花と散る

笹野にゃん吉

花と散る

 じんと空気を伝って、ドンと咲く胃の腑を揺るがす大きな音。

 いよいよ始まってしまったと、わたしは思った。


「お、きた! 綺麗だなぁ……」


 恍惚として空を見上げる、あなたの横顔を盗み見ながら。

 とおく咲いた花火の明かりが、その憎々しい相貌に濃い陰影をえがきだす。

 

 交わることない視線。

 あなたの注意は別にある。ここではないどこか。蜜に引き寄せられていく蜂のように。まったくイライラさせられる。


 つと花火へ向きなおれば、暗いくらい夜空のキャンバスに。

 流れ落ちていく火花の絵具。

 夏の快哉に映える至高の一瞬は、もうその一つが散っていくところだった。


 けれど、すぐに次が打ちあがる。

 弱々しく優しい線が空に伸びて、一挙に花開く。今しがた散った花の隣で、べつの色彩が蜜を香らせる。


 瞬く間もなく、次の花。

 息つく間もなく、次の花。


 どんな花もすぐに枯れていく。「綺麗」と言われた数瞬あとには、もう跡形もなく消えている。


 どんな女も、そんなものだと思ったら、少しは気が楽になる。

 いつかあなたの隣で笑ったあの子も、いずれわたしのように枯れて、蜜蜂に捨てられるのだと思ったら。


 何度もなんども、そう言い聞かせた。

 花火の音が鼓膜に慣れて、ふいにあなたの声が聞こえるまで。


「すごいなぁ……」

「うん」


 わたしは小さく頷いて、あなたの汗ばんだ手を握る。あなたは振りかえることもない。ただやわく握り返すだけ。隣にいるのがわたしでなくても、きっとあなたは気付かない。


 胸のなか。

 冷たく鋭利な風が吹きぬけて痛い。


 手のなか。

 あなたの手のひらが燃えるように熱い。


 凍えるような、炙られるような苦しみに耐えながら、わたしはあなたの手を、いっそう強く握りしめる。横顔を見る。それでもあなたは振り向かない。


 振り向かないから分からない。

 わたしが浴衣を着てこなかったこと。

 普段は後ろで結いあげた髪を、今日はおろしてやって来たことにも。

 あなたは何も言わなかったもの。


 しょせん、あなたは蜜の香りに酔う蜜蜂。

 ここに立っていることに意味がある。恋人という抜け殻を連れて、ここに立つことに意味がある。

 その裏で、あの子と逢瀬を重ねる日々があったとしても。

 枯れた花びらへとまることに、きっと意味があるのでしょう?


 でも、夢の日々は今日で終わり。

 わたしは別れを告げるために、この場所へやって来た。


 あの花火が終わったら。


 すべてを呪って、ここを去る。

 あなたと生きてきた時間も。

 これからあなたが、あの子と笑う日々のことも。

 きっと呪って、ここを去る。


「「「おおおおおおっ!」」」


 その時、人垣から一際おおきな歓声があがった。


 ふと我に返って空を見れば、闇を彩る千の色。


 きっとわたしも最初は闇だった。

 そこに色を塗った人のことを思い出す。

 湿った手に指をからめながら。指先を伝う熱の痛みに顔をしかめながら。


 またあなたの横顔を見上げて、その美しさに胸を痛めながら。


 本当は、あなたのすべてが欲しいと。

 落ちない絵具も、散らない花もあったならと。

 そう思わずにはいられない。


 ドォン……。


 胃の腑の痺れる火薬の音。

 空を見上げる人々の、全部の眼差しがきらめいて。

 あなたもまた花の一生を焼きつける。


 わたしは焦がれてそれを追う。あなたの見ている景色さえ。欲しくてたまらなかったから。


 けれど、空に残花。

 皆が息を呑む一瞬は、あまりにも短くて。

 あなたが何を見たのかは、ついに知ることができなかった。


「……帰ろっか」


 微笑んで、あなたが言えば。

 わたしは頷くことしかできない。


 吐きだせない言葉は、ドンと胃の腑に揺らいで。

 またひとつの季節が花と散っていく。

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花と散る 笹野にゃん吉 @nyankawa

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