第ニ話 道の向こうに誘うもの
橋を渡ると、農家の点在する集落に入る。
この辺りでは牛を飼っている家が多い。ときおり牛の間延びした鳴き声が夏の茜空に響き渡り、どこからか漂う夕餉の匂いが鼻腔を刺激する。
腹が減ったな、と思った。
弟や妹も腹を空かせて、自分の帰りを待っているだろう。母はこのところ体調が悪く、寝込むことが多い。
医者に診せたら栄養失調だと言われた。馴れない田舎での生活に加え、父の実家との関係など、母は何かと気苦労が絶えない。
修一も栄養不足のせいで足に瘡が浮き出ていた。弟や妹も同様である。
修一は手を繋いで傍らを歩く子供に目を向けた。
身長は自分の半分ほどしかない。上から見下ろす形になるので、あずき色の防空頭巾を被った頭が見えるばかりで、表情は分からない。
兄弟はいるのかと尋ねたが無言であった。両親はどうしていると訊いても沈黙が返って来る。口が効けないのかも知れない。
しかし耳は健在なようである。家はこの辺りかと訊くと、無言で首を横に振り、さらに道の向こうを指差す。
やがて集落を抜けた。不思議なことに途中で誰とも行き合わなかった。
集落の先には畑や田んぼが広がっている。ふと振り返ると、西の空が夕焼けで真っ赤に染まっていた。
修一は夕焼けの色があまり好きではない。いや、むしろ嫌いである。
夕焼けの色はどこか空襲で燃える町を連想させる。
この村から東に三十キロほど離れた太平洋沿岸にある日立市は、工業都市であるが故に、今年の六月と七月に米軍の空襲を受けた。七月の空襲の前々日には艦砲射撃でやられている。
つい先日の八月一日には、その近隣にある水戸市がやはり空襲の被害を受けた。
どちらもその方角の空が赤々と燃えたぎり、まるで地獄の釜の蓋が開いたようだった。
水戸の空襲の翌日には、煤にまみれた罹災者たちがぞろぞろと列をなして、この村にも避難して来たのを修一も目にした。
最近は父からの便りも仕送りもない。あまり報道されないが、東京もひどい空襲を受けたと伝え聞く。
父は無事だろうか。自宅は焼けてしまったろうか。各地に疎開した級友たちは元気でいるだろうか。そんなことばかりが気に掛かる。
戦争の先行きについて、父の実家の大人たちが、こっそりと良くない噂をしてるのを何度か耳にした。きっと日本は負けるのだろうと思った。
風が吹いて来た。あまり育成の良くない田んぼの稲を、ざわざわと揺らして通り過ぎて行く。
背後からの夕陽に照らされて、土埃の舞う道の上に自分と子供の影法師が二つ。
田んぼと畑の間を通るこの道は、こんもりと茂った小高い山の方向へと続いている。
この先に人家などあったろうか。怪訝に思いながら、傍らの子供を見る。子供は相変わらず黙って俯いたままである。
山の麓には墓地があった。もうすぐお盆だというのに、今だに雑草すら刈られていない墓が幾つか目に付く。
苔むした古い墓石や朽ちかけた卒塔婆の間から、誰かがこちらをじっと覗いているような気がする。
子供の手を引き、その前を足早に通り過ぎた。蜩の啼く声が、いつまでも背中を付いて来て離れない。
道はなだらかな勾配となって、山の奥へと伸びている。
夕陽の最後の残照が鬱蒼とした木々の向こうに隠れ、蒼く薄暗い闇が修一の行く手を阻んだ。
緩やかな弧を描いて続く坂道の先には、漆黒の闇がわだかまっている。
修一は息を呑んで立ち止まり、再び傍らの子供に目を向けた。
薄闇が子供の姿を隠している。この頼りなく小さな身体が何か得体の知れないものに思えて来て、そのとき修一は自分がまだ子供の顔を直接見ていないことに気付いた。
なんだかふと、怖くなった。
「……本当にこっちなのか?」
幼い子供の案内だ。きっと道を間違えたに違いない。そう思い込もうとしながら、繋いだ手をそっと外す。
戻ろうと声を掛けた途端、いきなり子供の手が修一の左手首をがっしりと掴んだ。その力が驚くほど強い。
「こっちだよ」
子供が初めて口を開いた。しかしその声は幼子のものとは信じられないほど、異様にひび割れ嗄れていた。
「すぐそこだ」
修一の心臓を恐怖が貫いた。一瞬で全身が総毛立ち、反射的に逃げ出そうとしたが、子供が……いや、子供に擬態した“何か”が、手首を掴んで離さない。
激しい痛みに思わず振り返ると、自分の左手首を掴むそいつの手が、着物の袖口から覗く前腕から手の甲に掛けて、獣じみた濃い体毛で覆われているのが目に入った。
そこから伸びた五本の指は、まるで老人のように皺だらけで、長く鋭い爪が修一の手首に喰い込み血を滲ませている。
「離せ!」
修一は絶叫し、半狂乱になって叫んだ。
「助けてくれ! 誰か!」
そのとき、激しく吠え掛かる犬の鳴き声が辺りに響いた。
掴まれていた左手首が突然ふっと軽くなり、修一は支えを失って尻もちを付いた。
その目の前を、闇に紛れて白っぽい影が駆け抜けて行く。
「……シロ!」
修一は叫んだ。それは先刻、自分が橋の袂で石を投げ付け、置き去りにしたはずのシロだった。
シロは道の端で立ち止まると、熊笹が生い茂る暗闇の奥に向かって猛然と吠え立てた。
あの子供に擬態した“何か”は、どうやら茂みの奥へと逃げ込んだようであった。
「僕を助けてくれたのか」
修一は立ち上がり、シロに近付くとその背中を撫でた。
シロは激しい怒りと敵意を剥き出しにして、茂みの奥に向かって唸り声を上げている。
そこに潜んでいるモノの気配を、修一は肌が粟立つ思いと共に感じた。
「もういい、シロ。行こう」
修一はシロを促し、その場を離れた。
茂みの奥の暗闇に潜む“何か”が、こちらの様子をじいっと窺っているのが分かる。
背後からの襲撃に警戒しながら、修一はシロを伴い、山の奥へと続く一本道を急いで立ち去ったのだった。
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