青を食べる。
幾瀬 詞文
ー 小暑編
1小暑 温風至る
梅雨が明け、白南風が吹く小暑。夏の風が熱気を孕んできたとはいえ、扇風機はまだ棚の奥で眠る生温いこの時期に、風林高校の美術室では、今日も雑談が絶えなかった。美術部員である林田 陸は、アクリル絵の具を出しながら、秋元先輩の話を聞いていた。どうやら休日に、広島に旅行してきたらしい。溌剌とした声で語られる旅行談は、陸を楽しませていた。陸は、選んだアクリル絵の具を机に並べて、パレットに少量ずつ出す。秋元先輩は、使い終わったアクリルを指で遊びながら、本因坊秀策の記念館に行ったと話した。陸は、因島に一度行ってみたいと思っていたので、先輩の話しに耳を傾けた。熱心に聞く陸の姿勢に気を良くし、秋元先輩は陸の頭をくしゃくしゃと撫でた。
風林高校の美術部は、女子が多く、男子生徒は陸と1個上の先輩の二人だけだった。それ故に、新入部員であり男子生徒でもある陸は、先輩たちから大層可愛がられた。陸には、沢山の姉ができたようで、照れくさくも嬉しかった。
部員がほとんど集まり、賑やかになってきた。時計に視線を送ると、針は5時半を指している。
「あ、そうそう。みんなにお土産を買ってきたんだった。」
秋元先輩が手を叩いて、地べたに置かれた鞄から箱を取り出した。綺麗な包装紙をビリビリと破り、蓋を開けると、中にはもみじ饅頭が整列していた。
「みんなー。お土産買ってきたからとってー。」
秋元先輩はテーブルに箱を置いて声を掛けると、美術室に分散していた部員が集まる。そこで陸は、別室で絵を描いているもう一人の男子生徒を思い出した。
「水木先輩を呼んできた方がいいでしょうか?」
「あー大丈夫。…まぁ一応持っていってくれる?」
いつもハキハキとした口調で話す秋元先輩が、珍しく歯切れの悪い。部員の一人が、もぐもぐと美味しそうにもみじ饅頭を咀嚼している姿が視界の端に写る。
「分かりました。…どの味が良いでしょうか?」
「どれでも良いよ。アイツどうせ食べないだろうし。残り物を適当に見繕って。」
秋元先輩は後ろから別の先輩に呼ばれて、駆けていった。椅子に座って話し込むだす彼女らを邪魔するほど陸は無粋ではない。
困ったなと減っていく箱を見下ろした。
その後、顧問の田中先生が来た。彼女は、美術の先生でもあり、美術室横には少し広めなアトリエがあった。そこには小さいながらもキッチンが設備されていて、その横にまたしても小さく古い冷蔵庫があった。先生は、その冷蔵庫からファミリーサイズのペットボトルのお茶を出して、部員の人数分用意されたグラスに注いだ。先生はいつも部員に飲み物を振る舞うので、美術室には部員たちの専用のグラスが置かれていた。お茶が注がれた水色のグラスの肌にびっしりと露がつく。残ったもみじ饅頭とお茶を手に、陸は廊下を出てすぐ左にある準備室に向かう。
コンコンと二回ノックすると、中から低い声が聞こえた。
ドアを開けると、大量のキャンバスが所狭しに並ぶ小さな長方形の部屋があった。その中心に、水木先輩が椅子に座って絵を描いている。窓際には机が置かれ、花瓶には、青い大きな紫陽花が見事に咲き誇り、活けられている。
水木先輩は真剣な眼差しで、花弁の皺までじっくりと見てから、手元にあるスケッチブックに視線を落とし、鉛筆を走らせる。陸は集中している水木先輩に声を掛けて良いものか躊躇した後、おずおずと声を出した。
「先輩、お茶とお土産のお菓子です。」
「お土産?誰か旅行に行ったの?」
水木先輩は視線をスケッチブックから外さずに、返事をする。器用なことだと陸は感心した。
「はい。秋元先輩が広島に行ったそうです。」
「ふーん。どうせもみじ饅頭とかかな」
興味なさそうに呟いた声に、陸は短く肯定した。
「いいや。お土産は君にあげるよ」
投げやりに言われて、陸は戸惑った。秋元先輩の「どうせ食べない」という言葉を思い出す。秋元先輩の言う通り、水木先輩はお土産を受け取らなかった。しかし、いつまでもグズグズ居るわけにもいかず、グラスを近くの木製の椅子に置いた。
その際に、水木先輩の肩越しに手元が見えて、陸はその紙から視線が外せなくなった。スケッチブックの白い紙の上には、写真のように忠実に再現された紫陽花が、生き生きと咲いていた。モノクロで表現されているのに、鮮やかさを感じるのは何故だろうか。
見事な写生に見惚れた。背後で動かなくなった陸の異変を感じたのか、水木先輩が手を止めて、訝しげに陸を見上げた。不審そうに陸を見る瞳と合い、漸く我に返ると陸は羞恥心に顔を赤らめた。
「す、すみません。凄く素敵だったので。」
「そう。」
「先輩が描く絵は、青がとても豊かに表現されているので、とても好きです。そのせいか、その絵の紫陽花も不思議と青色に見えます。」
動揺して変なことまで口走った陸は、はっと口を手で塞いだ。気持ち悪がられたらどうしよう。尊敬している水木先輩から「きもい」なんて言われた日には、寝込みそうな程落ち込むだろう。痛いほどの沈黙がおり、とうとうその沈黙に絶えきれず、恐る恐る視線を水木先輩へ向ける。
水木先輩は探るような目で、陸を見ていた。その真剣な眼差しに、陸は為す術もなく硬直する。
「…そうか」
そう呟くと、水木先輩は再び視線を紫陽花に向け、何事もなかったかのようにスケッチブックに鉛筆を走らせる。陸はおどおどしながら、ペコリと頭を下げて、そのまま準備室を後にした。
2小暑 蓮始めて開く
水木先輩は不思議な人だった。手がける絵は尽く賞を勝ち取り、万人を魅了する絵を事もなさげに作り出す。先生も教える必要がないと言うほど、彼の絵の技術は既に卓越していた。美術の天才と称され、プロは彼の絵に舌を巻く。しかし、水木先輩はまるでふわふわと浮く風船のように掴みどころがなく、自由な人だった。美術部なのに、美術室ではなく、狭く埃っぽい準備室を好む。友人と仲良く談笑していると、急に無表情になって、そのまま何も言わずにどこかへ消える。周りから変人と言われても、どこの吹く風と受け流す。天才故に、変人でもある水木先輩は、美術部員の中で酷く浮いていた。しかし、陸にとって尊敬する先輩である事に変わりなかった。
連の花が咲き始める頃。準備室の窓からひらひらと飛ぶ蝶が見えた。蛹から孵ったばかりのアゲハ蝶の羽はみずみずしく、光を弾いている。
同じ男だからと言う理由で、別室にいる水木先輩に飲み物を届ける役目を押し付けられた。水木先輩の変わった雰囲気が苦手なのか、他の部員は水木先輩と距離を置きたがる。そこに妬みが混じっていることに、陸は気づいていた。水木先輩が避けられるのか、理由を理解できても、陸は水木先輩を避けたいとは思えなかった。あまりに高尚過ぎる水木先輩の画力・美術センスは、陸の中では神に等しく、崇拝する対象であった。神に嫉妬する者はいない。それ故に押し付けられた役目は、快く引き受けた。
そんな陸は、お土産を手に準備室に訪れた。すると、水木先輩は、前と同じくお菓子を受け取らなかった。
先輩の新たな一面を発見した陸は、言わずにおれなかった。
「先輩は好き嫌いが多いんですね。」
目を奪われる程、青い朝顔の花が、窓際の机に置かれている。水木先輩は朝顔をじっとみて、手元の紙に鉛筆を走らせた。花壇で綺麗に咲いているのを、無断で摘んできたらしい。園芸部にバレたら、烈火の如く怒られそうだ。
「そう?」
「はい。俺は何でも食べれるんで、先輩の好き嫌いの多さに驚きました。」
陸は、最近定位置になりつつある古びた椅子に座り、持ってきたお土産をもぐもぐと咀嚼した。何度か準備室に通ううちに、こうしてのんびり会話をするほど、打ち解けた。尊敬している先輩が意外に大雑把で、適当な性格だと気づくと、陸は肩の力を抜いて気軽に話すようになったのだ。水木先輩は、そんな陸に気分を害した風もない。もしかしたら、興味がないのかもしれないが、それを考えると落ち込むので深く考えないようにしている。
「ふーん」
水木先輩お得意の興味のない返事を聞きながら、陸は最後の一口を口に運ぶ。水木先輩は考えるように、花ではなく窓の外を見ていた。どれどれと水木先輩の手元を見ると、そこには繊細な線で濃淡を表した朝顔が大きく咲いていた。生き生きしている朝顔の絵に魅入っていると、徐に水木先輩が立ち上がった。水木先輩は、窓際の机に置かれている数輪の朝顔から、一際青い朝顔の花をつまみ上げる。そして、朝顔を手に陸の側まで歩み寄り、すんっと朝顔の香りを嗅ぐ。陸は目を瞬せ、水木先輩を見上げた。
水木先輩はいつものように、怠そうな顔をしながら、陸の前に紫陽花を突き出した。陸は水木先輩の奇行に戸惑い、目の前に差し出された朝顔と水木先輩を交互に見る。
「これ食べて。」
「…え」
陸は自分の耳を疑った。
食用の花なるものが存在していると陸は知っていたが、朝顔が果たして食用花なのか分からなかった。毒があるかもしれない。仮に毒がなくても、花を口にする事に抵抗を覚える。
当惑する陸を、突き出された青が恨めしそうに見た。
その青い花を見て、過去の思い出が刺激される。
まだ幼い頃、何でも食べられると言い張った友人がいた。その友人は家の砂を食べたと言っていた。そこで、陸は「何でも食べられるなら、この花食べろ」といい、足元のオオイヌノフグリを指す。友人は戸惑いながらも、自分の言葉を証明すべく、勇気を出してその花を食べた。
その記憶と今現在置かれている状況は、陸の立場が違えど酷似していた。巡り巡って自分の昔言った言葉が、自分に返ってきた。因果応報というヤツだろうか。
水木先輩の言葉に硬直する陸を、彼は表情の読めない目で見下ろす。その目があの頃の自分と重なる。
一向に動かない陸に痺れを切らしたのか、水木先輩は花弁をちぎる。一口サイズに千切られた花弁を陸の口に差し出した。
「何でも食べれるんでしょ?」
それさえも、陸が戸惑う友人の背中を押すように掛けた言葉だ。青い花が陸を責めるように見ている。他人に強制したくせに、自分は食べないのは卑怯だと。陸は、恐る恐るその友人のように従順に動いた。
差し出された花弁を口に含み、咀嚼する。
みずみずしい花弁は舌触りが良く、甘く、青臭い香りが口に広がった。コクンと飲み込むと、水木先輩は目を細める。
「いい子」
よしよしと子供のように頭を撫でられ、甘美な心地よさが頭から全身へ駆け巡った。その瞬間、食べて良かったなどと思えた自分の単純さ。ふと、水木先輩の手の中にある朝顔に気づいた。千切られた朝顔はくったりと彼の手の中に収まっていた。その花はもう、陸を見てはいなかった。
朝顔を食べたあの一件以来、陸と水木先輩の間に変化は無かった。
あの一件の翌日、ぎこちなくお茶を運ぶと、水木先輩が全く変わらぬ態度で接してきたためである。水木先輩の変わらぬ態度に、陸は「もしかして、俺は白昼夢でも見たんじゃないだろうか」と首を捻らせた。陸は水木先輩態度につられ、何事もなかったかのように日々を送っていた。
3小暑 鷹乃学を習う
ハチクマが空を飛ぶ小暑の末候。丑の日が今週に迫っていた。先生が奮発して土用餅を差し入れしてくれた。先生の太っ腹さに感服する。小豆餡に包まれたお餅は表面が滑らかで、まんまるとしていた。女子はかなり喜んで、先生に愛を誓った者までいる。女の子は総じて甘い物が好きな生き物なのだ。調子のいい生徒に、先生は「感謝するなら、コンクールで最優秀賞を取って欲しい」と軽口を言った。
陸も甘い物が好きで、洋菓子のように甘ったるいお菓子も好きだが、控えめで程よい上品な甘さの和菓子も好きだ。美術室でお茶を飲みながら、土用餅を食べ終わると、先生からすまなそうな顔で「悪いけど、水木くんに持っていってくれるかな」と切り出された。先生ですら、近寄りがたく思っている水木先輩の存在の異質さに驚きつつ、陸は頷いた。もとよりそのつもりである。
お茶と土用餅を手に、準備室に入ると、水木先輩が珍しく水彩絵の具を出し、筆を手にとっていた。
水木先輩は、真剣な面立ちで、人が来たというのに筆を操る事に集中している。その姿は、最初と変わらない。その横顔の真剣さや、熱心さは何も変わらない。変わったとすれば、戸惑わずに声を掛けられるようになった陸の方である。
「先輩。お茶とお菓子を持ってきました。」
「…なんのお菓子?」
水木先輩は顔を上げずに淡々と聞く。
「土用餅です。今週末、丑の日なので先生が奮発したそうです」
「…いらない。」
案の定断ったので、陸は肩を竦めて、水木先輩の近くの椅子にお茶を置く。その時に、水木先輩の手元を覗いた。この過程は、毎度繰り返すうちに、呼吸と同じくらい陸の体に染み付いていた。
絵には、両翼を広げたハチクマが大空を悠然と飛ぶ姿が描かれていた。固い羽毛に覆われた両翼が繊細な筆使いで表現されている。その勇ましい両翼の横縞が細かく描き込まれ、美しい。風に靡く羽は流れるよう。圧巻するのは、絶妙な青の絵の具の使い方。青で影や濃淡を表しているにも関わらず、現実のハチクマよりもハチクマらしさを感じさせる。愛好家たちの理想を詰め合わせたような、ハチクマの雄々しい姿がそこにあった。このハチクマは、強風に煽られ、広大な海を渡っている最中なのだろう。その光景が陸の頭にはっきりと浮かぶ。今にも動き出しそうなハチクマに目を奪われた。
ふと、水木先輩の青い絵の具が付着している指に視線が寄せられる。人差し指の第一関節だ。何かの拍子に筆先を掠めたのだろう。陸もよくやる。
水木先輩は陸の視線に気づき、顔を上げた。そして、陸の目線が絵ではなく、水木先輩の指に注がれているのだと気づくと、机に筆を置いた。そして、絵の具が付着した指を陸の前に差し出して、揶揄混じりの微笑を浮かべた。初めて見る表情に陸は瞠目する。陸の知っている水木先輩の表情は、面倒くさそうな顔と、真剣な顔、その2つに属さない無表情な顔だった。揶揄の色が滲む微笑は、水木先輩を年齢相応に見せた。
「…舐める?」
そう問われた。陸は困惑ながら、窺うように水木先輩を見る。座っている水木先輩の目からは、何の表情も読み取れなかった。ただ、陸を面白がるように、唇を歪めている。前回、準備室で朝顔を食べた事を思い出す。恨めしそうに見つめる朝顔が頭にちらついた。しかし、今回は陸に選択権がある。断ろうと思えば断れる。
なのに、何故だろう。どこか、甘く命令するような響きのある水木先輩の言葉に逆らえない。逃げても、追いかけられて、捕らえられて、目を隠される。
躊躇する陸を見つめる水木先輩の視線に、クラリときた。逆らえない、めまいがする。
震える唇を、その細長い指に近づけて、ちろりと舌を出して青い絵の具を舐めた。ザラリとした指の感触。絵の具の味は甘くもないはずなのに、舌が痺れるほど甘く感じる。ちろちろと犬のように舐める陸は、ふと視線を上げた。いつの間にか微笑を消して、能面のような表情で見つめる水木先輩が陸を見下ろしている。その視線に、顔に熱が集まる。自分が酷くいたたまれない存在だと感じた。舐め終わり、唇を離そうとすると、肩を捕まれ、動きを封じられた。
ぐっと弾力のある唇に、水木先輩の指を押し付けられる。
「吸って」
抑揚のない声音なのに、脳が蕩けそうな程甘く感じる。その言葉に促されるままに、陸は押し付けられた指を口に含み、吸う。水木先輩の指は、甘い絵の具の味がした。吸っていると、抽象的な「もっと」という欲望が湧き出てきて、何がもっとなのか、自分でも分からなかった。
水木先輩は掴んでいた肩を離し、その手で優しく陸の頬を撫でた。ぞくぞくと悪寒に似た快感が背筋に走る。水木先輩がこの間言った「いい子」という言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
「もういいよ」
宥めるように言われて、水木先輩の指を口から離す。その際にちゅっという淫猥な音が響き、陸は顔を真赤にさせた。そのまま水木先輩は、陸を解放せずに、ムニムニと親指で陸の唇を触り、弄る。そして、鼻と唇の間に指を伸ばし、トントンと人差し指で突く。
「…俺は、笑うと此処に線ができる子が好き」
水木先輩は、ふっと柔らかい微笑を浮かべた。その表情も初めて見る。どんどん新しい水木先輩の表情を知ってゆく。嬉しい反面、言葉の意図と意味が分からず、複雑な表情で水木先輩を見た。すると、水木先輩は気が済んだのか、手を離して再び筆を手に取る。
陸は、途方に暮れて水木先輩の背中を見るが、水木先輩は陸の視線を歯牙にもかけない。陸は、近くにあった椅子に座り、手に持った土用餅を口に運ぶ。美術室で食べた時には、上品な甘さがしたのに、口に広がるねっとりとした食感だけで、あまり味がしなかった。
とあるお昼休みに、購買へ行こうと教室を出る。ガヤガヤと騒がしい廊下を一人で歩いていると、数人の女子生徒が窓辺に身を寄せて、外を見下ろしていた。陸は、女子生徒の視線を追いかけて、窓の外を見る。そこには、中庭のベンチに腰掛けている二人の生徒の姿があった。思わず立ち止まり、窓に寄り添う。美術部の先輩での水木先輩と見しらぬ女子生徒がいた。水木先輩は変人だけれど、容姿はモデル並に整っているので、下級生から密かな人気を集めている。窓際の女子はその部類だろう。その隣に座っている女子生徒も、水木先輩と並んで引けを取らないほど可愛らしい容姿だ。彼女だろうか。そう考えると、何故かチクチク痛みだす胸に手を当てて、首を傾げた。すると、後ろから声を掛けられた。
「陸―!よっ久し振り!」
肩を叩かれ、振り返る。そこには、陽気な笑顔を浮かべた写真部の澤田がいた。彼は中学からの知り合いで、趣味も合い、時折遊ぶ仲だ。
「何みてんのー?って水木先輩と河内先輩じゃん。あの二人ほんとう美男美女カップルでお似合いだよねー。」
聞いてもいないのにべらべら喋りだす澤田。自分の考えは当たったらしい。その事実に、胸に疼く痛みが増す。
「…何の用?」
少し不機嫌そうに言うが、澤田は陸の態度を気にも止めない。他人の態度を気にしない所は、水木先輩と似ていた。
「そうそう。これ、現像できたから分けようと思ってさ。丁度見かけたんで、声かけたんだ」
差し出された写真を受け取る。陸は訝しげに写真に視線を落とす。そこには、麦わら帽子を被り、野菜の入った籠を抱えて笑っている陸の姿があった。背後は立体的な入道雲と、太陽の光を一身に受けるひまわり畑。夏の香りが漂ってきそうな一枚だ。
その写真を見て、去年の夏に祖母の家に澤田と行き、夏を満喫した過去を思起する。
「あぁ。あの時の…」
澤田は田舎が珍しいようで、熱心に写真ばかりを撮っていた。せっかく二人でいるのに、一人で居るような寂しさを味わった陸は、紛らわすために畑を手伝ったのだ。籠に熟れた野菜を抱え、歩いていると、遠くから澤田が陸の名前を呼んだ。声のした方を向けば、カメラを片手に手を振っている澤田がアホみたいで、「お前、本当に写真好きだよなー」って笑ったのだ。澤田の持ってきた写真はその時に撮られた一枚だろう。
「いい写真だろう?今年のコンクールに出品しようかと考えているんだ」
「はぁ!?この田舎臭い写真を?」
「なんだよ。いいじゃねーか。田舎。恥じる必要はなんもないぜ」
随分な言いぐさである。
「いや、そうだけどよ…」
確認するようにもう一度写真を見る。そこには、アホみたいに笑っている陸がいた。コンクールに出品するなら、このアホ面を大勢の人が目にする訳で、率直に言うと恥ずかしい。写真の中の陸は、未来の陸の複雑な心境を知らずに、呑気に笑っている。
「…ん?」
陸の視線はある一点に気づくと、訝しげに眉を寄せて、それをよく見るために写真に目を近づける。
「どうした?なんか変なもんでも写っているか?大丈夫。加工してやるよ。」
心霊写真とかでも加工できるんだぜ、と得意げに笑う澤田を無視して、陸は神妙な顔つきになる。
「…なぁ澤田。俺って笑うと此処に線ができるのか?」
人中を指で指しながら陸は澤田に聞いた。澤田は、考え込むように首を傾げ、記憶の糸を辿る。
「…たしかに、陸って笑うと鼻と唇の間に横線ができるな…言われるまで気づかなかった。」
陸は、もう一度写真の中で笑っている自分に視線を落とす。そこには、澤田の言った通り、人中に横線が入っている陸の笑顔があった。
「そうだよなぁ」
「なに?どうしたの?」
水木先輩が言っていた「笑うと此処に線が入る子が好き」という言葉を思い出した。そして、陸は笑うと人中に横線ができる。その好きな子というのが、恋愛対象として見ているのか否か。そこまで陸の考えは及ばなかった。陸はただ水木先輩の好きな子に入るという事実だけを噛み締め、陸は舞い上がりそうな程の嬉しさに笑顔を浮かべた。
満面の笑みを浮かべる陸を、澤田は不審そうに見る。
その日の放課後、陸は美術室に向かった。陸は大抵一番に美術室に到着する。到着したばかりの美術室は、空気が籠もっていて、薄暗い。壁際のスイッチに手を伸ばし電気を付けて、その後鞄を床に置くと、窓を開けて籠もった空気を入れ替える。
新鮮な空気が美術室に入り込み、少し冷えた心地の良い風が陸の頬を撫でた。全ての窓を開けると、準備室に向かって、カーテンと窓を開く。窓を開けると、間が悪く強風が吹き、机に乗ったスケッチブックが音を立てて捲れる。スケッチブックを閉じようと手を掛け、そこに描かれていた絵に案の定目を奪われた。毎度のことながら見入る。気がつくと、閉じようとしていた手が勝手にページを捲った。
持ち主がいない間に、無断でスケッチブックの中身を見ることは、誰もが嫌がる行為だ。頭では分かっていても、もっとその絵を見たいという欲望には勝てなかった。
一枚一枚味わうようにページを捲る。
「…なにしてんの。」
突如響いた淡々とした声に、陸はその場から飛び上がった。肩越しに視線を向けると、いつの間にか音もなく水木先輩が立っていた。顔を青くして、あわあわと慌てる。
「ごごめんなさい。風でページが捲れたから、閉じようとしたんですけれど、つい…その、中身が見えて、とっても上手かったんでつい、その…他のページもみたいなぁって」
言葉の後半になると尻すぼみになり、弱々しい声音で言い訳をする。水木先輩はチラリとスケッチブックを見てから、陸に視線を戻す。
「別に見たいなら見て良いよ。」
「え!?本当ですか!?」
「減るものじゃないから」
水木先輩は平然と鞄を下ろして、いつもの椅子に腰掛ける。陸はこれ幸いと、時間を惜しむようにスケッチブックをめくった。途中で、気分屋の先輩に「やっぱり返せ」と言われる可能性があるのだ。先輩の気が変わらぬうちに、全てに目を通したかったのだ。真剣な顔でページを捲る陸の姿を水木先輩は面白そうに目を細める。
「そんなに見たかったの?」
陸のページを捲る手が止まった。
「そりゃそうですよ。先輩の絵ですから。」
しれっと照れもせずに言ってのける陸に、水木先輩は目を瞬かせる。しかし、陸は水木先輩の相手をする時間さえ惜しいと言わんばかりに、スケッチブックから目を離さない。いつも水木先輩を見つめておたおたしている陸が、水木先輩よりスケッチブックを優先させた。それが気に食わなかったのか、水木先輩は他の手を使う。
「…俺の家にスケッチブックなんて山程あるけどね」
「え!?本当ですか!?」
陸は、顔を上げて宝の山を発見した海賊のように目を光らせた。その瞳に水木先輩は苦笑する。
「うん。…見に来る?」
「…え!?これは現実ですか?…嘘じゃないすよね?言質は取りましたよ。」
嬉しすぎて混乱している陸の姿を、水木先輩は呆れ混じりの微笑を浮かべる。先輩は最近よく、微笑を浮かべる。その微笑を見る度に陸は嬉しくなる。
「そうだな。今週の土曜とかどう?」
「今週の土曜ですかっ。ばっちり空いてます」
「なら、11時に☓☓駅に来て。」
「はいっ」
背後で見えない尻尾が左右にブンブン揺れている様が、水木先輩には見え、微笑を浮かべた。すると、二人の和やかな雰囲気を壊すように、準備室のドアが開く。
二人は入り口に一斉に視線を向けた。
「あ…蒼くん。ここにいたんだ。」
そこにいたのは昼休み、中庭にいた河内先輩だった。可愛らしい顔を赤く染めながら入ってきた河内先輩は、人形のように小さく、可憐だった。世の男が誰しも一度は付き合いたいと思うに違いない。
「なに?河内」
「これ、机の上に忘れていたよ。」
そういって差し出したのは宿題のプリントだった。水木先輩は「ありがとう」と礼を言い、プリントを受け取る。すると、河内先輩は花が咲くような笑顔を浮かべた。河内先輩は笑うと人中に横線ができていた。それに気づいた陸は、舞い上がった気分がジェットコースターのように急降下した。
陸は、二人の和やかな雰囲気にいたたまれない気持ちになり、顔を俯かせて、準備室を出た。その日は、飲み物を運ぶ事が億劫で、他の後輩に行ってもらった。
その週の土曜日に、陸は水木先輩の自宅を訪れていた。
「お、お邪魔します。」
緊張気味に声を上げるが、返事がない。すると、靴を脱いでいた水木先輩が「今日は誰も居ない」と答える。
水木先輩の後を追いかけ、二階に上がる。水木先輩の部屋は簡素だった。ベッドに勉強机、本棚などが置かれ、不要なものは一切ない。しかし、置かれている家具は一目で高級品だとわかるほど、上質だった。
「飲み物取ってくる」
水木先輩が部屋を後にして、一人寂しく取り残された陸は、落ち着かない視線で部屋を見渡す。壁際に置かれたベッドは、綺麗な青色だ。本棚を見ると、学校の参考書や医学書、経済の本が置かれて、美術の本は一切なかった。一体何を参考に勉強して、あそこまで上手くなるのだろうか。謎が深まるばかりである。
部屋は水木先輩の匂いに満ちていて、まるで水木先輩に抱きしめられているかのような錯覚に陥る。その考えに体温が数度上がり、誤魔化すようにパタパタと手で仰いでいると、水木先輩が帰ってきた。手には、ソーダが入ったグラスを2つ程もっている。中心のローテーブルにグラスを置きながら、水木先輩はチラリと陸を一瞥する。
「暑い?」
「い、いえ。」
準備室以外の場所で、水木先輩のこうして話すのは初めてだった。それが、まさか水木先輩の自室上がる事になろうとは、夢にも思わなかった。緊張で、肩が上がっている陸を見て、水木先輩は目元を和ませる。そして、机に設置されている棚からスケッチブックを数冊取り出して、陸の前に差し出した。
「はい、これ昔のスケッチブック」
「あっありがとうございます。」
緊張を忘れ、スケッチブックに飛びついた。そのうち一冊を取り出して、胸を高鳴らせて、表紙を開く。そこには、数年前に描いた静物画があった。その頃から既に水木先輩の画力はプロ級だ。天才は生まれながらに天才である人と努力して天才並に力をつける人がいるが、きっと水木先輩は前者だろう。美術の参考書なしに、描きまくって今の画力になったに違いない。
「先輩は、将来プロになるんですか?」
陸は、思わずその質問を口にする。水木先輩は途端に顔を顰め、苛立ったように陸を見る。睨まれるのは初めてで、陸は硬直した。水木先輩は勉強机の椅子に深く腰を下ろして、軽く舌打ちをする。
「絵がそこそこ上手ければ、誰も彼もプロになるのが当り前なの?趣味で描いてたら悪い?俺はそんなに絵に熱意を注げない。あくまで趣味程度で描いているから。」
苛立ちを押し殺した声音は、身震いするほど怖かった。いつも怒りとは無縁な水木先輩の逆鱗に触れたようだ。
水木先輩の言葉に、先日の美術室で先生が水木先輩に芸術大学を勧めていた光景を思い出す。必死に説得しようとしている先生に対して、水木先輩はイライラしながらその言葉を聞いていた。顔には一刻も早くその場を去りたいという願望が現れていた。
水木先輩に将来の話を振った事が原因だと考え、陸は戸惑いながら、謝る。
「すみません。…なら、SNSかメアド教えていただけませんか?」
「は?」
陸の言葉に、水木先輩は眉を顰め、「なにいってんだコイツ」という目で陸を見た。しかし、陸はそんな視線にもめげなかった。何よりもこの機を逃したらチャンスは来ないかもしれない。
「えっとですね。プロの方なら、HPとかで、展覧会などの告知をしたりしますね。ファンはネットなどでその人の情報を追って、展覧会へ行けば難なく絵を見れます。でも、一般の人だと難しいですよね…だから絵を公開するSNSがあったら教えてほしいです。SNSをしていなかったら、メアドを交換してもらって、気が向いた時に描いた絵などを送ってくださると嬉しい…です。趣味で絵を描いているなら、これからだって描くんですよね?…それを見れないのは凄く残念なので、…俺の存亡の危機です…情報共有手段を今の段階で得れば、先輩が卒業しても絵が見れますし、俺は凄く幸せです。」
必死にSNSやメアドの情報開示にメリットがあるように言い募り、上手いこと情報をゲットしようと躍起になった。だが、すべて言い終わった後に「これって俺にしかメリットなくない?」と盲点に気づき、顔を青くする。
「だが、この機を逃すと先輩の絵が一生見れなくなりそう…それは不味い…でも、先輩が俺に情報開示するメリットってある?」などと、考えが口からダダ漏れであることに気づけない程、陸は必死だった。
その独り言すらもしっかり聞いていた水木先輩は、呆気にとられ、肩の力が自然と抜けていくのを感じていた。
「…つまり俺がプロにならなくても、俺の絵を見れればそれでいいって事?」
「その通りです。」
陸は事もなさげに頷いた。水木先輩は陸の真っ直ぐな目を見て、自嘲混じりの柔らかい笑顔を浮かべた。「アホだなぁ」とその笑顔が言っている気がしたのは気の所為だろうか。陸は、水木先輩の表情と雰囲気が漸く何時も通りに戻ったのを見て、安堵の息を吐く。
「そう…分かった。SNSはしていないからメアド交換しようか。」
「やった!」
ガッツポーズをして喜ぶ陸に、水木先輩はなんとも言い難い柔らかな表情を浮かべる。
陸はいそいそと鞄からケータイを取り出して、晴れて水木先輩のメアドをゲットする。電話帳に水木先輩の名があることに嬉しさを感じ、ヘラリと嬉しそうな笑顔を浮かべた。その弛緩しきったアホ面に水木先輩は呆れ顔を浮かべる。
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