イチゴの花が咲く理由 後編

 さっき尾毬がバイクでやって来た方向から、幸一が菊太郎の手を引っ張って走ってくる。たどり着いたときには菊太郎はもうヘロヘロで、幸一が止まると同時に倒れ伏してしまった。


「何だ、庄屋も一緒かよ」


 そう言う尾毬を見上げて、幸一は声を上げた。


「おー、トーマスじゃないか! 久しぶり」

「そ、その名前で呼ぶんじゃねえ!」


 尾毬は顔を真っ赤にして怒鳴った。それはもちろん幸一がつけたニックネームであり、由来は某人面機関車である。尾毬の顔はアレそっくりなのだ。


 一貴は倒れている菊太郎に近づいて腰を落とすと、声をかけた。


「悪いね、庄屋。ちょっと見てもらいたい物があるんだ」

「は……へ……何?」


 菊太郎は一貴と幸一の手を借りてヨロヨロと起き上がる。だがそれを見たとき、菊太郎は目を見開き、別人の勢いで走り寄った。


「な、何だ何だおい」


 事情の飲み込めない尾毬が動揺する中、菊太郎は白いイチゴの花の前に座り込み、顔を近づけていた。その目をらんらんと輝かせて。


「これはイチゴだよね」


 一貴の言葉に菊太郎はうなずく。


「イチゴだ。間違いなくイチゴだ。でも何でこんな所に」


「イチゴだと?」尾毬も近寄ってくる。「イチゴがここに生えてるからって、何なんだよ」

「だってそんなの変じゃん」


 そう言う幸一に尾毬は不思議そうな顔を向ける。


「何が変なんだよ。土手や河川敷に勝手に畑作るヤツなんて珍しくないぞ。もちろんそりゃ違法行為だから、やってもらっちゃ困るんだが、要は誰かがここにイチゴを植えただけの事だろ。おまえらこんなので騒いでたのかよ」

「それは違うよ」


 尾毬の口をピシャリと閉めさせたのは、菊太郎の冷徹な声。菊太郎は白いイチゴの花の周りを指先でなでるように触れると、こう断言した。


「このイチゴは植えられた物じゃない。生えてきたんだ」

「植えるのと生えるのって、どう違うのさ」


 そうたずねる幸一を振り返って、菊太郎はニヤリと笑った。妖気漂う悪魔じみた笑顔だった。


「それはまったく違うんだ。良いかい、普通は農家でも家庭菜園でも、イチゴを植えるには苗で植えるんだよ。種を撒いたりしないんだ。決してね」

「それは何故」


 一貴が問う。菊太郎は答えた。


「イチゴは種から栽培すると、果実が原種方向に戻ってしまうんだ。つまり、『とちおとめ』の種を撒いても、とちおとめは実らないし、『あすかルビー』の種を撒いても、あすかルビーは出来ない。なので種から撒くメリットなんて、何もないと言って良いだろうね」


「だったら、誰かがそこに苗を植えたってことになるんじゃないのか」


 尾毬はまだ食い下がる。しかし菊太郎は首を振る。


「苗を植えたのなら、すぐにわかるよ。土を見ればわかる。ここの土とプランターの土が混ざっている部分ができるはずだから。でも、それが見当たらない。つまり、プランターの土は混ざっていない。このイチゴは、この場所に、種から生じたイチゴであることは間違いないんだ」


 だが尾毬はまだまだ引き下がらない。


「じゃあ誰か、何もイチゴのことを知らん間抜けが種を撒いたんだろう。いや、まてよ。そうか、鳥だ。カラスか何かが何処からかイチゴを盗んできて、食べようと思ったら下に落っことしちまったとか、どうせそんな事だろうよ」


「落っことしたくらいじゃ、カラスは食うだろ」


 幸一のツッコミに、ムム、と口を閉じる尾毬。


「カラスがイチゴを食べて、その糞がここに落ちたという可能性は」


 一貴の言葉に、菊太郎はうなずく。


「うん、それならある。あるんだけど」


 菊太郎は考え込んだ。そしてしばしの後、こう言った。


「土がね」

「土?」


 幸一が首をかしげる。菊太郎が続ける。


「イチゴはそもそも種の発芽率が非常に悪い植物でね、普通にその辺の土に撒いてもなかなか芽が出ない。しかも仮に芽が出て根が出ても、簡単に根腐れしてしまう。根が極めて弱点と言えるんだ。だから何とか根を伸ばし初めたところで、土が悪いとすぐ枯れてしまう」


「つまり、ここはイチゴにとって、奇跡的に良い土があって、そこに鳥が苺を食べた後の糞をしたって事になるのか」


 一貴の言葉に、菊太郎はうなずきかけ、しかし途中で「うーん?」と不審げに首をねじった。


「そうだろうか。だいたいこのイチゴ、この季節に花が咲いてるってことは『四季なり品種』なんだよね」

「その四季なんとかって何だ」


 尾毬の問いに菊太郎は答える。


「イチゴには年に一度だけ花が咲いて実がなる『一季なり品種』と、春から秋にかけていつでも花をつけ実をつける『四季なり品種』があるんだ。四季なり品種は一般に一季なり品種よりも大味でランクが低いとは言われるけど、通年で収穫できるから収益率が高い品種でもある」


「その四季なり品種だと、何か問題があるのか」


 そうたずねる一貴に、菊太郎はこう言った。


「肥料の問題がある」

「肥料?」


 一貴の目に光りが宿った。菊太郎は続ける


「そう、元々イチゴは他の野菜や果物に比べて肥料を必要とする作物なんだけど、特に四季なりは『こえい』と言われるほど肥料をたくさん要求する。それはつまり、いまこの場所に四季なりのイチゴが生えているということは、最低でも一年近く肥料が供給され続けているってことなんだ」


「一年?」幸一が呆れたような声を出した。「そんな前から生えてたってこと?」

「それは間違いないのか」


 一貴も驚いている。菊太郎はちょっと嬉しそうな笑顔を見せた。


「イチゴを種から育てるにはね、『休眠打破』って作業が必要なんだ。簡単に言えば眠りから覚ますってこと。それには種に一度冬を経験させなきゃいけない。まあ農家や研究者がそれをやる場合には冷凍庫を使うけど、ここのイチゴが自然に生えてる以上、冬を経験した可能性が高いと思う。だからここに種が撒かれたのは、早くても去年の冬以前じゃないかな」


「じゃ春にはもう花が咲いてたの? 全然覚えてないや」


 そう言う幸一に、菊太郎はこう返した。


「春に咲いたのはもっと少ない数だったんじゃないかな。一輪だけとか。だから目につかなかったんだよ。イチゴはツルで株を増やしていくから、何とか増えてこの数になったんだろうね」


 一貴はまた口元に手を当てて考え込んでいる。そして、何かに思い当たったかのようにこう口にした。


「なあ庄屋。さっき土について何か言いかけたよな」


 菊太郎はうなずく。


「うん、ここ溜め池の土手でしょ。溜め池に使う土って粘土質だよね。それも押し固められてる。イチゴが勝手に生えるには、向いてる場所じゃないんだ」

「粘土質の土じゃイチゴは生えないのか」


「ううん、どっちかって言うと粘土質の畑にはイチゴは向いてる作物だよ。ただ、よく耕して、土の中にたくさん空気を含ませなきゃいけない」

「土手を耕したら、溜め池が崩れちまうな」


 尾毬の言葉に菊太郎は笑顔を向ける。


「そう、だから普通土手にイチゴは植えない」


 一貴の視線が鋭くなる。それは白いイチゴの花を捉えていた。


「このイチゴ、どんな肥料が与えられていたかわかるか」


 菊太郎も花をのぞき込む。


「うーん、さすがに見ただけじゃ……あ、でもこの花やけに大きいね。リン酸の量が多いんだと思う。あとは、そうだね、実をつけた様子がないね。この辺は受粉させる虫が少ないのかも知れないけど、もしかしたら肥料のバランスが悪いのかな。窒素が多すぎるとか」


 一貴は口元に手を当てて考え込んだ。ゴン太がその足にじゃれつこうとするが、幸一に抱えられた。


「はいはい、邪魔しちゃダメだよお」


「一年前、誰かがここに穴を掘った」一貴が独り言のようにつぶやく。「そして『何か』を埋めた」


「何かって何だ」

「はいはい、トーマスも落ち着いて。怖い顔しない」


 幸一になだめられ、尾毬は口を閉じた。一貴は目を閉じる。


「埋められた物が腐敗を始めた頃、偶然鳥の糞に混じってイチゴの種がここに落ちた。深く掘り返された土は畑のようになり、土の奥からは大量の窒素とリン酸が溶け出す。表面のイチゴに一年間養分を提供し続けられる程に」


「ねえ庄屋」幸一が花の前にしゃがみ込んだ。「このイチゴ、庄屋んとこで育てられない?」

「え、それはまあ出来るけど。でも」


「だったら育ててよ。せっかく生えたのに、掘り返されたら可哀想じゃん」


 そして難しい顔をしている尾毬を見た。


「掘り返すんだよね」

「……掘り返した方が良いのか」


 その問いは一貴に。


「何が出るかはわからない。だが何かは出るんじゃないか」


 そして一貴はこう続けた。


「さっきの電話の話。その通報主の近辺で何かが起きてるかも知れない。たとえば家族に行方不明の人がいるとか」


 尾毬は慌ててヘルメットをかぶると、ミニバイクに飛び乗った。


「すぐ用意して戻ってくる。おまえらは面倒臭くなるから家に戻ってろ。庄屋、花持って行くんならさっさとやれ」


 そう言い残し、走り去って行く尾毬を、幸一はゴン太を抱えながら見送った。


「あー、張り切ってんなあ、トーマス」

「じゃあ後は尾毬巡査に任せて、僕らは帰ろう」

「そうだね。庄屋、送って行こうか」


 しかし菊太郎はイチゴの花の前に座り込んだまま答えない。


「庄屋?」

「いま話しかけないで! イチゴは根を傷めたら終わりなんだから!」


 そして指先で花の周囲の土を、そっとそっと堀り始めた。


「もうちょっとかかるみたいだ」


 さすがの幸一も苦笑する。一貴も笑う。


「仕方ないさ。もう少し待ってくれな、ゴン太」


 ゴン太は不思議そうな顔で、二人の主人を見上げた。




「体重七十キロの成人男性の肉体において、窒素は二・一キロ、リンは〇・七キロある」

「よく知ってるな、そんなこと」


「検索すればすぐに出て来る数字だ」

「よく検索しようと思うよな、そんなこと」

「おまえは、まったく」


 あれから数週間が経ち、土手のイチゴの件は意外な展開を見せていた。警察が土手を掘り返したところ、骨が出たのだ。大きな犬の骨が。おそらくはジャーマン・シェパードと思われた。これ自体は法律上ゴミの不法投棄に当たるが、そう大きな犯罪ではない。ただその場所の土の中に、毒物が残留していた。


 毒物及び劇物取締法違反で逮捕されたのは、近所に住む七十五歳の矢木源太郎。一年前までジャーマン・シェパードを飼育していたことを近隣住民が証言した。おそらくあのとき一貴に声をかけてきた老爺であり、交番に通報したのもこの人物だったのだろう。


 矢木は警察の調べに対し、犬を毒殺したことを認めた。これは新聞にも取り上げられ、何と酷い飼い主かと非難の声が上がった。これだけでもそれなりに大きな事件であったと言えよう。だが。


「最初に引っかかったのは、肥料だ」

「肥料?」


「雑草ならともかく、イチゴは栽培種だ。肥料のない場所で、育ち続けるはずがない。誰かが肥料を与えているのでなければ、大量の肥料が土の中にあるはずだろ」

「だからって人間が埋まってるとは普通考えないぞ」


「埋まってたのは犬だったじゃないか」

「いやいやいや」


 矢木源太郎には双子の弟がいた。その弟、大二郎が一年前から行方不明になっている。そこで指紋を照合したところ、驚きの事実が発覚した。実は警察が逮捕した矢木源太郎こそ、矢木大二郎その人だった。つまり、本当に行方不明なのは兄の源太郎であり、大二郎が源太郎になりすましていたのだ。


 江戸川乱歩の『双生児』を思わせる展開に、世間の耳目は集中した。矢木大二郎はいまだ源太郎の行方については黙秘しているらしいが、SNSはこの話題で埋まり、掲示板には関連のスレッドが乱立している。


「何で双子で殺し合うかねえ」

「双子だからこそ許せないことだってあるだろう」


「え、あるの?」

「人によって事情は違うということだ」


「そんなもんかねえ」

「そんなものだ」




「ああそう言えば」と、幸一は振り返った。「大活躍のトーマス君に臨時ボーナスが出たってさ。今度おごってもらおうぜ」


 一貴は、やれやれという風に溜息をついた。その右手のリードの先では、ゴン太が振り返って見つめている。


「それよりも、庄屋はどうしてる」


 幸一はゴン太の前足を取ってバンザイをさせた。


「あのときのイチゴが可愛くって仕方ないんだってさ。俺にはよくわかんないや」

「おまえはわからない事だらけだな」


「それが俺の人間的魅力だもん」

「勝手に言ってろ」


 十二月の冷たい風が土手を駆け抜ける。釣られてゴン太も駆け出した。見上げれば、うっすら曇り空。そろそろ雪が降るのかも知れない。

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イチゴの花が咲く理由 柚緒駆 @yuzuo

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