ってしまいそうだ。全身が脈打ち、背後にいる先輩の存在を意識する。


「こっち見て」


顎に手を添えられて、誘われるように水木先輩の方を向く。整った顔は吐息がかかる程近くにあり、クラリと目眩がする。

添えられている手の親指で、陸の唇をなぞる。皺を確かめるように。その弾力を楽しむように。甘美な疼きが、触れられた場所からじわじわと広がる。

駄目だ。これ以上、触れられたら、自分の胸の奥にしまった感情から目を逸らせなくなる。閉ざした扉から、想いが溢れてしまう。そう思う一方で、暴かれたいと願う浅ましい自分がいた。

陸はとろりと眦を蕩けさせ、水木先輩を見上げる。


「ねぇ、口を開けて。」


甘く命ぜられて、陸は目を伏せて、口を開いた。


「あと、舌を出して」


奥に潜んだ舌を出す。だらしない陸の顔をじっくりと見た後に、かき氷で青く染まった舌に視線を移す。水木先輩は、嬉しそうに微笑んで青くなった舌を指で突いた。


「やっぱり、かき氷を食べると綺麗に染まるね。」


喜色の滲んた声に、陸も心が弾む。水木先輩はうっとりと眦に欲を滲ませて、陸の舌を食べるように唇を重ねた。チュウチュウと舌を甘く吸われて、言い難い快楽が疼く。それは間違いなく濃厚なキスだった。男同士で、しかも先輩後輩関係の陸たちが濃厚なキスをするのは可笑しい。変だ。そう頭の端で理性という名の常識が叫んでいる。しかし、押し寄せる熱に侵されて、陸は何も考えられなくなった。


「んっ…あ…」


キスの合間に吐息のような情けない声が漏れる。淫猥な音が人気のない公園に響いた。熱を共有する行為に、息が乱れる。誰かが来るかもしれないという場所で、危機感すら気にならないほど、陸は水木先輩に神経を注ぐ。水木先輩の舌は陸の口内を蹂躙し、翻弄する。柔らかい粘膜を擦られ、吸われた。送り込まれてくる唾液を何の抵抗もなくコクコクと喉を鳴らして呑む。甘いそれは、かき氷の味がした。腰が砕けになっていると、水木先輩の手が優しく支える。その手の熱さと感触に、胸が詰まるほどの感情が生まれた。

酸欠で頭がぼんやりとした頃、リップ音と共に水木先輩と離れる。


陸は荒く呼吸を繰り返しながら、水木先輩に体を預けた。


水木先輩は陸の体を安心させるように擦り、その優しさにまた感情が大きくなる。溢れる想いは、閉じ込めた扉から溢れ出して止まらない。陸はその扉に手を掛けて、眦を決して開く。溢れた想いは、陸の体中に浸透した。


――――俺はこの人が好きだ。


感情に名前が付けられた。男同士だとか、常識だとかどうでもいいと思えるほど、目の前にいる先輩への好意が勝った。恐れていたはずなのに、不思議と心は凪いでいた。それはきっと横にいる水木先輩のおかげだろう。先輩が、黒のtシャツを捲り、陸の腹を擦った。手についた青い絵の具に満足気に笑う。無邪気に笑う先輩の笑顔や優しい眼差に、陸はトキメイた。






「なにあれ…」







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