神宮道とエフェメラル はじまり

泉坂 光輝

第〇章『祖父と春色の宝箱』


 からからと玄関の扉が開く音に、眠たい目を擦りながら窓の外に目を向けた時、庭にある紅色の梅花がひとつ、はらりと零れ落ちた。

「ナラ、荷物届いたで」

 母の声とともに注ぎ込んだ暖かな風が頬を撫で、髪を揺らす。小春日和と称するに相応しい穏やかな陽気の中で、いつの間にか眠りに落ちてしまっていたのだろう。硬くなった体をほぐすように伸びをしたあと、私はゆっくりとソファーから立ち上がった。

「何の荷物?」

 夕食の準備をしていたのだろうか。エプロン姿の母は私に白い紙袋で包まれた小さな郵便物を手渡し、小首をかしげる。

「さぁ? 忙しいから自分で見て」

 そう忙しなく返し、スリッパを鳴らしながら台所のある奥の部屋へと消えていった。

 三月中旬、私が高校を卒業してからもう半月になる。ようやく大学受験を終えた私に、母は「好きなことを好きなだけ楽しみなさい」と言ってくれていた。しかし、今まで積み重ねた習慣から簡単に抜け出せるはずもなく、暇を持て余せば参考書に視線を落とす日々を繰り返す。

 今日はとても暖かい。気を抜くと再び夢の中へと沈んでゆきそうな心地良い気温と柔らかい陽射し。その春の誘いに抗うように眠気の残る目を擦った私は、再度ソファーへと腰を下ろし、受け取った小包に意識を集中させた。

 昨年の春、私は尊敬する祖父を亡くした。

 祖父は弁護士で、京都市東山区にある神宮道じんぐうみちの傍の路地で法律事務所を構えていた。とても面倒見の良い穏やかなひとで、転勤を繰り返す検察官の父に代わり、幼い私を色んな場所へと連れていってくれたことを覚えている。けれど、私にとっての祖父は優しいだけのひとではなかった。何度も法律事務所へと遊びに出掛け、祖父の話を聞き、法律に関する様々な本を読む中で、私は弁護士としての祖父に絶対的な憧れを抱くようになった。

 その彼も、もうここにはいない。いないはずなのに。

 私は手元の小包の差出人欄に書かれた文字をゆっくりと人差し指でなぞる。

 高槻たかつき匡一朗きょういちろう――それは間違いなく祖父の名であった。届くはずのない人からの郵便物に、高鳴る鼓動を抑えるように深呼吸を繰り返したあと、私はそれを静かに開封した。

 包みの中から顔を出したのは、和風模様の布張りの小さな箱であった。丁度文庫本がぴったりと収まる程度の大きさで、若草色の布地に桜の花が散らされたデザインは春めかしさを感じさせる。

 中にはどんな贈り物が収められているのかと、私は箱に手をかける。その時、ようやく箱の正面にダイアルキーが埋め込まれていることに気が付いた。数字は四桁。どうやら箱には鍵がかけられており、それを開くためには四桁の数字を入力しなければならないらしい。

 時々、祖父は私になぞなぞのような簡単な問題を出すことがあった。その時と同じように、今回も小さな謎が仕組まれているのだろう。祖父のことだから、きっと答えを導くための手懸かりは近くに隠されているはずだ。

 私は傍らに置いていた紙袋へと手を伸ばす。その中にはもう一つ小さな箱が入っていた。先ほどのしっかりとした作りの小箱とは違い、紙でできた白い縦長の化粧箱で、控えめに「賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ」と記されている。それは上賀茂神社かみがもじんじゃの正式名称で、箱を開いた瞬間、ふんわりと優しい香の匂いが私を包み込んだ。

 中には可愛らしいきんちゃく袋の御守りがあった。ぷっくりと丸みを帯びた桃色のちりめん細工で、袋の表面には二葉葵が刺繍されている。この御守りがどのような形で解に繋がるのだろうか。

 そう、頭を捻りながら考え込んでいた時、夕食の下準備を終えた母が居間へと姿を見せた。

「お母さん、さっきの荷物、お祖父ちゃんから届いたみたいなん」

「え、お祖父ちゃんから?」

 母は訝しい表情で私の手元を覗き込む。

「中にこれが入ってたんやけど、鍵がかかってて」

 小箱を開くためには四桁の数字が必要であることを伝えると、彼女は驚くよりも先にキラキラと瞳を輝かせながら閃いたように両掌を打ち合わせた。

壱弥いちやくんに相談してみたら?」

 母が突拍子もなく口にしたのは想定外の人物の名前であった。


 春瀬はるせ壱弥さん――恐らく年齢は二十代後半で、生前の祖父と親しく、今は探偵をしている人物である。私が彼に出会ったのは今から二年前。まだ祖父が弁護士として仕事をしていた頃、雪のちらつく季節に突然事務所へとやってきた不思議な青年だった。

 祖父曰く、私が生まれるよりも前からの知り合いで、よく事務所に遊びに来ていた近所の少年だったそうだ。とはいえ、私が頻繁に祖父の事務所を訪問していた小学生の頃にも、彼らしき人物に出会った記憶などはなく、にわかに信じがたい話でもあった。

「え、嫌や。あの人ちょっと怖いし」

「全然怖くないよ、素直で可愛らしい子やで。それに、イケメンやし」

 母はイケメンな先輩の噂をする女子高生のように、きゃっきゃと笑う。

 確かに彼はすらりとした長身で、淡い色の瞳も美しく、整った顔立ちをしている。彼の綺麗な容貌を思い浮かべた私は、その想像を掻き消すように首を振った。

「そういう問題とちゃうし。やってあの人……」

 今まで彼と言葉を交わす機会はそう多くはなかった。母に届け物を持たされた時や、事務所の管理として使いに出された時に少し顔を会わせる程度で、事務的な会話を交わすだけ。上辺は優しいひとなのだが、時々派手な格好の女性を連れ込んでいることもあって、あまり良い印象はない。

 正直なところ、彼が祖父の事務所を引き継いでから一年近くが経った今でも、私は彼が信用できる人物だとは認められずにいた。その理由は先に述べたことだけではない。

 彼が事務所にやってきてから僅か一年で祖父は急逝した。勿論、長く患っていた病気が原因であることは理解しているつもりではあった。しかし、働き始めてたった一年と少しだけの彼がその才能を買われ、事務所を引き継ぎ、探偵事務所として再スタートさせたことに、どうしても事務所を乗っ取られたように思えてならなかったのだ。

 そもそも弁護士でも司法書士でもない彼が、どうして祖父の法律事務所で働くことになったのだろうか。以前は全く別の仕事をしていたようであるし、私と同じようにこれから弁護士を目指そうとして勉学に励んでいるわけでもないらしい。それでも、法律家としての経験のない彼のことを、祖父は「よくやってくれている」といつも褒めていたことを覚えている。

 彼と一緒に仕事をしていた母も彼のことは信用しており、私は彼の存在には何らかの裏事情があるのではないかと疑っていた。

「そんなこと言うたらあかん。壱弥くんはきっちりした探偵さんやし、事務所も大事にしてくれてるんやからね」

 そう、母は諭すように優しい口調で告げる。その言葉を聞くと、自分が浅はかで、祖父との思い出を壊されたくないと駄々をこねる子供のように意地を張っているだけなのかもしれないと感じてしまう。それでも、私は全くの他人を無条件に受け入れられるほど大人ではなかった。

「それに、困ってるんやろ? 壱弥くんなら絶対に協力してくれると思う。お祖父ちゃんのこと大切に思ってくれてはるみたいやから」

 柔らかい母の言葉が耳に届く。きっと母の言うことに虚実などないのだろう。私は僅かに痛む心を押さえながら小さく頷いた。

「分かった、春瀬さんに相談してみる……」

 今直ぐには彼を受け入れることは難しいが、母の言葉通りの人柄を感じられれば少しは心を許すことが出来るのかもしれない。私は小さな不安とともに、春色の小箱を抱き締めた。


      〇


 昨日とは異なって、少しだけ寒さを感じる日曜日の午後。私は柔らかいベージュのニットカーディガンを羽織って北白川の自宅を出発した。家から事務所までは、愛用の赤い自転車で約二十分。母に持たされた差し入れのおやつを前かごに積んで、白川通を南へと下がる。

 私は冷たい風を頬に感じながら南禅寺の前を通り過ぎ、三条通へと右折する。そして神宮道を進み、ようやく事務所へと辿り着いた。

 祖父の趣味が詰まったこの建物は、一見するだけでは事務所だとは思えない純和風建築物で、入り口には立派な門がある。その傍らに自転車を止めて前かごの鞄を掴み上げると、私は砂利の庭へと足を踏み入れる。

 呼び鈴を押してから僅か数十秒。目の前の格子戸がほんの少しだけ開いた。

「はい」

 低い声と共に、彼が顔を覗かせる。

「あぁ、君か」

 そう、私の姿を認識した彼はからからと大きく扉を開け放った。

 日曜日にも関わらず皺のない綺麗な白シャツにネクタイを締め、紺色のスーツを纏っているところを見ると、朝から仕事をしていたのだろう。淡い色の瞳と視線が重なった瞬間、どきりとした。

「何か用か?」

 変わらず落ち着いた低い声で、彼は私の顔を覗き込みながら問いかける。私は乱れた心を整えるように深く息を吐いた。

「ご相談がありまして……」

「ふうん」

 彼は無表情のまま相槌だけを打った。にこりともしない彼には、やはり少しだけ恐ろしさを感じてしまう。

「母に、春瀬さんに相談したらええって言われたんです」

 そう、私が言い訳染みた言葉を絞り出すと、ようやく彼はうっすらと微笑んだ。

「そうか。君のお母さんにはいつもお世話になってるからな」

 彼はくるりと身を翻したあと、私を事務所へと招き入れた。

 この事務所は少しだけ変わった造りになっている。入口を潜った先に玄関はなく、靴のまま上がるように出来ており、その更に左手奥に進むと居住場所へと続く本来の玄関が存在する。人の行き来の多いこの事務所部屋は優しい橙色のフローリングと真っ白な壁が印象的で、祖父との思い出が詰まった温かい場所であった。

 明るく清潔感のある部屋には、彼が使用するシンプルなデスクと書類を並べるための書架、そして応接用の白いソファーとローテーブルが配置されている。その必要最低限のものだけを並べた空間は、すっきりとしていて悪い印象こそ与えるものではないが、どこか寂しさを感じさせる。

 促されるままソファーに腰を下ろすと、彼は温かい紅茶の入ったティーカップを私の前に差し出した。

「それで、相談って?」

 反対の席に着座した彼は机上の黒い手帳を開く。私は膝の上に乗せていた拳を解き、傍らに据えた鞄の中から問題の小箱と葵の御守りを取り出した。そして、この小箱が葵の御守りとともに祖父の名で届けられたこと、箱を開くためには四桁の数字が必要であることを説明する。

「なるほど、この小箱を開けるための謎解きってわけやな」

 彼は想像していたよりもずっと真剣に耳を傾けてくれているようで、手渡した小箱を隅々まで見回している。一頻りの観察を終えると、落ち着いた口調で私に尋ねかけた。

「心辺りのある数字は?」

「誕生日とか、祖父の命日は試してみました」

 そう伝えた瞬間、彼は眉間に皺を寄せた。

「匡一朗さんからの贈り物やったら、彼が生前に仕組んだものって考えるのが一番納得いく推理やろな」

 厳密に言えばあらゆる可能性は捨てきれないが、考え始めるときりがない。ゆえに、私も同様の推理が一番シンプルで説得力のあるものだと思っていた。

 彼の言葉を首肯した直後、それが皮肉を込めたものであることに気付く。

「そうですね、祖父の命日を入れた私が阿保でした」

「自分で気づくとは、阿保は阿保でもただの阿保やなさそうやな」

 そう、彼はにんまりと笑いながらわざとらしく感心する素振りを見せる。しかし直ぐに色を正し、さきほどまでの意地悪な表情をも掻き消す真摯な面持ちで、瑠璃色の万年筆を左手に携えた。

「冗談はおいといて、謎解きのヒントを探すならこの御守りが有力やろな。見せて貰ってもいいか」

 その言葉に、私は化粧箱ごと彼にそれを差し出した。白い紙の蓋を開き、細長い指先で可愛らしいきんちゃく袋の御守りを摘まみ上げる。

「中はお香か……」

 箱に添えられた説明書きに目を通しながら、彼は言った。

 古くから香は邪気を払う効果を持つと言われている。香が込められたこの御守りは、身に着けることで邪気を払い、幸せを呼び込むよう祈られたものであるそうだ。

「何か分かったんですか?」

 滑らかな手つきで手帳に文字を書き込む彼に向かって問いかけると、少しだけ手を止めた彼は私を一瞥した。

「いや、全く」

 さらりと返された言葉に、少しだけがっかりした。しかし、彼は視線を手帳に落としたまま続けていく。

「あんまり神社仏閣のことは詳しくないでな。何か手掛かりになるもんが上賀茂神社にあるんやとしたら、ここで考え込むよりも実際に見に行く方が早いかもしれへん」

「今からですか?」

「思い立ったが吉日って言うやろ」


       〇


 市バスに揺られながら、私は流れていく外の景色を見つめていた。シンプルな黒色のニットの上にカーキ色のコートを羽織った春瀬さんは、一言も発さないまま私の隣に座っている。時々何かを考え込むように静かに目を閉じる彼は、私が抱いていたイメージとは少しだけ異なっていた。

 嘘くさい上辺だけの笑顔を張り付け、人の機嫌を取るのが得意というような軽薄な人なのかと想像していたが、あまり口数の多くない彼は、落ち着いた雰囲気を纏う大人の男性であった。

 こうやって改めて見ると、その容姿は誰かがきっちりとデザインをしたように完璧に整っている。正直、男女問わずここまで綺麗な顔の人を私は他に知らない。この蠱惑的な容姿だけで、無条件に彼に惹かれてしまう人もいるはずだ。

 真っ直ぐに前を見据える彼の横顔を眺めていると、淡い不思議な色の瞳が動き、私の顔を映した。

「どうしたん?」

 いえ、と彼の問いかけに私は小さく首を横に振る。直ぐに彼の視線は外されたが、どうしてか胸が高鳴りを覚えた。


 上賀茂神社は京都市北区にある京都最古の神社であり、下鴨神社しもがもじんじゃとともに賀茂社かもしゃと称し、世界文化遺産に登録されている。

 正面に佇む一ノ鳥居を潜り真っ先に目に留まるのは、左右に広がる青い芝生の神苑と、中央に伸びる長さ百六十メートルにも及ぶ白砂の参道であった。

 神苑には風格を備えた由緒ある二本の枝垂れ桜が屹立している。その二本の桜はそれぞれに花を開く時季が異なり、三月下旬から四月下旬にかけて順に見頃を迎えていくそうだ。まだ綻び始めたばかりの枝垂れ桜も、新しい年を迎える四月には祝詞を唱えるように満開となるのだろう。

 私よりも少しだけ前を歩く春瀬さんは、中門の前で歩行速度を落とし、ふわりと振り返った。

「そういえばここに匡一朗さんと一緒に来たことは?」

 真剣な面持ちで私を見下ろしながら、低い声で問いかける。

「あります。中学受験の合格祈願やったんで、もう六年ほど前ですけど」

「その時どんな話をしたんかは憶えてるか」

 私は当時の記憶をぼんやりと思い浮かべた。

 あの頃はまだ純粋な子どもだった。私の手をしっかりと繋ぐ祖父が「君なら大丈夫」と言ってくれるだけで、怖いものなど何もないと思えた。だからこそ、祖父と同じ弁護士になりたいという夢だけを頼りに、迷うことなく真っ直ぐに走ることが出来たのだ。

「……はい、なんとなくは」

「そうか。多分、この謎解きは君が知ってる事の範囲で解けるはずや。もし匡一朗さんが君に話したことがあるんやったら、それが強いヒントになると思う」

 彼は頷く私の顔を見遣り、微笑ましいものを見るようにふっと表情を和らげる。

「ゆっくりでいいからその時の記憶を辿ってみよか」

 そう、彼は優しく諭すような口調で告げたあと、真っ直ぐに前を見据えた。


 境内は想像していたよりもずっと静閑な場所であった。

 二ノ鳥居を通ったすぐ正面には細殿ほそどのと呼ばれる殿舎があり、その前には上賀茂神社の象徴でもある一対の円錐状の砂山がある。それは立砂たてずなと呼ばれ、賀茂別雷神が降臨したという神山こうやまを象り、神を招く憑代としての意味を持つそうだ。

 簡略的に説明が記された立て札を眺めながら、春瀬さんは難しい話を聞かされた子どもの如く首を捻った。そんな彼の姿を見ていると、同じこの場所で祖父と話をしたことが蘇る。

「あの時、お祖父ちゃんからこの立砂の話を聞いたあと本殿にお詣りに行ったんです」

 私がこの奇妙な砂山を前に意味が分からないと頭を悩ませていた時、祖父は神社の由緒と合わせてその成り立ちを説いた。勿論、当時はその言葉の半分も理解できてはいなかったが、今ならなんとなく分かるような気がした。

 記憶をなぞるように本殿で手を合わせたあと、境内をぐるりと見渡しながら歩いていく。緑が溢れる静かな林を過ぎると、木漏れ日に照らされてきらきらと光る小川が姿を見せた。

 川辺には低い石段が整備され、自由に足を浸すことができるようになっている。夏場になると涼を求めて訪れる親子の微笑ましい姿を見ることが出来るが、今はまだ肌寒さの残る初春であるゆえに、川辺で遊ぶ子どもたちの姿はどこにもなかった。

 少しだけ寂しい小川の畔を歩きながら、私は春瀬さんに声を掛ける。

「あともう一つはっきりと憶えてるのは、ならの小川の話です」

「ならの小川?」

 聞きなれない名称を耳に、彼はその言葉を復唱する。

「はい。この川のことなんですけど、和歌で詠まれた場所なんです」

 私は足を止めた。新しく芽吹く楓の下には艶やかに光る歌碑があり、そこには誰もが耳にしたことがあるであろう「百人一首」の古歌が刻まれていた。

 

 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける


 それは百人一首第九十八番、藤原家隆の歌である。

 風がそよそよと吹いて楢の木の葉を揺らし、夕暮れはすっかり秋のような涼しさだ。ただ、ならの小川で行われている禊の儀だけが、暦上はまだ夏であること思い出させてくれるのだ。

 そう、詠ったものだ。

 六月の終わり、ならの小川では「夏越大祓なごしのおおはらえ」という儀式が行われ、罪穢を落とし次の半年をよりよく迎えるようにと願う。その儀式の中で罪穢を遷した人形を流す場所こそが、このならの小川なのだ。

「この『なら』の由来ってなんやろ」

 冷える川辺の空気に両掌をコートのポケットに仕舞ったまま、春瀬さんは些細な疑問を口にする。

「小川が楢の木の傍を流れてたことと、奈良社っていう摂社が近くにあることからそう呼ばれるようになったらしいです」

 ふーん、と彼は相槌を打った。その声音は、興味がないのかと思わせるほど抑揚のないものであった。無表情にも近い彼の横顔を見上げると、淡い瞳が歌碑から離れ空中を彷徨ったあと、滑らかに私に向けられる。

「じゃあ、君の名前は?」

 その問いかけに、私は一瞬だけ言葉を見失った。「ナラ」という私の名は祖父が命名したものだと聞かされたことがあった。きっとその名の由来も耳にしたことがあるはずなのに、どうしてか思い出せずにいる。

「すみません、名前の由来は憶えてなくて……」

 彼は少しだけ目を見張った。

「そうか、余計なこと聞いて悪かったな」

 低い声で紡がれた謝罪の言葉を聞いて私が大きく首を横に振ると、彼は微かに口元を綻ばせた。その表情は彼が決して冷たい人ではないのだと印象づける。抱いていた嫌悪感が拭い取られていく感覚は、暖かい春の気候の中で緩やかに融ける根雪にも似ていた。


       〇


 再度一ノ鳥居を潜って神社を後にした私たちは、周囲に広がる社家町しゃけまちをゆっくりと歩いていた。そこは神社の神職者たちが住んでいた町で、古い建造物がそのままの形で残っていることから、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 境内を貫くならの小川は町に出ると明神川みょうじんがわへと名称を変え、趣のある景観の中で涼し気な音を立てながら東へと流れていく。その滔々と響く流水音を背景に、春瀬さんは小さな欠伸を零した。

 何度も繰り返し祖父と巡った思い出の場所をなぞってみたが、四桁の数字を導き出すことは出来なかった。思えば上賀茂に降りてからずっと歩き通しで、少しずつ疲れが溜まってきているのだろう。謎解きのヒントを見落とさないように意識を巡らせていた故に、神経を消耗し、気の緩んだ途端に眠気が襲ってくる。

 私たちは少しだけ疲れた足を休めようと、川沿いに見つけた和風喫茶の暖簾を潜った。そこは古い町屋を改装した真新しい喫茶店で、優しい木の温もりを感じさせる内装と溶け合うように店内にはジャズミュージックが響く。漂う甘い香りに誘われて、私はケーキセットとダージリンティーを、春瀬さんは苦いブラックコーヒーを注文した。

「そういえば君、大学に合格したんやってな。おめでとう」

 しばらくして届けられたコーヒーをかき混ぜながら、春瀬さんが静かに告げた。

「……ありがとうございます」

「どうかしたん? もっと喜んだらええのに」

 そう、不思議そうな面持ちで瞳を瞬かせる。その言葉を聞いて、ようやく私は自分が上手く笑えていなかったことに気が付いた。

 もちろん、ずっと憧れだった大学に合格することが出来たのだ。それは夢のような話で、喜ばしいことではあった。

 私は彼から視線を外し、吐息を漏らした。

「正直、まだ実感がないんです」

 これから多くの新しいことに触れて、貪欲に知識や経験を吸収していくことになるだろう。未だ見ぬ景色を眺望し、未だ知らぬ人に出会い、弁護士という大きな夢に向かって進んでいく。そしていずれは祖父と同じ舞台に立って、彼の面影を追いかけながら成長を繰り返していく。ずっとそう思っていた。

 しかし、抱く理想は脆く、目の前に吊るされた現実は果ての見えぬ闇そのものであった。

「大学に合格することが目標やったわけちゃうし、これからもっと努力しやなあかんのは分かってます。厳しいことは理解して法学部を選んだつもりです。……でも、やっぱり考えたら不安なんです。ほんまにこの選択で良かったんかなって思うと、些細なことが心配になって、このまま四月が来やへんかったらええのにって思ってしまうんです」

 あの頃とは違って、傍に立って手を繋ぎ、迷子にならないように導いてくれる優しい祖父もいない。目標だった人を亡くし、無敵だった私の心はいつからか臆病になってしまっていたのだ。

 私の弱音に耳を傾けながら、春瀬さんはコーヒーを口に含む。温かい湯気の立ち込めるカップ置いて、顔を上げた。

「なるほど、そういうことか。何となく匡一朗さんからの贈り物の意味が分かった気がするわ」

「え?」

「まずはあの鍵を解かなあかんわけやけど、君のための謎解きなんやったとしたら、ヒントも君に関することのはずや」

 そう、彼は左手を口元に添えて、淡い色の目を光らせる。

「絶対的に上賀茂神社が関与していることを前提に考えたら、やっぱり君の名前と同じあの川か」

 集中力を高めるように彼はすうっと目を閉じた。

「ならの小川……」

 一言、低い声で呼称する。一体どんなことを頭の中で考えているのかは分からないが、その表情は真剣そのもので、遮って声を掛けられるような隙は全く見つからない。ゆっくりと開かれた目はある一点を見据えたまま、鋭い閃光を放つ。それから三分ほどが経過したとき、瞬きも忘れるくらいに集中していた彼は、唐突に顔を上げた。

「君の誕生日って」

 やや早口で私に問いかける。

「七月二十七日です。一応、この数字も試してみたんですけど、開きませんでした」

「あぁ、そのままの形やったら謎解きじゃないからな。……確か、今年で十九歳やったな。ってことは一九九五年生まれか」

 彼はポケットから取り出した自身のスマートフォンをタップする。そして何かを調べ始めたかと思うと、直ぐにその動作は停止する。同時に、彼はにんまりと笑った。

「やっぱり間違いない。君の生まれた日――一九九五年七月二十七日の旧暦は六月三十日。つまり、夏越大祓なごしのおおはらえの日や」

 くるりと返し見せられた画面には、旧暦と新暦が相関するカレンダーが開かれていた。それを見ると、彼の言葉通り私の誕生日は旧暦の六月三十日に当たるらしい。

 上賀茂神社。ならの小川。藤原家隆。禊。夏越大祓。春。不安。新しい場所。夢。理想。現実。未来。そして私。

 次々と繋がっていくキーワードに、私は震える手で鞄から小箱を取り出した。ひとつずつ、間違えのないようにダイアルを合わせていく。


 〇、六、三、〇。


 そして、ダイアルの隣にある鍵をスライドさせた時、カチャリと小さな音を立てて解錠した。

「……開きました」

 春瀬さんは微笑んだ。

 小箱の中には赤いリボンでラッピングされた可愛らしい金魚柄のボールペンと、一枚のメッセージカードが入っていた。綺麗に二つに折り畳まれたカードには素朴な桜が描かれている。私は高鳴る鼓動を抑えるように深呼吸をしたあと、ゆっくりと開いた。



 ナラ、大学合格おめでとう。

 君なら大丈夫。

 自分の進む道を信じて、素敵な大人になりなさい。



 短い、たったそれだけの文章。それでも、確かにそれは祖父の筆跡であった。

「匡一朗さんは君の心を知って、こんな手紙を贈ってくれたんやろうな」

 きっと、祖父は新しい環境に歩み出す私を案じたのだ。そして、抱える沢山の不安と周囲の期待に圧し潰されそうな私の心を予見した。けれど、自分はいつまで生きていられるのかは分からない。だからこそ、祖父はいつもと同じ言葉をここに残してくれた。辛いときにも思い出せるように、いつも身につけていられるペンとともに、敢えて記憶に残る手段を取って。

「ほんまに優しいひとやね」

 慈しむような表情で紡がれた彼の声を聴いて、私は溢れ出す涙を拭う。それでもぽろぽろと零れ落ちる涙に、彼は少しだけ困った表情で笑いながら私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「これから大変なこともあるやろうけど、君なら大丈夫やって俺も思う。君は匡一朗さんによう似てるから」

 その瞬間、私はふと思い出した。

 ならの小川は神聖な禊の場で、厄を落としてくれる川だった。その川と同じ私の名前の由来については、詳しくは知らない。けれど、今ならば分かる。

 静かな境内を流れる清らかな川のように、人々の心を癒し、安らぎを与えてくれる、そんな優しいひとになるように、と。


       〇


 数日後、私は先日の礼をきっちりと伝えるために、今度は自らの意思で彼の事務所を訪れていた。お礼の品として持参した桜もちの羊羹を切り分け、小さなお皿に乗せて差し出す。すると、春瀬さんはきらきらと子どものように瞳を輝かせた。

「おおきに、ありがとう」

 その表情を見て、私は思わず噴き出した。

「ん、なんや?」

 みやこの春を写し取った春めかしい羊羹を幸せそうに頬張りながら、彼は首を傾げた。

「いえ、春瀬さんもそんな顔するんやって思て。私、ちょっとだけ春瀬さんのこと誤解してました」

「誤解?」

「はい。私にとって春瀬さんは突然現れて、突然お祖父ちゃんの大事な事務所を持って行ってしもた人やって思ってたから、あんまり良いイメージがなくて」

 彼は携えていた黒文字をお皿に置いて、顔を上げる。

「この事務所は子どもの頃からの思い出の場所で、それを春瀬さんに奪われてしまったような、そんな気がしてたんです」

 それが誤解であったことは、今は痛いほど分かる。大した関わりもない私に、彼は当然の如く手を差し伸べてくれた。それだけではない。彼は私のことをちゃんと見た上で、祖父とよく似ていると言ってくれた。

「でも、自分の足でここまで来て、春瀬さんとちゃんと言葉を交わしてやっと気付きました。ここを守ってくれはってありがとうございます」

 私が深く頭を下げると、彼は小さく首を横に振った。

「そんな大そうなもんとちゃうよ。君のことは匡一朗さんから良く聞いてたし、君が俺を良く思ってなかったことにも気付いてた。ほんまはちゃんと話すべきやったのに、それをずっと避けてきたんは俺のせいや」

 その表情はどこか憂いを帯び、綺麗な淡い琥珀色の瞳を伏せる。

「やから、君が俺のところに来たのも必然やったんやと思う」

 少しだけ開いた窓から吹き込む春風が、彼の黒髪をさらりと揺らし、私の頬を撫でた。

「必然? どういう意味ですか」

「何で匡一朗さんがわざわざ手間のかかる謎解きを仕組んだんか、考えてみ」

 私はゆっくりと、起った一連の出来事を思い返す。

 ひとつは、私の記憶に残るように敢えて謎解きという手段を選んだのだと言った。そしてもうひとつ――。

「私が春瀬さんのところに来るよう仕向けるための謎解きでもあったってことですね」

「あぁ。憶測でしかないけど、君のお母さんは知ってて俺に相談するように言ったんやろ」

 つまり、私が春瀬さんに嫌悪感を抱いていたこと、春瀬さんが私に声を掛けるのを躊躇っていたこと、そのお互いが一歩踏み込めずにいた関係を祖父は予測していたということになる。その奇妙な事実が、祖父がどれだけ人の心を読み取る能力に長け、優しいひとであったのかを物語っていた。

「じゃあ、こうやって春瀬さんと話が出来てるんも、全部お祖父ちゃんのお陰やってことですね」

 そう告げると、彼は驚いた表情をみせたあと、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。

「そうやな。……そう思ってくれるなら、これからも時々遊びに来て」

 そして、その目で事務所を守ることが出来ているのか見に来て欲しい。そう、彼は柔らかい音吐で告げた。

 祖父のお気に入りだった庭の桜の木が、風に吹かれて綻び始めたばかりの葩を数枚散らす。その中の一枚が窓からはらりと迷い込んだ。

 大好きだった祖父とともに歩くことはもう出来ないけれど、彼が遺したものは沢山ある。可愛い金魚柄のボールペンや、この庭の桜の木、この事務所だってそうだ。そして、何よりも祖父と過ごした時間や記憶、貰った言葉はこの上ない大切な宝物なのだ。

 一度は空っぽになってしまった宝箱を満たすように、今はこの事務所を大切にしてくれる人がいる。温かい思い出の場所はずっと変わらないまま在り続け、そしてこれからも思い出を刻んでいくのだろう。

 私の日常の中に。


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