蛮性と抒情、時間と人類

全体を通して、石原慎太郎『わが人生の時の時』を彷彿とさせる、無意識過剰と乾いたユーモア、そして死の観念が横溢しています。
たとえばこのレビューの執筆時の最新作である「さよならフォルマッジョ」では、「戸棚のなかには古く硬くなりはじめた/フランスパンに安いチリ産のワイン」という詩句と、「あの映画、朝日会館のアジア映画祭で観た/映画のタイトル、わすれたから、教えてくれ」という詩句が、ごく平然とつなげられています(もちろん肝心なのはその〈つなげられよう〉なのですが、それは実際に読んでみてのお楽しみということでお願いします)。
とはいえ、上記の石原の美質が蛮性と抒情のコンクリフトに求められるとすれば、この作品はどちらかというと、「時間の変わり身」とでもいうようなコンセプトにその淵源を求めてみたくなる気がします。
ある時間がべつの時間に成り変わること。その過程で呼び寄せられる何か。
そこには死の匂いがどうしてもつきまといます。もっともこれは当然といえば当然であって、というのもどのような主体も死を免れえないのならば、主体によって構成される時間は、生きているものが構成しているにも関わらず、むしろ刻々と「死んでいく」ものではないか。そんな気もしてきます。
そしてもうひとつ、「継ぎ接ぎだらけの生活」というのはまさに言い当て妙であって、しかし付け加えるとすれば、生活=詩として構成される客体それ以上に、詩を構成する主体(「詩人」?)こそが、むしろ「継ぎ接ぎ」なのではないか、という感じがします。
作品に統一性がないということ以上に、構成する主体そのものに統一性がない印象を受けるのですが、重要なのはその統一性の欠如という一点によって、それぞれの作品が「パッチワーク」というひとつの題目にまとめられていることです。
だとすると、この作品に提示されている美質の所有権は、「詩人」のものではなく、むしろ「時間」にあるのではないか。
継ぎ接ぎだらけの時間の只中で、いつともどことも知れず生きては死んでいる、詩人=人間ではなく「人類」のパッチワークが、いくつも差し出されているような気配です。