第三話 シロと化け物

その翌日のことだ。

修一は助けて貰ったお礼にと、サツマイモを二本持って、シロが根城にしている祠の辺りを訪れた。

今はこれが自分にできる精一杯である。

しかし、シロの姿がどこにもない。餌でも探してその辺りをウロついているのだろうか。

近くを探してみたがシロは一向に見当たらなかった。


なんだかひどく胸騒ぎがした。無事でいてくれよと願いながら、シロの姿を求めてあちこち走り回っていると、やがて桑畑の近くの空き地に、五、六人の老人や婦人たちが陣取って何やら話しているのが目に入った。

この時代、若者や働き盛りの男達はほとんど兵隊に取られている。目に付くのは女性や子供、老人ばかりだ。


何事かと近付いてみると、一人の老人の足元に、見憶えのある薄汚れた毛並みの、痩せた身体が横たわっていた。


「シロ!」と叫んで走り寄った。それは紛れもなくシロの変わり果てた姿だった。

すでに事切れているのは見れば分かる。身体中が何かに引き裂かれたように、赤黒い血で染まっていた。

一体何があったのかと、シロの傍らにいた老人に尋ねると、彼は少し離れた場所に立って額を突き合わせている婦人たちの足元を指差した。


そこに奇妙なものが横たわっていた。


生き物であるのは間違いなかった。シロと同様、すでに死んでいるらしい。


それは猿に似ていた。身長は五、六歳の子供と同じくらい。青黒い体毛が全身を覆い、手足が長く、皺だらけの指先には鋭い爪があった。


修一は思わず息を呑み、自分の左手首を押さえた。そこには昨日、鋭い爪で傷付けられた痕が生々しく残っている。


少し離れた場所から見ると、それはまるで人間の子供のようにも見える。

修一は回り込んでその奇妙な生き物の顔を覗き込み、そして目を見張った。

それはやはり猿に似ていたが、今まで見たことがないような、ひどく奇怪な容貌であった。


目はアーモンド型で異様に大きく、鼻梁が極端に低く、口先が前に盛り上がる形で突き出しており、皮膚は人間に近い肌色、縦横に幾本もの深い皺が寄り、血を滲ませだらりと開いた分厚い唇の間からは、狼のような牙が上下に二本づつ覗いていた。


光を失った灰色の瞳が虚ろに宙を見つめている。その光景に、修一は何か寒々としたものを覚えた。


「猿にしちゃえらく気味が悪い。こんなのは初めて見たな」と、修一の傍らに立った老人が嫌悪と戸惑いを表情を浮かべて呟く。

これが昨日、自分を山の奥へと誘い込もうとした奴に違いないと、修一は思った。

どう見ても人間ではない。猿に似ているがやはり違う。そもそもこいつは人間の子供に擬態し、なおかつ人語を喋ったのだ。普通の動物に出来ることではない。

もしシロが助けてくれなかったら、自分はどうなっていたのだろう。そう考えるだけで、改めて恐ろしさに身震いした。

化け物か、あるいは魔物か。今となってはその正体は知る由もない。


その化け物とも魔物ともつかぬ奇妙な生き物は、喉笛の辺りを無残に噛み千切られていた。赤黒い肉と白い骨が、傷口の奥から覗いている。シロの仕業に違いないはずだが、あの痩せ細った身体のどこに、そんな力が残っていたのかと不思議である。

本能のなせる業か、おそらくシロとこの猿に似た化け物は、昨夜ここで再び遭遇し、壮絶な死闘の末に相討ちとなって斃れたのであろう。


やがて巡査がおっとり刀でやって来て、しばらく検分したあと「これは本官が責任を持って処分する」と言い、近くの村人が持って来た麻袋にその化け物の死体を入れて持ち帰った。

修一はシロの死体は自分が引き取る、と申し出た。巡査の許可が下り、修一は衣服が血や泥で汚れるのも構わず、シロの死体を両手に抱きかかえ、元来た道を辿った。

昨日の出来事は誰にも話さなかった。話したところで信じて貰えないだろうし、なによりシロをいつまでも野晒しにしておくのが忍びなかった。


昨日、あの橋の袂で、シロは人間の子供に擬態した彼奴の正体を見破ったのだろう。そして自分に警告を発し、化け物を追い払うために、盛んに唸り吠え立てたに違いなかった。

自分はそれに気付かずシロを叱りつけ、愚かにも石まで投げてしまった。橋の袂で何かもの言いたげに佇んでいた、シロの姿が目蓋に浮かぶ。

あの後、シロは自分たちの背後をこっそりと追い掛け、修一にいよいよ危機が迫ると素早く駆け付け助けてくれたのだ。


野良犬のシロが、どうしてそこまでしてくれたのだろう。

自分はシロの姿に勝手に自身を重ね合わせ、ときどきサツマイモを分けてやったに過ぎなかった。

犬にも恩義に報いようとする心があるのか知らない。しかし事実、シロは自分を助け、そしてとうとう自らの命と引き換えに、あの化け物を噛み殺したのだった。


シロの亡骸を抱えて歩きながら、修一は何度も何度も、繰り返しごめんよと謝った。

しかしいくら泣いても詫びても、シロはもう二度と帰って来ない。シロの痩せっぽちな身体はひどく軽かった。


シロが根城にしていた祠の近くに穴を掘り、そこにシロの亡骸を埋め、一抱えほどの石を置いて小さな墓を作った。


戦争が終わったのは、それから間もなくのことだ。

                (完)

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逢魔ヶ刻 月浦影ノ介 @tukinokage

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