終幕、曇天(くもりぞら)、開けて


 雨粒が土を叩く。

 陽が完全に没し、都が暗雲に覆われていた。

 すずかは小倉屋に戻っていた。

 灯りを点けず、服が雨露に濡れているのにも構わず、ただ畳の上に倒れていた。

 この部屋に戻ってきてから、もうしばらく時が経つ。

 そうしてずっと何をするでもなく、ただ言いようもない胸の重みを味わっていた。

 不意に響く――床板の軋む音。

 徐々に近づく跫音(あしおと)に、彼の帰還を感じとった。

 戸の向こうで歩が止まる。開けられる。入り込んでくる橙色の光。蝋燭の灯り。


「――“雷獣”を斬ってきた」


 男が言う。

 すずかは、なんとなくソレを理解していた。

 あの山からここに帰った時彼はもういなかった。

 あったのは、一枚の手紙。

“雷獣”からの果たし状。

 それで、あぁ、と。

 もういってしまったのだな、と思った。


「――殺したんですか?」


 緩慢(ゆっくり)と体を起こしながら、玄信を見る。

 薄明かりでもはっきり見えた。

 窶れた白の着流し。所々が破れ、葉や木々が突き刺さっている。胸には厚く包帯が巻かれ、赤色が滲んでいた。

 腰からは、あの脇差しが失くなっていた。


「殺した。――果たし合いだからな」


 何ともない風に言って、彼は隣に座り込む。

 床に置いた蝋燭立て。炎が細々と燃えている。

 揺々(ゆらゆら)と、しばらくは消える気配もない。


「そう、ですか」


 呟いて、すずかは今日一日を思い返す。

 あそこで知った真実は――やはり、彼に伝えなければならないのだろう。


「今日、“雷獣”の仲間に会いました」


「ほぅ……それで?」


「死体を覆う人だかりから出てきた盗人の少年を追っていたら――会いました」


 雷獣の音を聞きつけて、現れた十数人の幼童(子ども)たち。。

 彼らは皆、一様に笑っていた。


「それも一人二人だけじゃ、ないんです。少なくとも十人。仲間はもっと居たかもしれない」


 初めは理由がわからなかった。

 殺されるのでは、とも考えた。だが彼らは現れた生贄に狂喜していたのではない。

 雷獣の帰りを待ち望み、その雷鳴を聞きつけて、喜々として表に出てきただけだったのだ。


「――“雷獣”は何人もの身寄りのない、山に逃れることしかできなかった子どもたちに、救いの手を差し出していたんです」


 あの童子たちは本当に何も知らなかった。だから敵視した風もなく、訊ねた通りに答えてくれたのだ。

 そうして、わかった。

 あの十三の少年が、なぜあんなにも人を殺していたのか。

 なぜあれほどの凶器(ちから)を持ちながら、ただの辻斬りとして生き続けていたのかを。


「だから、“雷獣”の殺しは――誰かのための殺しだったんですよ」


「……なるほどな。飯を求めて人を斬る。やはり、アレは辻斬りだったか」


 玄信が言う。正しく、その通りだったのだ。

“雷獣”は結局、ただの乞食で、ただの辻斬りでしかなかった。

 彼の唸りはそのまま、帰りたいという祈りだったのだ。


「だから私は同情しました。だから私は貴方に殺して欲しくはなかった」


 悔しいのか、悲しいのか、すずかは自分でもわからない感情に胸が苦しくなった。


「――もう遅い」


 玄信はただ冷たく言い放つ。振れることのない不動。


「……そうですね」


 きっとこの男は事情を知ったところで行動をかえなかったに違いない。

 なぜなら、彼は妖怪退治に京都(此処)に来たのだから。

 そして“雷獣”は殺すに足る理由を備えた者だった。

 だから――どうあっても殺していたのだ。

 法度がどうあれ、アレは“妖怪”なのだから。

 だからこそ、あるはずもない過去を夢想する。


「―――彼はあの刀がなければ、ただの物盗りのままだったんでしょうか?」


 万鈎刀。異業の道具。彼の人生を狂わせた一端は、明らかにアレであったから。


「殺すことに憑かれる事もなく、仲間のために盗みを働く、ただの“人間”のままだったんでしょうか……?」


 その小さな声に、玄信はただ無情に応えた。


「そんなことはねぇだろうよ。ソレだけは決してな。お前さんがアレを憐れんでいるのなら、やめておけ」


 彼女の位置からでは、玄信の表情(かお)は見えない。


「アレはあれで正しいのだ」


“雷獣”を肯定する。狂気の剣豪は、彼をまるで憐れんでなどいなかった。


「正しい、ですか」


 わからない。理解ができなかった。

 あの少年は人を殺さねば生きられなかった。

 諸々の者を助けるために、さらに殺し。さらに殺しに取り憑かれた。

 道は一つしかなく、まるで時世によって生み出されたかのような妖怪。

 あれが憐れでなくてなんなのか。

 

 だが、彼は否定する。

 事情も知らなかった男が、すずかよりも雄弁に語る。


「アレの本懐は辻斬りだといったろう? あの餓鬼が求めていたのは――一方的な殺しだ」


 それはまるで、本人から聞いたかのような。


「自らが高見に昇ったという陶酔。自らが、強く、優勢にあるという感覚。それを最も感じ取ることができるのが殺しだからだ」


 優劣――という錯覚。死地の中で生き残るという秤は、最も原始的で最も単純な選別の手段。


「ソレは誰もが感じる事だ、決して特別なものじゃねぇ。あの刀や状況がソレを勧めていただけで、ただ生きていればあの餓鬼は自ずと殺しに憑かれていた。

 当然だ。それしか知らぬのだからな。それが生きるということだ。そして、殺しに憑かれた者は孤独に生きる事になる。

 殺しを求める者は他と違うという錯覚(じっかん)を背負う。

 故に、―――独り道を行く事になる」


 殺しの快楽を貪る者はその孤独に苦しむ。

 世の常であり、人の常。当然、命を否定する人間が命と共に生きられるはずもないのだと。


「しかし、あの餓鬼はどういった理由であれ孤独(ひとり)ではなかったろう?」


 雷獣には養わんとする者たちがいた。

 彼を求める者たちがいた。言われて、すずかは思う。

 殺しに耽り、そして尚、孤独ではなかった。

 ならばたしかに。彼自身の視点で言えば、その人生は酷く充実していたのかもしれない。


「アレは自ら欲することを行い続けた。死ぬ最後までな。――これ以上の人生はあるまいよ」


 どこか哀しげに語る。

 玄信はやはり雷獣と違っていた。

 彼が帰りたかったのだと気づいた玄信は、だから違ったのだ。

 どこに留まることのない、仕官などしない殺人者。

 

 ――帰りたい場所などないのだろう。帰りを願われる理由(ばしょ)などありはしないのだろう。

 天下無双の剣豪は故に独り。

 それ故に無想なのだと。

 

 それに気づいた時、すずかの心の堰は崩れ去る。


「――そう、ですか」

 

 彼の言う通り、あの少年はただ凡百の中にあって、余りに幸せだったのかもしれない。

 だが、雷獣が憐れでなかったとしても。

 すずかは悲しんでしまっていただろう。

 子どもが死ぬのはやはり哀しい。


「なら私は、どうすれば良かったんでしょうか」


 努力はした。ただ、まるで届かなかった。


「話を交わすことすらできなかった。殺そうとする貴方も、とめられなかった。彼がどうあっても、私の感情(いたみ)はかわらないんですよ……」


 子どもは苦手だ。

 理屈を無視して、――こんなにも悲しい気持ちにさせるから。

 息が苦しい。目尻が熱い。

 どうしようもなくなって彼を見る。

 対する男は、いつかと同じ。


「お前さんの目的は知らぬし、訊く気もねぇが」


 獰猛な笑みなど嘘のような。


「最早“雷獣”の怪異譚(ものがたり)は終わった。それでも――未だ都には “妖怪”が出る」


 励ますでもなく、慰めるでもなく。

 彼は手を差し伸べない。


「では訊くがね、おすず―――お前さんは何ができる。何がしたい」


 真逆の閻魔が、禅問答のように語る。

 覚悟の程を訊ねる問い。

 唐突なようでいて――今更な気がしないでもない。


「私は―――」


 雨音は愈々(いよいよ)激しく。

 隙間風故か。唯一の灯りが呼応するように揺れた。

 

 其の日、雷は墜ちなかった。

 

 

 ***

 

 

 翌日の昼。

 大雨は過ぎ去り、空は曇りなく晴れ渡る。


「いやぁよくやったな玄信! てめぇなら出来るとは思っていたが、まさか果たし合いで斬るとはっ! こりゃあ立花雷切(らいきり)以来の偉業だぜ!」


“雷獣”の死を知った親父は声高く笑った。

 その声が勝利宣言のように通りに響く。

 辺りの者はまた酔っ払いの戯言かと気にした風もなく通り過ぎて行くのだが、親 父の機嫌はその程度では崩れない。正に勝利に酔っていたのである。


「それで死体はどうしたんでぇ?」


「清水山中に屠っておいた。万鈎刀(ようかい)とともにな」


 京を脅かした雷獣はまるで真の妖怪が如く清水の下に埋められた。その際に万鈎刀の牙は引き抜かれ、箱は壊され、ただの鉄の板にして墓標となった。


「なるほどな。それなら誰も手出しはできねぇな」


 何処に埋められたかを知るのは玄信のみ。万が一にも、あの道具を使って、雷獣の凶行が繰り返されることはないのだ。親父も安心して一息を吐く。


「同心方には知らせたか? あの“雷獣”が討たれたとありゃあ、夜の見廻りも御終いだろうぜ」


「三代目。その必要はねぇのさ。“雷獣”が死んだ今、人の殺しは増えるとも知れねぇ」


「どうゆうことだよ?」


 親父は不思議そうに訊ねていたが、隣で沈黙していたすずかにはその理は知れていた。

“雷獣”に養われていた沢山の子どもたち。

 彼らはもう、ただ留まってはいられない。

 生きるために、盗みか殺しか――何かを選択しなければならないのだ。喩え、その結果が自らの滅びを早めることになったとしても。


「東山の山中に“雷獣”の仲間がいたんです。今まで彼に養われていた子どもたちは――きっと生きるために、今以上に盗みに走ると思います、だから」

 

 心に痛みがあるからか。

 玄信が告げるより早く、すずかは舌を滑らせていた。


「仲間――か」


 その悲痛な面持ちに何かを察したのか、親父は少し憂いを交えて呟く。


「雷獣は夕立の雲が昇る時にだけ、暴れる」


 妖怪絵巻の『かみなり』。記された雷獣の怪異譚(ものがたり)。

 不意に、その在り方を口に出した。


「ソレは天に帰るための足掻きなんだとよ。空の陰りに天の向こうの故郷を思ってのな。帰ろうとしても飛ぶ力を持たねぇ雷獣は地を暴れることしかできねぇっつう話よ」

 

 親父にとって、その物語はどのような意味があったのか。

 しかし、すずかはそこに何かを見出せた気がしていた。


「……彼も、そうだったんでしょうか」


 隣の玄信に訊ねる。

 たった二回の邂逅で、“雷獣”の在り方を知った男ならば、その心奥すら知っていたのかもしれないから。


「……さてね」


 だが雷獣を斬った男が薄く笑うのみ。

 それ以上の答えはなかった。


「そういう怪異譚(ハナシ)は、嫌いじゃないがね」


 そして、それで十分だったのだ。


「風情が台無しだなぁ。俺はてめぇのそういうところは好かねぇよ」


「私も――でも、うん。嫌いじゃないですよ」


 親父は嬉しそうに悪態を吐く。

 すずかも特に考えることなく呟いた。


「はっ、やれやれだぜ」


 そこで手をぱん、と一度叩いた。


 区切り。

 これで“雷獣”の話は終わりという示しだ。


 親父はいつかの語りと同じように声を張り上げた。


「何はともあれ、まずは一人。いや一匹か? どっちにしても妖怪退治は終わった訳だ! ご苦労さまだぜ、ほんとによぉ!」


 労いのつもりか。二人前の蕎麦を出す。

 話している内に蒸していたのか、笊から溢れるほどの大盛り。猪でもなければ喰い切れそうもないほどである。


「さぁ、次はどうするよ!」


“妖怪退治”は始まったばかり。まだ一人目。

 玄信には討ち果たすべき妖怪(てき)が残っている。


「まだ少し、傷が痛い。骨も少しもっていかれた。病の類は、幸い出てねぇが。まぁ、儂も昔は山育ちのであったからな。病には耐性(こらえ)がついていたか」


 脇差しも新しいのを拵えねばな、と苦々しく言って蕎麦の山に手をつける。

“雷獣”との戦い、胸の傷は幸いにも病気の類には繋がらなかった。

 しかし、それでも傷の深さは並々ではなく、しばらくは安静にしなければならないほどだ。

 すぐに動けない今は、蕎麦との戦いが重要なようである。


「なるほどなぁ。で、おめぇさんはどうするんだ?」


 今度はすずかに向かって問いかける。

 そこで少し考えてみた。

 これからのこと。やらなければいけないこと。

 その前に――話さなければならないことが一つ。


「実はですね……“雷獣”の仲間から貴重な話が聞けたんです」


「んあ?」


「ぬ」


 親父は奇妙な顔をして、玄信は聞いていないぞ、と目を瞬かせた。


「ある日、彼らの集まりに背の高いお侍さんが来てから、“雷獣”――本名は弥次郎というそうなんですが――あの子の人斬りが増えたらしいんです」


「侍? どうゆうことだ?」


「つまり、あの子に万鈎刀(らいじゅう)を与え、使い方を教えた人間がいたんですよ」


 親父も玄信も、そこで言葉を失った。

 すずかは子どもたちから聞いた断片を語ってきかせる。

 わかったのは、その男が世にも恐ろしい顔をしていたこと。坊主の作務衣のような着物を白と黒の二重にきていたこと。太刀の一本差しということ。奇怪な道具を持っていたこと。時折、“雷獣”と会っていたこと。

 それぐらいなものだった。

 しかし、“雷獣”と話すことすらままならなかったすずかにとってはこの数日間における数少ない成果である。

 話が終わると共に、親父は慄いた調子で口を開く。


「そりゃ大した収穫だが――こいつぁ怖いなぁ。顔が人間じゃねぇとくりゃあ、そりゃ大江山の酒呑み鬼じゃねぇか?」


「それなら、儂の安綱で切れるがね――蔵馬山の大天狗だと困るかもわからねぇが……」


 冗談のように玄信が言ったが、その実、すずかは件の男はそうならないとも限らない、と考えていた。

 今のところ三人程度で済んでいるが、その奇怪な道具の如何によっては“妖怪”はまだ、増え続ける可能性があるのだから。


「――こりゃぁ、まだまだてめぇには頑張ってもらわねぇとなぁ」


 親父は、玄信の方を見た。


「なぁに、この武蔵に任せておけ」


 投げやりなようでいて、その言葉は力強い。

 

 この男は硬(つよ)い。

 剣だけでなく――それ以外の何かもまた。


 だから親父も安心して彼に頼っているのだろう。


(そして、私も――)


 不意に親父はすずかを見た。


「しかし、おすず」


「なんですか?」


「俺は正直おめぇさんはこの話を下りてもいいと思ってんだよ。いや、おめぇの功は認めるし、こいつは大きな躍進だろうぜ」


 細い眸子には、やはり気を使うような優しさがあり、止めようとする意思が感じられた。


「だが、もう後戻りはできねぇぞ。ここで足を引かなけりゃ、おめぇさんはこっから逃げられなくなる」


 玄信は――ただ何も言わずにいた。

 親父の言葉に口を挟むようなことはしなかった。


「うまくいけゃ、玄信が“妖怪”の一人ぐらいは生かしておくかもしれねぇ。同心どもが一人ぐらいは捕えてくれるかもわからねぇ。

 だからよぉ――おめぇさんは、そこまで頑張らなくてもいいんだぜ?」


 親父は静かに諭してくれた。

 多分、言っている事は正しいし、普通ならばそうするのだろう。――だからといって、ただ留まる訳にはいかないのだ。

 そう。

 過去のことは過去のことだ。

 悲しみは悲しみのままに。

 決して忘れてしまわぬように、この胸に刻みつけて。

 もう覚悟を決めていた。

 自らの意志を貫けるように、たとえこの先どうなっても、立ち止まることだけはしないように、と。

 

「それでも私は――一緒に行きます。今度こそ宮本武蔵に負けないように」

 

 聞いた二人は顔を見合わせ―――


「ひひひ。コイツはいい! これでてめぇの仕事もなくなったなぁ」


「はっ………やれるものならやってみろ」


 静かに笑った。

 すずかもまた、自然に笑った。

 そしてまた自然な流れで大量の蕎麦に箸をつける。

 

 ――あぁ、意外と……これはこれで。

 

 味気ない蕎麦が美味しく感じたのは、京都に来てから初めてのことだった。


 

 

 ―― アヤカシの太刀 唸る雷獣/完 ――

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