十、雷切


 初めて人を殺した時のこと。

 

 もう思い出すことはできない。

 最早、天下は安泰といわれ――戦乱は消えたという。

 

 物心がついた時。

 自分が生きていると自覚できた頃にはもう、天下分け目と言われる大戦(おおいくさ)は終わっていた。

 だが結局、自分の生き方は泰平からは程遠かったのだ。

 理由はわかっている。

 

 時世など関係ない。生まれながらにそうだった。

 誰が天下を獲ったとしても、飯を喰わねばならぬことにかわりはない。

 だから殺しはただ生きるために必要だった。

 初めての人を殺しも、今まで何十何百と繰り返してきた、そのうちの一つにすぎないのだろうとわかっている。

 だから、もうおぼえていない。

 

 独り都に生きていた。独りだけで生きてきた。

 捨てられたのか。

 自ら逃げたのか。

 この身は常に都の陰にあった。

 気づいたときには残飯を漁り、物を盗んで存えていた。

 生きる術もわからないまま、存えるために何かを探した。


 ――そうだ。

 初めは盗みだったのかもしれない。

 それ以外に行えることがなかったから。

 往来の者の懐に手を延ばし、店にならぶ物を奪った。

 簡単なことだ。生きるために最低限のモノを得るだけならば、それほどの苦労はない。

 だがそれでも生(い)き行(ゆ)かなくなったとき――殺した。

 誰かを殺した気がする。

 町人か侍か。殴ったのか斬ったのか。

 覚えていないが兎に角、殺した。

 時世が良かったのだろう。

 天下だの大乱だのと皆が皆、浮き足立っていた。

 だからきっと殺しやすかったのだ。 

 きっと殺すのが愉しかったのだ。

 

 今まで、ただ存えることしか知らなかったから。

 今まで、無駄なことなどしてこなかったから。

 今まで、ただ活きる事がわからなかったから。


 そのために――“妖怪”であることも受け入れた。

 そう、いつのまにか。


 目の前で動かなくなるヒトガタ。

 相手がどんなものであれ、殺してしまえば同じになった。

 痩身が理由もわからず、ただただ震えた。

 血が痛いほどに駆け巡った。

 堪らずに、死肉の肚(はら)に顔を填(うず)めていた。

 生暖かい、肉の感触。

 温い湯を思わせる熱が、心身を甘く包み込んで溶かしてくれた。その暖かさこそが求めているモノだった。

 

 想えば――殺しこそが、唯一つの悦楽。

 

 殺して、殺して、殺し続けて。

 

 その悦楽に唯々耽り。

 ――此の身はいつしか“雷獣”に至る。

 

 

***

 

 

 音羽山(おとわざん)、清水寺(きよみずでら)。

 紅葉、黄葉の山中に浮かび上がる荘厳な本堂の佇まいは京都の中心からも見てとれる。

 ここは平安京以前から都にあった数少ない仏教寺院の一つ。この寺は遥か昔から僧、貴族、武士、そして町人にまで菩薩の加護を齎してきた実績ある名寺であった。

 その名を知らしめるのは本堂前の大舞台。

 数百の檜板が敷き詰められ、高さ三十尺余りの柱に支えられるそこは元々観音菩薩に芸能を奉納する場所である。

 いつしか飛び降りることで願掛けをするという珍妙な風習を持つようになった事で有名だろうか。

 その舞台から見える景色は、一面の紅葉の山と京都の全景。高見から秋の京都を一望できる名所である。


 今、宮本武蔵(みやもとむさし)はその絶景を独り支配していた。

 本堂に至るまでには複数の木造や門があり、普段ならば僧も参拝客の数人にも会ってしかるべきだというのに境内にはただの一人もいなかった。

“雷獣”の仕業か。

 あるいは何かの仏事でもあるのか。

 妖怪に化かされたような奇事。

 それを前にしても、不動の歩みは止まらなかった。

 そうして、無人の舞台で待つこと数刻。

 陽の傾きは愈々(いよいよ)大きく、後少しもすれば、空は暗く染まろうという折。


 暁が陰るよりも早く。

 小さな影が舞台を訪れた。


「……来たか、“妖怪”」


 空は茜。

 暁に雲。

 

 ――夕立雲在ルトキ

 

 顕現する獣。

 赤黒い血に塗れ、元の色がわからぬほどになった纏い。

 傷だらけの小身矮躯。細められた朱い眸子(ひとみ)。

 提げられた万鈎刀。

 乱喰歯が奇しく、光る。

 いつかとかわらぬ姿のまま、“雷獣”は現れた。

 ただ歓喜に歪む口元が――乾いた血に汚れている。

 無論、それは昨日喰らった人間の。


「―――シィ」

 

“雷獣”は、武蔵の数間までで動きを止めた。

 両者はともに狂笑を浮かべたまま睨み合う。

 斜陽に晒された朱の世界。

 様相だけ見れば一人は巨人、一人は童子。

 だが、この二匹は同じ――人斬りというモノであった。

 殺すことを歓喜する獣たちが、互いを喰らわんと欲する。

 一触即発。

 何か拍子でもあれば、すぐにでも得物を抜き放ってしまいそうな剣幕の中。


「一つ、いいかね」


 武蔵は冷然と訊ねる。


「……お前さんはすずかという女を知っているか? この前、お前さんが襲った女だが」


 その問いに“雷獣”は今一度、眸子を見開いた。

 陽光の朱を受けて、燃える。

 怒りの形相。

 堪えかねていたものが、溢れる。


「――そんなことはいい」


 静かに漏れ出した激情。

 その様に玄信は“雷獣”の腹の内を解する。

 邪魔者。自らを苛んだ陰陽師の事など、最早“雷獣”には意味がない些事なのだ。

 今、彼が見ているのは武蔵だけ。

 彼が関わりたいのは武蔵だけだった。

 だからこその果たし合い。

 他の人間のことなど考えていい訳がない。

 

「なるほど、わかった。――無粋であったな」

 

 そこで一つ、武蔵は片頬を吊り上げた。


「では、もう一つ訊いておく」


 琥珀の双眸が、“妖怪”を鑑定するかの如くに光る。


「儂はお前を殺したい。それはお前が“妖怪”だからだ。それはお前が――“雷獣”だからだ」


 己の理を叩きつけて歴戦の剣豪は強く訊ねる。 


「だが、お前はどうかね。儂を斬るための理はあるかね」


 その意味を獣は理解できたのだろうか。


「………」


 答えに窮した訳ではない。無言という応えを返した。

 武蔵はそして、さらに瞳を細めた。

 顎に手を当て、軽くなぜる。


「帰るのなら――今だぞ」


 重厚な、聞くものを打ちのめす声。

 それは見逃してやる、という意味ではない。

“雷獣”の――心奥を問うたのだ。

 対して獣は口元を一度拭って、笑った。


「………おなじだ」


 呟くような、独り言のような。


「おまえと、おれ……たのしいんだ」


 殺意に塗れた表情はかわらず、ただ、声には押し込められた圧があった。


「殺さないと、かえれない」


 そうして剣豪を見つめ返した。

 ――殺すことは――義務か。


「………なるほど」


 一つ肯いて、武蔵は顎から手をはなす。


「ならば良い」 


 問答はもう――必要ない。

 そして抜き放つ。鈍い耀き、刃が弾ける。


「名乗りを上げるぞ」


 右に一尺七寸、罅割れた脇差しを晒す。奇妙な一刀構え。左手は鞘に添えられる。

 明らかに剣の構えではなく。敵を前にした武装ではない。しかし、奇怪な構えに反して――相貌には殺気に満ち充ちていた。


「二刀一流、開祖――宮本武蔵」


 この宣言は“雷獣”にしか届かない。

 而(しか)して、声は高らかに。あらゆるものに響かせる。

 名が意を顕すのなら『宮本武蔵』とは即ち、最強の表明。

天下無双の豪語である。

 その無双の男は歪んだ刃を突きつけたまま、――殺してやる、と哂っている。

対する“雷獣”もまた獣のように笑んでいた。

 悦びに震えるように。

 骨ばった頬に、歪な溝が浮き上がる。

 人間の笑みではない。

 狂気。歓喜。

 そして、どうしようもない悦楽。

 ――万鈎刀は両の手に持ちかえられた。

 斜陽を受けた幾万の鈎(かぎ)は鈍く、生々しい光を放つ。

 纏わりつく血脂に依るものか。

 童子は――乾いた喉で、自らの忌名(な)を吼える。


「此の身は“雷獣”――神鳴リニ乗ル獣ナリ」


 そして、この意もまた――異業の表明。

 自らを天災地妖に祀り上げる。

 名乗りは本来、互いの名を記憶させることに意がある。戦場におけるソレが最たるものであり、果し合いにおける名号もまた然り。

 だが、この二人にとっての一声は――殺人の布告に他ならなかった。

 故に最早、語ることはなく。

 両者は腰を屈め、刻を待つ。


『いざ、尋常に――』


 どちらともなく、口を開く。


『――勝負』

 

 無人の清水に粛然とした声が響いた。

 刹那――朱い光芒が閃く。


「ィ―――」


 光芒とは武蔵の脇差し。投擲であった。

“雷獣”は素早く、万鈎刀の刀身で弾く。

 銀(ギンッ)という金属音。

 それが鳴り終わるより早く――武蔵はその鞘をも投げつけた。


「――ッ!」


 間隙を与えない。

 放物線を描いた武具はどちらも万鈎刀の巨大な刀身に阻まれ、大舞台に転がり落ちた。

 それを見定めて、無双の男は―――踵を返して走り出す。


「――来い!」


 柄に手を掛けて、振り返ることなく逃げ出した。

 この遁走は誘い。

“雷獣”にも大舞台(ここ)を果し合いの場に選んだ理があったのだろうが、それを棄てることを強要しているのだ。

 しかし、敵は逡巡しなかった。

 木を踏む音。僅かばかりの間隙を挟んで、“雷獣”が駆け出してくる。

 そしてやはり、と武蔵は片頬を歪めた。


(走りながらでは万鈎刀(らいじゅう)も唸らねぇか)


 あの異音は響かない。

 走りながらでは、あの刃の蠢きは邪魔になるのだ。

 疾走の際、万鈎刀はただの重りにしかならないことは前の戦いで明らかになっている。

 しばらくは追いつかれることはない。

 本堂を通り、紅葉の道を抜け。

 眼前に見えるは奥の院。

 崖にせり出したその建物は、さぞ霊験あらたかな場所なのだろうが、今の人斬りには預かり知らぬ話だ。

 拝む顔も持たず、院の側方に回った。

 その向こうは色づいた杉が立ち並ぶ森林の坂。

 躊躇なく、山に潜った。

 赤に黄色に緑の影。木々を縫い、足場に気を使いながらも、速度を落さぬように走る。

 背後からの音。徐々に差は小さくなっていく。

 敵は――山道を駆け抜けることに馴れていた。


「……間に合ったか」


 だが一早く、武蔵は目的の地形に辿り着く。

 勾配はなだらか、広く平坦な場所。

 辺りに樹木が増えていることを確認すると、勢い良く振り返る。

“雷獣”は未だ長い坂を登る途上だ。ここに届くには時が掛かる。

 間髪いれずもう一つの佩刀を引き抜く。

 紫電の耀きは村正では讐(かたき)うるべくもなく至高。

 

 二尺七寸。

 銘――伯耆安綱(ほうきやすつな)。

 

 重なる歴史、血戦の因果がこの男に齎(もたら)した最高位の一振り。平安期。刀匠の起源の一人とされる大(おお)原(はら)安(やす)綱(つな)によって鍛え上げられた始源の名刀である。


「さて――」


 呟いて、武蔵は近くの巨木に身を隠した。

 およそ数間の間隔で生える木々林。

 本来、このような邪魔なものがあっては太刀による剣戟(けんげき)など成り立たない。太刀を振るうのは上手くない。

 それでも、この太刀で果たし合うことを選んだことには意味があった。


(ここならば、雷獣の牙も十全にはふるえまい……)


 身を隠しながら、枝葉の隙間から視線を走らせる。

 同じ地平に飛び出した“雷獣”。

 息を荒げた獣は、血走った目で辺りを見る。


「――ギギィ」


 視点は定まっていない。武蔵の姿は捉えられない。

 不動の隠。

 この隠身は陽の傾きが、あらゆる影を強めたが故の僥倖。

 これもまた数日を掛けて思い至った“雷獣”に対する策の一つ。

 距離はおよそ五間。

 一挙一動、全てを逃さぬように武蔵はその慧眼を細め。

 

 ――雷獣の唸りを見た。


「シィィ―――!」


 絶叫と共に、引き抜かれる何か。

 排出音の後に。

 

 鋼鋼(ギン)! 鋼鋼鋼(ギィン)! 鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ギギィギギギギィギギギィ)!


 暗雲の疎らな茜空の下―――鉄の擦れる、万鈎の異音(らいめい)が響き渡る。

跳ね跳んだ“牙”が手近な大木を噛んだ。

 一瞬の空隙。

 それこそ人肉を殺し尽くした、妖異凄絶の業。

 さしもの武蔵も、この光景には肚裏(とり)で呻いた。


(よもや、ここまでとは――!)


 樹齢百年は在ろうかという巨木。

 その巨大な命は鉄の牙に悲鳴を上げて――削れていく。

 傾きを増し、大量に舞う粉塵の中で、“雷獣”の紅い瞳が―――武蔵を捉えた。


「チィ!」


 見つかった。

 その刹那に、“雷獣”はさらに力み。

 壮絶な絶叫。まるで、雷に打たれたかのように。

 唸り、倒れる。木。

 天を目指し遥かに聳(そび)える柱が倒れる。

 その命の終わりを眺めながら、武蔵は悟った。

 万鈎刀の真の在り方はこれだ、と。

 アレは鑢(やすり)の付いた歯車などではない。

 鉄の牙を奔らせる鋸。

 どこから伝来したものかはわからないが、本来、この凶器は人の斬るための刀などではなく。木を刈り、材となすための道具(モノ)なのだと。


(故の――“妖怪”ッ)


 武蔵が後方に退くと同時に、轟音。

 紅葉が舞う。軋む音が鳴り響き、炸裂する。

 倒れた巨木は落ちる途上で他の木の太い枝葉に絡み、動きを止めた。


「―――シシィ!」


 同時に雷光の如く、“雷獣”は駆け出していた。

 宙に翻る“牙”。唸りは衰えた気配もなく。


「やはり――!」


 明らかに万鈎刀の力は――対人の規模を超えている。

 敵の動きを征するための檻はそのまま、森林という巨大な武器を“雷獣”に与えてしまったのだ。

 この“雷獣”もまた、伝承のままに森林を荒らす暴風雨になりえるのである。

 無論、武蔵はさらに退く他はなく。

 その間隙にも“雷獣”の矮躯が森林を駆け。

 

 鋼鋼(ガギィ)、鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ガギギィガギィギギィギギギィガガガ)――!


 重なり合う木の土台に。

 万鈎刀(キバ)が喰らい付く。

 木柱は瞬時に切り開かれ、


「墜ちろぉぉォォォ!」


 重みに耐え兼ねていた杉の大木は崩れた。

 ちょうど武蔵を挟むように――墜落する。

 圧倒的重量。

 鉄よりなお恐ろしい凶器は左右にわかれ、武蔵はその中間に封じられる。

 枝分かれする無数の枝葉が襲いかかる。

 逃れる道は後方のみ――だが、武蔵は迎え撃つ。

 

 後手に回る不利を知るが故に。

 一刀両断。腕ほどの太さの幹を、太刀の下に伐りとる。

 続いて襲いかかる、木々の眷属。

 その場に構え、切り開いた。

 細かな残滓が衣服を削り刺さるも、出血は少ない。

 三閃――塵風を巻き起こす剣戟が弾く。

 膨大な重みが葉に覆われた地面を叩き。

 地響きが鳴った。

 草木が宙を舞い。斜陽が影を増す。

 歪な姿勢で重なり合った二つの柱は、一方を地に墜とし、一方に空を仰がせたのだ。

 その暴音の嵐の中で、武蔵は辺りを見廻し。

 気づく。

“雷獣”の影が消失していた。

 

 思考を研ぎ澄ませ、足場を確保しながら。

 雷轟を聴覚(いしき)が捉える。

 

 ――甚ダ猛々シク天ヲ翔ケル

 

 同時に。

 重なり合った木々の先端に“雷獣”を観た。

 即ち、武蔵の頭上に。

 

 ――咆哮。跳躍。

 天から墜ちる雷(いかづち)か。


「……来るか」


 ほぼ垂直の落下を以て、鉄の刃は頭頂に迫まり。

 数瞬。

 一秒もあれば、頭蓋がかち割られるという瞬間に。

 武蔵はただソレを眺め、――わずかに身を引く。

 一寸もない。

 まさに紙一重を、鉄の牙が通り抜ける。

 四つの視軸(しせん)が重なった。

 武蔵の足元。

 およそ小太刀の間合いにおいて、両者の殺意が交錯する。

 全ての武具が例外でなく、当たらなければ意味がない。

 得物を知り、人を知り、動きを知る。

 

 是即、一寸之見切。


“雷獣”の精神(こころ)、異業(わざ)、肉体(からだ)。

 全てを捉えた武蔵に、此れを為せぬ道理はなく。

 停滞した時の中での確信。

 

 これで詰みだと。


 万鈎刀は両刃であるからこそ左右の切り返しが速い。

 だが、この全力の込められた縦の一刀においては牙が土を噛み、翻ることは不可。

 躱して斬る。いかな異業も、この単純な剣理の前には、凡そ等しく無為。

 半足前へ。

 狙いは左肩と首の隙。其処に刺し込み――心の臓腑を抉らんと刀尖(きっさき)を定める。

 足が地に付くより早く――“雷獣”の頬が歪んだ。

 あたかも絶頂(たっ)したのか如き、悦楽。


 その刹那に失策に気づく。


(否(いや)―――是れを紙一重に躱してはッ)


 だが最早、止まれない。

 結局、侮っていたのだ――“妖怪”を侮っていた。

 あるいは敵の異常を見過ぎたが故に、もうこれ以上はないと錯覚していていた。

地に叩きつけられた万鈎刀。

 武蔵の一閃よりも尚、疾(はや)く。

 

 瞬間、重力(摂理)が反転する。

 ――跳ね上がる。


 銀(グィン)ッ、と今までと違う異音が鳴り、刃は加速する。

 ――奇々怪々にして妖絶無比。

 まるで、刀身が別個の生き物かのように――機を取られた武蔵にこれを躱すこと叶わず。

 

 鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ガギギィギィギギィガガ)――――――!


 その胸、肉の壁を、獣の牙が噛み千切る。

 無数の牙が、薄い衣を一瞬で咀嚼し、肉を内々に引きずり込む。舞う血花。血肉と脂。

 それが時にして僅か一瞬。

“雷獣”が地に足をつけ、さらに刃を押し付けようと踏ん張ったその僅かに。

 次に目を疑ったのは、“雷獣”の方であった。


「ハハッ!」


 苛烈に笑う。一閃が――空を貫いた。

 万鈎刀の接触による衝撃で一拍の遅れが生じたが――武蔵はそのまま、一撃を放っていたのだ。


「………な…っ」


 呟いたのは側方に躱した“雷獣”。

 言葉には惑いが生じている。

 理解できない――という顔である。

 万鈎刀は一撃で肉を抉り断つ魔刃の牙。一瞬でも噛まれたのなら、遁れんとするのが正常な判断のはず。

 しかし、武蔵は抉り取られる肉の痛みを受け入れて、寧(むし)ろ、さらに喰われることを解した上で一撃を放ったのだ。

 無論――後方に跳ねるような愚行を見逃すほど“雷獣”の牙は易しくない。これは最良の判断ではあった。

 だが、それでも――自ずと修羅を征(ゆ)く者など、“雷獣”の殺戮の記憶にもなかったに違いない。


「なんで、オマエは……」


 狂っているのか。そも、在り方が違っているのか。

 これではまるで、妖怪(ばけもの)だと。

“雷獣”の眸子は――人ではないものを見るものにかわっていく。

 その心理の移りかわりを、琥珀の眸子は確と捉えていた。


「語るまでもなく――雷獣(おまえ)を殺すために」


 それを受けて、少年の相貌(かお)が醜く歪んだ。


「……ハハッ!」


 それも一瞬。同類の笑いに立ち返る。

 翻る万鈎刀。赤い閃が追随した。

 血の閃。

 そのまま、“雷獣”は牽制の構えをとった。

 武蔵はそれを毅然と見下ろすのみ。

 いつかと同じ、無言の拮抗が生じる。

 ただ内面の緊迫感は前の比ではなかった。


(……とは嘯いてみたがね、こいつぁ少しキツいな)


 血を垂れ流しながら、武蔵は自らの傷を分析する。 

 胸の一部分だけを噛み千切られていた。

 鳩尾が抉られ、爛れている――わずかに骨も削れているだろうか。

 目視はできない分、肌の感覚で推し量る他はないが――秋の空気が殊に痛みを刺激し、傷の実測を困難にさせる。

 赤い肩衣が摺れる。

 狂気の剣豪は――快楽に笑ってはいたが実際的には不利であった。ただ痛みを優先しないだけで激痛はたしかに肉体を苛んでいるのだから。

 脳髄(しこう)は状況の打開のために無限に近く加速していく。


(だが、しかし――観えてきたぞ、先の異業の絡繰りが)


 痛みの中で、至極冷然と状況を理解する。

 地を叩き、迅雷の如く翻った動きの正体。

 

 ――反発力。


 世の理において、凡そ全ての接触において生じる力。

 モノを殴れば腕が痛む。

 鉄を叩けば弾かれる。

 それと同じ。

 無尽の刃と大地の接触は膨大な反発(ちから)を生み、結果、万鈎刀は自重(おもさ)を以て、宙(そら)へと反(かえ)った。

 ただそれだけの理。

 

 恐らく“雷獣”は論理で解しているのではない。

 自らと一体となったその刀の特徴を、経験的に介しているのだ。どのような場所であろうと最善の技法を以て、万鈎刀(かたな)を十全に扱う。

 倒木の檻も、反射する一刀も、正しく此の者の研鑽による業であった。

 武蔵が想うよりも――“雷獣”は毅(つよ)い。

 

 衝撃の反動から解放されたのか。

 眼前の“雷獣”の筋肉が、滑らかに動くのが観える。

 動けぬ武蔵の傷を見て――獣は余裕を取り戻していた。次の一撃で仕留めにかかるか。

 腰を重さの中心として、獲物を狙う獣の如くに万鈎刀を構え直す。乱雑なソレは野生により近い。

 辻斬りの哄笑。

 ソレは自らの必殺を知っていた。

 防ぐに能わず躱すに難い。

 瞬速を可とする短い刀身。間合いの欠点を補う、担い手の小躯。初めから定められたような人器一体の妙。

 万鈎刀は全方向への切り返しを可とし、反撃の余地を与えず。天より堕ち、地上を暴威によって蹂躙する――雷の具現に相違ない。

 この獣は殺す事を愉しんでいる。

 人を殺すことに酔っている。


「おなじだ。……おなじ」


 堪らなく。

 激情とは別の感情。

 楽しくて愉しくて仕様がないというように。


「だからオマエは死んでゆく」


 天下無双の剣豪を前に、魔を宿した童子が哂う。

 事実――それが出来るほどに武蔵の傷は深く。

 獣には利があった。


「さて、ね」


 刻一刻と失われていく生命(いのち)。

 血の溢れる胸で、武蔵は苦笑した。


「だが、あの娘に言わせれば――儂とお前は違うらしい」


 そうだろうな、と独りで肯いた。この男にとっては珍しく、殺し合いの最中に要らぬことを口にした。


「少なくとも一寸(いっすん)は」


 皮肉に言って、太刀を突きつける。

 左手が空いた。

 語ることはただそれだけ。否定である。


「――チガう」


 冷血な動物の眼で、獣は深く武蔵を観察する。存在を量っている。


「おなじだから―――殺さないと」


 ただ道はどうであれ。結局は同じところに辿り着く。


「そうであろうよ……終わりだけは確実に」


 武蔵と“雷獣”の殺意は同調していた。

 漲る血潮。灼ける体。気色ばむ視界(せかい)。

 対極。

 冷え切った心芯(せいしん)。

 ただ淡々と、殺しの理に潜り込む。

 一瞬にして、六十を越える果し合いが反復される。

 あらゆる剣理が見分される。

 方法は用意された。

 次に必要なのは理。


 そして、その最後に想い出すのは――陰陽師を名乗る女の言葉。

 

『引っ張られたように感じたのも、歯の回ってる方向に流されたんだと思います』

  

 ――なるほどな。

 暁の中、今なら観える。 

 万鈎刀の精細が。肉を喰み、蠢き続ける牙の流れが。

 

 ――天理はなれざるが故に。


 相貌(かお)が歪む。

 獰猛な、狂喜の笑みが還ってくる。

 殺すことを愉しむ、獣に似た笑み。

 だが、その真実(いみ)は違う。


「骸は朽ちて果てるのみ。その肉の一片まで人はモノに成り果てる」

 

 わずか一寸。


「故に斬る。ライジュウの容(かたち)をした人間(おまえ)もまた」


 それでも決定的な両者の違い。

 ――武蔵はこの刻を愉しんでいる。


「おれはチガう――人じゃない。剣豪(おまえ)もまた」


“雷獣”が万鈎刀を大きく、振りかぶる。


「ヒトのカタチをした、バケモノだ」


 乱反射する朱光。

 雷鳴を撒き散らす、自然の暴威。

 痩躯を暁月(あかつき)に晒し、雷を振るい、人家を荒らす。

 

 雷。

 神の唸り。

 ソレは紛れもなく。

 

 唸る雷獣―――神鳴りを駆る獣であった。


 現(うつつ)に顕れた妖怪に対し、武蔵は――千切れた肩衣を投げつける。単純な、目くらまし。

 血を吸った赤い布は広がり、両者を隔てた。

 直後に振り下ろされた牙はその布地に噛みつき。

 一瞬で咀嚼する。


「死ィィィィィィィ!」


“雷獣”は勢いを殺さず一歩――翻る牙。


「喝ァッ!」


 武蔵もまた一歩。太刀を振り上げる。

 間合いは最早、二尺もない。

 この一合においてのみ策の入り込む余地はない。

 二つの獣は共に次の一撃に全力(すべて)を込めた。


『――――ッ!』


 人獣の絶叫が絡まり。

 咆哮は地を揺るがし、殺気は天を轟かす。

 鉄と鉄。刀牙が噛み合い。

 鉄の絶叫が――


 鋼鋼鋼(ガガギィ)、鋼鋼鋼(ィィィィ)、鋼鋼(ィィ)鋼鋼(ィィ)………

 

 噛み合い。

 止まった。

 ―――無音。

 彼らの眼前で、二つの刃は拮抗していた。


「ッ、、――ッ!」


“雷獣”が言葉にならない驚きを漏らす。

 刃を噛まず、牙は蠢かない。――理由は明白。

 武蔵の投げた肩衣。それが牙の回転に巻き込まれ。喰われ。流動(ながれ)に従い、詰まっていた。

 あるいは人を切り過ぎた故か、武蔵の脂が致命であったか。まるで吸い込まれるように――刃を周回させる空隙が、ただの布に埋められていた。

 万鈎刀(らいじゅう)はもう、唸ることを止めていた。

 だからソレはただの鉄塊。雷の妖異は剥奪され、存在はその『モノ』にまで還元される。


“妖怪”は――“人”になる。

 

「――オマエはぁァッ!」

 その絶叫の意味は如何に。

“雷獣”の双眸は畏れ、死を――武蔵を恐れていた。

 武蔵の一刀は不格好な鉄の塊を押し返す。

 そして、未だ動きを測り兼ねる矮小な人間に。

 踏み込み。

 左拳で殴りつけた。

 



***


 

 天地は反転した。

 己が殴られ、腰を打ったと気づいたのは眼球から溢れる熱(あか)が貌を覆ってからだ。

 痛く苦しい、と。あぁ死ぬのか、と。

 幻想の天幕は解かれ、回帰する。

 相手(てき)は歴戦の剣豪。此方(おのれ)は十三の小童。

 もう、同じではない。

 右眼は赤くモノを捉えていた。

 赤き視界で垣間見える剣豪の顔。

 

 ――地獄の閻魔の如き狂笑。

 

 絶対の死を前にして、人は走馬灯を幻視(み)るという。

 例に洩れず、この少年の脳髄にも青い記憶が駆け巡っていた。

 彼はもう人だから、人としての過去(ジンセイ)があった。

 それで――憶い出す。

 殺人の記憶。その始まり。

 思えば、最初に殺したのはー――母だ。

 母であった。

 その相貌だけは曖昧だが、温もりは覚えている。

 生まれて、生きて、初めての障害(てき)が彼女だった。

 縛られていた。彼女は認めなかった。己で生きる道を選ぶことも、何をすることも赦されない。どんな目にあっても、どんなことをしてもでも守ってくれる彼女。

幸福で生暖かい。あの手を抜け出したかった。

 それだけだ。たったそれだけ。

 そのためだけにあの温もりを殺してしまった。

 偶然の、たったそれだけの蛮行(ぼうりょく)で。

 そして己は永久にかえる場所を失った。

 都という野に放たれた小さな命。何が幸福で何が不幸で。何が正しく何が間違っているというのか。

 まったくわからないままに生き続けていた。

 その一つの指標(しるし)。そうして、見つけたもう一つの在処。

 同じ境遇の者たちの集まり。

 帰る理由の創られた、帰るべき場所。

 だからきっと。

 彼処(あそこ)以外で、生きることは苦痛でしかなかったから。

 

 戻りたかった。

 かえりたかった。

 生まれる前に、あの人の元に。

 

 人を殺すことだけが、あの場所(せかい)を存えさせる糧。

 そのために、万鈎刀(ちから)を得た。

 それ故に、己よりも強い者がいてはならないのだ。

 ソレが居ては安心できない。己より強いモノがあると実感してしまったら――もう、人を殺すことなどできなくなってしまうから。

 だからこそ、この男は辻で斬るのではなく、果し合いで打倒せねばならなかった。 

 ――誰よりも畏ろしい存在(ようかい)にならなければ、彼らと共には生きられない。帰る理由(ばしょ)を守れない。

 

 だから殺す。殺さねばならない。

 殺人に快楽する、己よりも強い者。

 その在り方は同じようで明らかに違う。

 真実―――敵は、対極。

 天下無双。狂気の剣豪。二刀剣鬼――宮本武蔵。

 おまえは――否。

 そんな問いに、意味はなく。


「おれはぁぁっぁぁ―――!」

 

 咆哮――獣ではなく人間の。

 それが契機(きっかけ)。時は正しい感覚を取り戻していた。

 暁に血濡れの剣豪(おとこ)が眼前に迫る。


「お前は――」


 無情の声とともに放たれる紫電の一閃。

 今度こそ、間違いなく心の臓腑を抉りにかかる。

 少年はだから。

 帰らなければいけないから。

 殺すことよりも生きることを求めていた。

 ――かえる。

 雷獣の最後の足掻き。

 万鈎刀が――自然な流麗さで――刀尖(きっさき)を防ぐ壁となる。鉄の光に両者の視界は再び遮られる。

 生死を頒つ一瞬。

 暗幕。


「――――死ね」


 音のみが残響したトキ、炸裂する。

 異音ではなく快音。

 

 鉄の悲啼(なげき)は心地よいほどに鮮烈な――雷光(いかずち)のような死。


 貫かれていた。

 斬鬼の刀は妖異の壁を貫き通し、心の臓腑へ。

 まっすぐに。


「……う、ふ」


 人の分際で、最後まで万鈎刀(ようかい)を頼ったのだから――結局、その差は歴然だったのだ。

 刀身は黒鉄の鏡。

 遮られた視界には、暁の耀きと汚らしい少年の痩せこけた相貌(かお)が映っている。

 痛い、苦しい。毒々(どくどく)と、命が失せていく。

 初めての感覚。知らなかった死(げんじつ)。

 呪いなどなくとも。こんなにも簡単に。

 ただの一太刀で人は死ぬ。

 

 ――だから、おれは死んでゆく。


 向こう側で、相手はたしかにこちらを観ていた。


「お前は……ただの人間だ」


 感情(こころ)のしれない声で彼が言う。

 その言葉の意味は、やはり理解できなかった。

 想えば――コレについては何も知れなかった。

 

 何も知らないから、畏怖していたのか。


「おれ、……は……かえ……る……」


 掠れた音は己に向けて。

 胸を貫く、熱い感触。脈動を害する冷たい鉄の冴え。

 苦しいのに。痛いのに。

 帰れなかったのに。


 帰える場所(りゆう)は、まだたしかに活きているから。

 鏡面(かがみ)に映る自分のかお。

 

 おれは、こんなにも……

 

 ――最期に一つ

      頬に夕立ちを告げる雫が落ちた。

 

 

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