逢魔ヶ刻

月浦影ノ介

第一話 橋の袂にて

修一が東京から茨城県北西部にある小さな農村に疎開したのは、昭和十九年八月のことであった。

戦時中、文部省が縁故疎開の可能な家庭から、疎開を奨励する政策を打ち出したのが、その前年の十二月である。

翌十九年六月、北九州がB29による本土最初の空襲を受け、それから間もなく子供たちの集団疎開が閣議決定された。


修一はこのとき小学五年生であった。彼の両親は話し合った結果、集団疎開ではなく縁故疎開を選んだ。

縁故疎開とは、地方に住む親類や知人を頼って疎開することをいう。

修一の父は茨城の農家の出である。修一と母、八歳の弟と五歳の妹の四人で、父の実家に疎開することになった。

警察官である父は職務を離れる訳には行かず、東京に一人で残った。


父の実家に無事たどり着いたものの、茅葺き屋根の古く小さな家には、父の両親である祖父母と長男家族の他に、すでに疎開していた親類一家がひしめいており、修一たちに割り当てられる部屋は残っていなかった。

そこで近所の空き家を借り、そこに住むことになった。

昨年まで身寄りのない老人が一人で暮していたというその家は、まるで掘っ立て小屋のように粗末な作りで、雨漏りがひどく、風の強い日には戸板や柱が今にも崩れそうなほど激しく鳴った。

それでも戦争が終われば、また東京に戻れると、母子四人で耐え忍んだのだった。


東京で生まれ育った修一にとって、田舎での生活は何かと不便で辛いことも多く、なかなか馴染めずにいた。

さらに転校先の小学校では、地元の子供たちから「疎開っ子、疎開っ子」と言って苛められる。自然と一人でいることが多くなった。


疎開から半年以上が過ぎた頃、修一の家の近くに一匹の野良犬が棲み着いた。

どこにでもいるような雑種である。辻に建つ祠の辺りを根城にし、餌を探しているのかウロウロと歩き回る姿をよく目にする。

修一は犬を飼ったことがないので分からないが、あまり若くはないようだった。

元々白かったであろう毛並みは土埃で薄汚れ、痩せてあばら骨が浮き出ていた。

人間にひどい目に遭わされたことがあるのか、近付こうとすると唸り声を上げて威嚇する。


修一はその野良犬が、どこか自分に似ているような気がしてならなかった。

村の悪童どもが石を投げ棒で追い回す姿を見て、止めさせようとしてガキ大将にしたたかに殴られたこともある。

根城にしている祠の辺りに、ときどき自分のサツマイモを半分置いてやった。遠くから見守っていると、野良犬がそれをしばらく嗅ぎ回ってから口にする様子が見え、すると修一は何故だかホッとするのだった。

修一はその野良犬を、密かに「シロ」と名付けた。

皮肉ではない。空腹と疎外と、空襲警報に怯える日々の中で、その名はどこか自分に似た野良犬に対するせめてもの敬意であり、自分自身のなけなしの誇りと自尊心の表れであった。



この村に疎開してやがて一年が経った、昭和二十年八月初旬のことである。

父の実家の農作業の手伝いを終えると、修一は釣り竿を担いで近くの小川へ釣りに出掛けた。

この年の日本は五十年来の大凶作であった。農家といえども口にできるものは乏しい。

母や弟、妹のためにもたくさん釣って帰りたかったが、どういう訳か今日に限って一匹も釣れない。

夕暮れが迫る頃、肩を落とし家路に着いた。


小川沿いに続く細い道を、足元の影を見つめながらとぼとぼと歩く。

ふと見ると、道の向こうの橋の袂に、小さな人影が佇んでいた。

幼い子供であった。男の子だ。歳は五、六歳といったところか。空襲警報もないのに何故かあずき色の防空頭巾を被り、色褪せた若草色の粗末な着物を着ている。


こんな田舎にも空襲はある。修一も一度だけ、米軍の艦載機に追われたことがあった。

死にもの狂いで走って近くの草むらに飛び込み、両腕で頭を覆って伏せた。その直後に背後で凄まじい機銃掃射の炸裂する音が響いて、土煙が舞い上がり、再び顔を上げたときには、敵機は夏の陽光の彼方に小さな影となっていた。

どこかで悲鳴が上がった。誰かが撃たれたようだった。“死”が、修一のすぐ傍らを通り過ぎて行った。


子供は泣いていた。小さな手のひらで顔を覆い、声もなくさめざめと泣く姿はひどく哀れを誘う。

歳上の悪童どもに苛められたか、それとも迷子にでもなったか。

もうじき日も暮れる。放って行く訳にもいかず、修一は子供の前で立ち止まった。


一体どうしたのかと尋ねたが、子供は泣くばかりで一向に答えない。顔は手のひらで覆われて見えなかった。この近所の子だろうか。

「家まで送ってあげるよ。どっちから来たんだい?」

できるだけ優しい声で話しかけると、子供は小さな手で橋の対岸を指差した。

遠回りになるが仕方あるまい。修一は子供の手を取ると、橋を渡ろうと歩き出した。


そのとき、背後で突然、唸り声がした。


振り返ると、そこに自分が勝手に「シロ」と名付けた、あの野良犬が立っていた。

いつになく険しい表情でこちらを睨み、牙を剥き出しにして、低い姿勢で威嚇している。


一体いつの間に近くに来ていたのか。それも不思議だが、シロの様子を見て、修一は変だなと思った。

ときどきサツマイモを分け与えていたせいか、最近のシロは修一に対し、懐くことはなくても威嚇することはほぼなくなっていた。

それがどういう訳か、今にも飛び掛からん勢いで、こちらに敵意を剥き出しにしている。

子供が怯えたように、修一の背後に隠れた。もしかして、この子を威嚇しているのだろうか。

「どうして怒ってるんだ、シロ。こんな小さな子が、お前に悪さする訳ないじゃないか」

声を掛けたが、シロが収まる気配はない。ついには激しく吠え始めた。

「やめろ、シロ」

修一は足元に落ちていた石ころを拾うと、シロに当たらないよう気を付けて、その手前の地面に投げ付けた。シロがさっと後ろに跳んで身を躱す。

「いい加減にしろ。自分のねぐらに戻れ」

そして自分の背後に隠れた子供の手を取ると、もう大丈夫だよと言って橋を渡り始めた。


シロが追い掛けて来る様子はない。橋を渡った辺りで振り返ると、シロが先ほどの場所に佇んだまま、何かもの言いたげに、じっとこちらを見据えていた。



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