九、一寸の違え


 日毎(ひごと)に、空は鈍色を増していく。

 あれから四日。

 いくら都を彷徨っても、“雷獣”探しは一向に進むことはなく、すずかの都巡りは徒労にしかならなかった。

 一方、玄信(はるのぶ)もこれといった打開策を示すことなく、ただ二刀を振るって過ごす日々。

 この日の午後。二人は空いた小腹を抱えて、日課の如くあの蕎麦屋にやってきていたのだ。


「ハァ――やっぱり無理なんじゃないですかね」


 弱音を吐いたのはすずかである。

 都を歩き回って、疲れも溜まってきているためだ。

 そも、徒労の後に喰うのが味気ない蕎麦では誰でも気力が削がれるというものだった。


「存外に役に立たねぇな、陰陽師」


 対する玄信は目を向けることなく、箸を蕎麦に滑らせた。

 蕎麦醤油よりも冷たい態度に、うなだれるしかない。

 返す言葉もないのだ。

 親父はそんな女の顔を心配そうに覗き込んだ。


「まだ、なぁんにも見つからねぇのかい? もう四日目だったか。諦めたほうがいいんじゃねぇか?」


「……“雷獣”がまた暴れるまでは、頑張りますよ」


「しかしなぁ。危ねぇことにはかわりねぇし。……よし玄信、かわれ」


「三代目。儂とて何も遊んどるわけでは―――」


「うるせぇ黙れ。今日も一日、唸ってただけじゃねぇか」


 玄信の言葉はやはり聞き入れられない。

 三代目には頭の上がらない玄信。さすがに哀れに感じたすずかは助け舟を出すことにした。


「親父様。玄信さんは雷獣退治の策を練ってるんです。そのぅ。――一対一でも倒せるようにと」


 声がよそよそしいのは、そうならないことを願っているからだ。

 しかし、“雷獣”の凶行を止められる者がいない以上、玄信が殺しに赴かなくてはならない事実はかわりない。

 そこで親父は信じられない、といった形相で玄信を見る。


「はぁ? 話は一昨日ぐらいに聞いたがなぁ。てめぇまだ、そんなことを考えてたのか?」


「え……親父様は、何か策が――あるんですか?」


 親父は嫌に呆れたようすである。まさか、玄信すら至らぬ理に至ったのか。だとすれば、この男――ただの蕎麦屋の親父ではない。

 生唾を呑み込むと、親父は大仰な手振りを合わせて、声を張り上げる。


「んなもん簡単だろうが――種子島(てつはう)を射て。若しくは火矢だ。そして、とどめの国崩し(おおづつ)っ!」


「な、なるほどっ!」


 これはすごい、と納得してしまう。

 親父の言う国崩しとは、南蛮より伝来した鉄塊を射出する装置である。先の関ヶ原や大阪の役にて、大いに活躍した攻城戦兵器だ。

 鉄を射出することから、勘違いをする者も多いが、その実、重視されるのは威力でなく威圧である。

 発射と同時に弾ける音、膨大な重さの鉄の叩きつけられる衝撃が敵対者の戦意を大きく削ぐというのがこの武器の真価である。

 しかしそうでなくても、重さ何十貫という鉄の塊が当たれば、人間などは死ぬより他はない。

“妖怪”もまた然り、防ぐ術など――、


「……なるほど?」


 ――さて、どこから持ってくればいいのか。

 呆然として、何も言えなくなったすずかと対照に、玄信は敢えての無言。無言のままに否定していた。

 その二人の態度を見て、親父が少し不機嫌な顔になった。


「何が気に入らねぇ? 国崩しは冗談にしてもよぉ。相手が妖しい道具を使ったところで、近づかなきゃ問題ねぇだろ? 石投げろ、石」


 正しく道理。投石は冗談にしても、考え方に間違いはない。

 刀すら砕く万鈎刀。しかし、離れたところからの攻撃に対してはただの重りになりかねない。

 すずかはまたも納得しかけたが――玄信は険しい表情で以て、今度こそ否定の言葉を放つ。


「……恐らくだが、弓や鉄砲が相手ならば、あの“雷獣”はすぐに逃げるのだろうて。

 アレの本懐は辻斬りだ。斬り合うことではねぇのさ。

 あの時の斬り合いでも、お前さんの幻術(めくらまし)を前にして、アレは即座に撤退を選んだ。それが何よりの証拠であろうよ」


「それも……なるほど」


“雷獣”の本懐は辻斬り。金を求め、糧を求めて、それは生きるために必要なことだから。

 別にあの少年は、生きるか死ぬかの命のやりとりを重んじているわけではない―――恐らくは。


(でも、本当に……? それだけが真実(ほんとう)なの?)


 “雷獣”の心理が、すずかにはわからない。

 皆目見当もつかない。

 殺しに快楽する少年。それでも彼は人間なのだ。

 今に至る人生の積み重ねと、其処に至る思考の過程があったはずだ。とりわけ童子は理解しようと努めなければ、その一片すらわからない。

 結果は同じであったとしても――ただの辻斬りだと断定したくはなかった。

 惑う女と対極に、玄信はやはり巌の如くに揺るがない。

 眸子が既に一つの答えを提示していた。

 それに、と――続けて片頬が歪に吊り上がる。


「武蔵以外ができることは、武蔵以外がやれば良い。だが儂は――この宮本武蔵に出来ることを欲しているだけのことよ」


 果たし合いにて“雷獣”を斬る。

 獰猛な笑みが物語るのは、殺しを求める慾望。

 滲み出る悪意は、わかりやすいほどに――剣狂であった。


「……すまねぇな」


「三代目。別に謝ることでもあるまいよ」


 失言だったと謝罪する親父に、それこそ本当に関心のないように玄信が返す。

 やはり、この男は“雷獣”を斬る。

 すずかは惑いながら、しかし半ば諦めていた。

 誰であってもコレをとめるは叶わない。

 少なくとも、己が先に“雷獣”を見つけなければ、京に血風が吹くことは避けられないのだ。――死ぬのがどちらかはそれこそ未知だが。

 

 異様。異業。

 この世ならざる“雷獣”の牙。

 相対(あいたい)するは、二刀剣鬼――宮本武蔵。

 

 ふと。想い出す。

 そう、この男は武蔵――天下無双の強者であった。

 そこで、すずかは破顔した。


「そういえば、……玄信さんってすごい剣豪なんですよねぇ!」


 溌溂(はつらつ)とした声を張り上げる。いつもは半眼ぎみの眸子も、この時ばかりは好奇に輝いた。

 数日間で心をわずかでも開いたという事情もあるが――元来、すずかの素はこちらに近い。疲弊して、油断したので素が出たのだ。

 理知で考えて話してはいるが、童子のような心を半端に育てずに生きてきた。人格として半端なのだ。

 なんにせよ、玄信は突如として彼女の好奇に晒された。

 その謎の視線を受けて面倒そうに眉根を寄せる。


「たしかに、それなりに名は知れておるな。吉岡一門の連中が吹聴したせいもあるがね。だが実際のところ――」


 と、語り始めた時点で、すずかは昂揚に頬を上気させた。

 すずかも『宮本武蔵』の伝説は細かくは知らない。

 しかし、かの吉岡一門の名を聴けば、興奮が隠せないのも無理はない。

 吉岡家はかつての室町将軍、足利家の武術指南として、近年まで仕えていた云う名門である。

 玄信が前に――たしか、二十代のことであったか――吉岡流の正当後継者清(せい)十郎(じゅうろう)とその弟伝(でん)七郎(しちろう)とこの京都で果し合い、覇を競ったと云う。

 無論、勝者は生き残った玄信であり、その後、多くの吉岡門弟たちがその命を仇として狙った。

 その表出が十対百。京都洛外下り松の血戦。

 都でのあらゆる禍根を断つ、泰平の世の合戦擬き。

 玄信はその戦いさえも正面から挑み、勝ちを得た。

 冷静に考えれば――“妖怪”退治にも劣らぬ修羅場を、この悪鬼は越えてきている。


「実はですね。ずっとお聞きしたかったことがあるんです!」


「お、おおう?」


 ここで数多くの果たし合いの経緯を聞きたい気持ちはあったが、そこは堪える。 やはり訊ねるべきは雷獣退治に繋がることだ。

 すずかは勢いのまま。趣味と実益を兼ねて捲し立てた。


「やっぱ、二刀一流にも必殺奥義とかあるんですかっ!?」

 

 今までの態度など嘘のように、期待と希望と羨望の眼差しで玄信を見る。

 何せ、この男は天下無双。

 二刀一流なる剣術流派を開いた男だ。

 二刀を使った奥義。どんな大業が出せるのかと、胸が踊ってしまっていた。


「…この、」


 じっ、と玄信を見つめると、彼の憮然とした表情は徐々に崩れ――眸子が嗔(いか)る。


「この……戯けがあぁっぁぁァっ!」


「つぅぅ…ぅ」


 返って来たのは罵声。怒り芯頭。総髪は灼熱に燃え、口はキツく結ばれる。懐かしの、閻魔の形相(すがた)である。


「剣術には裏も奥義も必殺剣もあるまいがっ! そんなものは只の客寄せよっ!」


 思いもよらぬ変貌にすずかは萎縮する他はない。

 横目で親父に助けを求めるも、彼は笑いを堪えるのに忙しくて構ってはくれない。


「まったく最近の若いのは……裏の剣、裏の奥義、一撃必殺、最終奥義などとほざきおって…! 剣術を遊びか何かと勘違いしとる! 道場を遊び場か何かと思っとる!

 居合術がなんぼのもんだ! 裏の型が十一だろうが十二だろうが使い手が弱くて話にならんっ!! 一つの太刀など誰も中身なぞ考えておるまいが! ――聞いとるかっ!」


「は、はい!」


 ひぃぃ――と心中で悲鳴をあげる。

 興奮に赤らんだ顔に対して、もう真っ青である。

 どうやら逆鱗に触れてしまったのだ。

 武蔵の名を聞きつけて道場に来る若者はこぞって、奥義を求めるのだろう。そして、その都度に玄信の怒りを買い、破門にされてしまったのだ。

 要は、玄信のこれは八つ当り――少し涙が出てきた。


「表で戦い、裏で勝つなど夢幻(ゆめまぼろし)だ! 勝負は一瞬! 裏の技など意識する暇(いとま)はない! 必殺というのなら、刀は全て必殺よ!」


 持論を語る玄信。と……そこでようやく、すずかの目尻の雫に気づいて勢いが落ちる。


「つまりはぁ……そのなんだ……わかったか?」


「……わかりました……もう、いいません」


 すずかは目を拭いながら、少し夢想が過ぎたと反省する。

 そしてこの男の前ではもう二度と剣術絡みの話はしないと決めた。

 恐かった。

 しかし、親父は恐れを知らない様子。


「――ひひ。相変わらず真面目だなぁ。そんなんだから、てめぇん道場(ところ)は柳生様みてぇにデカくならねぇのよ」


 柳生新陰流は関ヶ原を越えて、いまや将軍家剣術指南役の流派『天下の御流儀』である。

 まだ若き将軍候補、家光公の寵愛を一心に受けて、今や栄に栄える流派である。全国的に見れば門下の数も、二刀一流の何百何千倍はいることだろう。

 比べる対象が悪いのである。


(親父このやろう……つぅぅう)


 既に、胃痛を感じ始めたすずかは正直これ以上は勘弁して欲しかった。

 だが、意外にも玄信は、


「三代目よ。儂の剣と、柳生の剣では求める所が違うのだ。アレは泰平の剣よ。人が集まるのも道理だろうて」


 穏やかな顔で言う。何か、考えるところがあるのだろうか。道場剣術など――玄信の最も嫌いそうなものだが。

 だが、追求する間もなく玄信は続ける。


「まぁ…儂が悪かった。常々思うところがあってな。年甲斐もなく暴れてしまった。すまねぇな。だから泣くな」


「泣いてませんよ……!」


 と、返した声が震えていたのは仕方のない。

 ただ――次の一瞬には、玄信は神妙な顔になっていた。


「しかし、三代目。それにおすずよ。実はな。――我が二刀一流にも技法としての目標はある」


 なら怒る必要はないのでは?、と思ったが口にしない。

 それは親父の方も同じで、疑いの目で玄信を見た。


「なんだなんだ? てめぇも見世物芸を始めたのか」


 冗談まじりな言葉に、しかし、玄信は既に真摯な表情に戻っている。


「いやさ、これは剣の裏ほど奇怪ではねぇ。鍛錬を積めば誰でも出来うるし、如何様なことにでも活かせる剣理だ」


 そして静かに、その境地の名を呟く。


「見切(みきり)――要は、躱しの法だ。間合いを知り、人を知り、動きを知れば、流れに合わせて躱せるようになる。我が流派は此の一寸を礎とし、境地とする」


 一寸――親指一本ほどの間隔か。

 正に、紙一重の回避。

 眼前に迫る刃を、触れる直前で躱す。

 利はあまりに大きく、また、相手の精神を強かに削ぐ。


「あのぅ……そんなに近くを刃が通るのに、大丈夫なんですか?」


 すずかはつい思ったことを口に出してしまった。口に出して後悔したが――それに玄信は平常で応える。


「それは一点を見るからだろうて。間合いを測るに、一に点を絞るのがうまくねぇのさ。相手だけでなく全てを見ればよい。いや観る、か」


 観る、とは本来は仏教に関わり深い言葉である。

 念と想の真眼で仏や菩薩を見ることらしいが、彼の言葉の真意は違うのだろう。

 それは神仏に恃(たの)まず、およそ自らの視覚で全景(すべて)を捉えるということか。


「目に映る世を確(しか)と観れば全ての間が自ずとわかる。一寸だろうが五寸だろうが。刀だろうが槍だろうがな。――触れなければ斬れぬ。この剣理はかわらねぇ」


 道理といえば道理。見て躱すだけのことなのだが。

 

 ――言うほど簡単なことじゃない。


 というよりも、素人に言わせればそれは明らかに無茶だ。

 だって人間は――恐いものは、恐い。

 眼前に迫る凶器を前にして、平然としている人間の方がおかしいのだ。


「バカゆうな、そんなのてめぇぐらいしかやってねぇだろうが」


 親父が苦笑い気味に言う。

 出来るわけがない、ではないところが玄信への評価を表していた。


「まぁ、たしかに儂以外が出来たところなど見たこたはねぇが。ハハッ!」


 鋭眼を緩めて大笑した。

 ――一方で、すずかは反対に落ち着いてきた。

 玄信もまた、理はわかっているのだろう。

 それは即ち、時代の差である。

 玄信が生まれたのはちょうど戦乱の世が終わる間近、天正十二年の前後であろう。故に、彼は戦場を知る中では最期の世代なのである。

 事実、彼よりも若い剣術家は真の戦場を知らず、殺し合いの恐怖の真髄も味わったことはない。そんな者たちが眼前に迫る刀を紙一重で躱すことなどできうるものか。

 逆に戦場を知る剣客にしても、最早相当な高齢なのである。最強の剣客の名を欲しいままにした伊藤一刀斎や抜刀術開祖林崎(はやしざき)甚助(じんすけ)などは、今や壮年を過ぎ、十全に斬り合うことなどできないのだ。

 これは見切に限らず、殺し合い全てに通づる道理。

 武蔵の無双は、天賦の才や体格、計り知れぬ研磨の果てにあるものだが、それ以外にも周りが弱いという事情もある。


 いや――ならば、“雷獣”も。


「……あの、だったら万鈎刀も見切ればいいんじゃないですか? 紙一重で躱せば、反撃の契機(きっかけ)になるんじゃ」


「……できねぇことではなかろうよ」


 戦場の素人の提案に、玄信は一応の考察をする。

 顎髭を撫でていた。


「万鈎刀は両刃。翻る太刀もまた致命だ。身体が小さければ尚の事その隙(すき)も小さかろう」


 想い出すのは闇夜に跳ねた万鈎刀の閃き。一瞬にして、木刀を噛みちぎった万鈎刀は流れるように翻っていたのだ。


「つまりは一寸で躱しても、太刀をふる隙がねぇのさ。太刀先で顔を刺すのはたやすいが、同時に儂が噛まれては仕方ねぇ」


 肉を切らせて、骨を断つのは容易いという。

 しかし万鈎刀の傷は縫合できないとされている。その賭けはあまりに不釣り合いと言えた。


「むぅ」


「ふむ」


 すずかと玄信はまた深い思慮に潜り込む。

 言葉少なく、静寂に唸る声のみが残る。

 耐えかねて――


「……結局、その一種のピンキリも役に立たねぇみてぇだな」


 親父が真面目な顔でふざけた。一応真剣に考えているようだが、すずかはつっこむことはしなかった。


「やはり、あの蠢きをなんとかせねば……」


 と、玄信が呟いた時、遠く。

 遠くから。近づく音。

 地を勢いよく翔ける跫音(あしおと)。

 報せを届ける飛脚の如く。

 すずかは少し、嫌な予感を感じた。

 

「どれっしぁ!」


 嫌な感覚は、即座に容あるのモノとなる。

 暖簾を意味もなく大げさに捲し上げて、烏顔の同心――冬(ふゆ)見(み)飛車(ひしゃ)丸(まる)が現れた。


「探しましたぜ旦那ぁ!」

 

 今までずっと走り続けていたのか、その小さな顔を真っ赤に染めている。――はためく黒衣。

 その烏は即ち、凶報に通じていた。


「……一体全体、どうしたってんだ?」


 親父が三人を代表するように訊ねる。

 すずかの方を見て一瞬だけ躊躇いながらも、飛車丸は大きな声で言い放った。


「また“雷獣”がやらかしたようでさぁ!」

 

 四日目。

“雷獣”はまた殺人を再開する。

 その悲報に対して、すずかはただ胃の痛みに耐えて。

 三代目は険顔で押し黙り。

 玄信は――静かに、わらっていた。


「では、……ゆくか」


 朱き陽は東山の頂きに在り、夕刻が近づいていた。

 

 

 ***

 

 

 無惨な骸だった。

 紅葉も半ば、赤を纏う山の中。

 京都の東に立ち並ぶ山々、その一角である。

 数ある山寺へ通ずる路(みち)の途中。

 昔は氏神でも祀っていたであろう廃れた社の前。あるいは仏教の渡来により忘れ去られた場所であろうか。

 普段ならば誰も見向きもしないそこに、今は人が群がっていた。見世物ではない。それでも群がるのは血に酔った大衆であった。

 その中心にあるのは、遺骸。否、遺骸というにはあまりに容(かたち)がおかしい。

 紅葉の敷布の上にボロ雑巾のようにソレは投げられていた。肉の変容から、それは食い潰されて一日も経ていないことがわかる。

 

 撒き散らされた断片。

 爛れた朱。

 肉塊。赤――崩れた肉塊(からだ)。

 どこが鼻で、どこが口なのか。

 抉れた貌。

 蟲に喰われたような、鳥に啄まれたような。

 腹から垣間見える脂の白は、それがただの獣ではないと教える。

 そこから溢れる――割れた柘榴(ざくろ)のような――


「おェ、あっうェ――ううぅェう」


 ソレを直視したすずかは耐え切れず集団から離れた。

 死を凝視することなどできなかった。

 初めて見る“雷獣”の殺し。

 すずかは話を聞いて理解したつもりになっていた自分を酷く恥じた。

 橋の下で見た赤い鬼の姿など、掠れてしまうほどの惨劇。

 残虐無比。

 屍山血河の狂気の断片。

 あるいは――地獄と呼ばれる光景(せかい)か。

 こんなものを見てしまうのなら、玄信についていかずに素直に蕎麦屋で待っていれば良かった。

 耐えられなかった。堪えられなかったのだ。

 道脇の木前に行き、後悔とともに胃の中身を吐き出す。


「――つぅ、はぁ、はぁはぁ」


 酸まじりの、嫌な匂いが鼻につく。

 喉奥(のど)が痛い。全身が怠(だる)い。

 出すものがなくとも、際限なく吐き気は襲ってくる。

 何度も嘔吐(えづ)く。吐き出されるものが最早、薄い胃液だけになったとき、背後から声をかけられた。


「……無理はするなと言ったろうに」


 背を摩(さす)る固い手。辻斬りから助けて貰った時とまるでかわらない、無骨な武人の手。

 気持ちばかりだが、それで少しだけ楽になった。


「すみません。でも何か……あるかもしれないので」


 口元を拭きながら、強がりを言った。

 対する玄信はすずかから見て人ごみに重なるように若干、立ち位置をかえる。


「その様子では体よりも精神(こころ)が持つまいて」


「……すみません」


 玄信の言う通りだ。

 アレを見続けるのはかなり苦痛を伴っていた。

 

 ――なんで、と、心の中に疑念が沸く。


「なんで“雷獣”は―――人を殺すんでしょうか?」


 口元が震えている理由は本人にもわからなかった。

 わからないまま、訊ねている。

 玄信は“雷獣”はただの辻斬りだと言った。

 だが殺すだけならば一太刀でことは足りるはずなのだ。

 そうではなく、あの肉は執拗なまでに崩されていた。

 想い出すのは“雷獣”の相貌(かお)。

 人間の笑みではない。

 狂気。

 歓喜。

 悦楽に耽る、狂喜の体現。

 提灯の灯りを受けて妖しく輝く二つの眸子。

 “雷獣”はきっと、あの愉しそうな笑みで、人を殺したのだ。そんなものが――ただの辻斬りであるはずがない。


「殺すことの意味か――」


 玄信は一度、髭を摩り、口を開いた。


「喩えば、職分(しごと)だ」


 と、喩え話を語って聴かせる。


「商人ってのは、何も物を売るのを楽しんでいるわけじゃねぇ。金を稼ぐことを目的とする。武士もまたその多くは戦を楽しむのではなく小禄のため、あるいは、主に仕えるために戦うものだ」


 何を為すにも金は必要になる。

 その金の為に人はその身分にあった職を纏うのだ。

 ただし――それは、士農工商だけの理である。


「だが、乞食や悪国の農奴ってのは少し違う。そういう奴らは生き残ることにしか余裕がねぇのさ」


「生きるために殺してるって言うんですか……?」


「恐らく違うのだろうよ」


 その先の話だ、と玄信は言う。

 

「アレも元は乞食だろう。それこそ初めは生きるための殺しだったはずだ。死に物狂いであったのだろうて。

 だが、あの万鈎刀を手にした後の殺しは、そうもいかねぇのさ」


「万鈎刀を手にした後――それは、人を止めた時……」


 人を止める。獣にかわる。

 凄絶な殺しを担う“雷獣”は、普通に人を殺すことができなくなった――ということか。

 玄信は眉根を寄せて、ふむ、と肯定した。


「万鈎刀(あんなもの)を手にしてしまっては、殺しなどただの動きに成り下がる。物を売る、田を耕すのと同じことよ。それこそ職分とかわらねぇ」


「……仕事とかわらない」


 つまり――金を稼ぐことと同じ。人を殺すことがただの作業――体を動かし徒労を味合うだけのものになってしまったというのか。

 生きるための殺し。

 否、生きるための軽業。

 他の者たちとの違いは、ただ一つ。

 安定した殺人は、それ自体が殺人であるという価値を失っている。


「だから違うのだ。アレは生きるためではなく、活きるために殺している」


 活きること――それは悦び。快楽。

 玄信はただ粛然とその在り方を告げる。


「生死の安定が得られた時に求めるモノ。悦びを享受できるモノがなくては、人は活きられねぇのさ。

 武士がそうであるように、刀鍛冶がそうであるようにな」


 すずかもまた、ようやく答えに至る。

 そう、だから。

“雷獣”の殺しの意味は。


「娯楽……ですか。ただ生きることに耐えられなかったから、ソレに幸福(しあわせ)を見出すしかなかった」


 ただ生き続けることほど苦しいことはない。

 活きられないのなら、生きる意味がない。

 それはわかる。理に適っている。それでもあの少年がそうなってしまってことが、すずかには悲しかった。


「でも――もっと…もっと世の中には楽しいことがあるのに……」

 

 何故そんなことになってしまったのか。

 楽しみを見出すのなら、何も殺しでなくてもいいはずだ。否、殺しであってはいけないのだ。

 すずかにはそれがどうにもやるせなかった。

 悔しいとさえ思ってしまった。

 少年は――そうならざるおえない状況にあったに違いない。無垢な精神は、いとも簡単に狂気に染まったのだから。―――それが悔しいのだ。

 玄信はずずかが訊ねるまでもなく答えを返す。


「アレは今までに生きること以外にかける余裕など皆無だったのであろうよ」


 彼は――同調したように、皮肉に笑っていた。


「だから何かを愉しむ思想(こころ)など持ち合わせてねぇのさ。女を知らねぇ。書を知らねぇ。食を知らねぇ。唄を知らねぇ。活きる意味を知らねぇ」


 アレは屹度(きっと)、何も知らなかった。


「ただ――殺すことだけは知っていた。つまりは、そうゆうことだろうよ」

 

 無知で、無垢のまま――“妖怪”となったのだと。

 淀みなく語るそれは確信に満ちていた。

 たった一度の邂逅ではあったが、この男には“雷獣”の心が知れたのだ。


「アレは殺しを愉しんでいる。もしアレ自身に毅(つよ)さというモノがあるのなら、その精神(こころ)こそがソレだろうて」


 両者は泰平の世の人斬り同士。剣豪と“妖怪”。

 立場は違えど彼らにはどこか通じるものがあったのだ。

 通じているからこそ、彼は、こんなにも“雷獣”を理解できていた。


「人を斬る事を愉しめなければ、殺し続ける事などできねぇからな」


「――なんでそんなことまで、言えるんですか?」


 すずかは堪らず、口を挟んだ。

 それは玄信の予想を否定したかったからではない。

 玄信が予想できた理由を否定したかったから。


(忘れかけていたけれど…この男も……人殺しの……)


 彼がただの人殺しに過ぎないと思いたくなかった。

 数日の時をともにした男が外道であってなど欲しくはなかった。

 それは苦渋の表情と、悲痛の声となって洩れでたのだ。

 すずかは伏した目を僅かに上げると――玄信はまた、快活に笑う。


「儂も“雷獣”も所詮は人斬り。僅か一寸ほどの違いしかねぇさ」


 自らは殺しを快楽する人斬りだと。

 憂う素振りもなく、断言する。

 装うことすらなく、彼は自らの在り方を吐露したのだ。


「………そう、ですか」


 答えはわかっていた。

 だから訊いたのはすずかの我が儘だ。

 玄信の言葉に一度、沈黙して。

 考える。

 彼があまりにも明瞭に迷いなく語るから、考える余裕はもどっていた。笑いかける余裕は残っていた。

 次に言うべき言葉は自然に紡がれる。


「それでも、武蔵(あなた)は違う。――私はそう思ってます」


 血に燃える琥珀の眸子を見据える。感情がわからない、

 ただ人を殺したいのだということはわかる。

 彼もまた、すずかのことを強く見ていた。

 根拠は――特にない。

 もしかしたら願望に過ぎないものかもしれないけれど。それでも、言わなければならない気がしていた。

 答えを聞いた玄信は苦く笑い。


「見えないものを騙る、か。―――なるほど。陰陽師殿が言うのだから、そうなのかもしれねぇな」


 思いが届いたかはともかく、腹の内は見透かされたのだろう。すずかにとって、これで十分だった。

 玄信はそのまま西の茜空を指さした。

 話は終わり、ということだ。


「見ろ、空に雲がある。今宵は雨になろうて」


 すずかも、その先に視線を移した。

 赤い木々の隙間から見える空。

 遥か向こうに確かに暗雲が立ち込めていた。

 雨が降る。嵐が来るのか。


「降る前に帰っとれ。儂は少し死体(あれ)を見てから帰る」


 投げるように言う。

 ここから早く離れるようにと。


「……はい」


「うむ、では」


 返事を確認すると、玄信は足早に人ごみに向かっていった。いつの間にか人は十から数十にも膨れ上がり、ここからでは中の様子が伺えない。


「―――」


 大きな背中が人ごみの中に紛れる。

 しかし、その長身故に頭一つは隠れることはなかった。

 赤茶けた総髪が見えた。


「やっぱり――大きいなぁ」


 ぼんやりと口走ってしまう。

 今に至っても、すずかには玄信が何を考えているのかわからない。

 何を求めて妖怪退治に赴いたのかもわからない。


 だが、きっと彼は。

 宮本武蔵(其の名)に足る男なのだろう、と確信できた。


 そんなことを考えていると、不意に。

 人ごみから小さな影が這い出て来た。


「―――?」


 幼童。人々は異常な死体に魅せられて見向きもしない。

 だが、十にも満たぬであろう汚れた着物を纏った幼童(子ども)は流れに逆らうように現れた。

 その手に握られたモノが――懐に入れられる。


(あれは……盗人!?)


 この混乱に乗じて、その子どもは盗みを行っていたのだ。

 なぜか。違和感。

 何かが脳裏を掠め、反射的に声をかけていた。


「―――ちょっと!」


「…あ、」


 間抜けな声。歪む小さな顔。

 途端に、逃げるように駆け出した。


「待っ!」


 道幅一つ分ほどの距離。追いかける。

 紅葉の舞う赤い道。

 足場は悪かった。大量の落ち葉に満たされた道は張りついた木の根などが覆い隠し、進むことを妨げる。

 だというのに盗人は山道に慣れているかのように走っていた。何度もふり返りながら走る様はまるで脱兎(だっと)のようである。

 すずかは浪人の着流しであり、動きやすい格好ではあったのだが、それでも二人の差は埋まらない。

 徐々に陽の傾きが強くなった。

 いつの間にか。人の気配も後方に消えた頃。


(……なんで)


 そろそろ諦めるべきとも思い始めていたが、――ここに至って漸く違和感の正体に気づいたのだ。


(なんで……山中に?)


 浮浪児、あるいは、路頭に迷った者は橋の下や都の陰に紛れるのが常なのだが、あの子は山の中に向かっている。

 それが解せなかった。

 兎は道を外れ。山林の中に紛れんとしていた。

 道なき道。

 沢山の紅葉の木々の迷路。

 まるで指標があるかのように子どもは一心に走る。

 これは普通ではない。

 見逃すまいと視線を凝らすと。


「――痛つぅ!?」


 途端、足を太い根に引っ掛けた。

 足元への意識が疎かになっていたのか。

 前方に倒れかけるも、両の手で以て体を支える。


「こんのっ!」


 掌が強く地を叩く。小石を押す肉の湛(じん)とした痛みが広がった。顔を上げると、幼童の姿はさらに遠く、木々に紛れかけていた。


「――つ」


 ここで逃がすわけにはいかない。

 最早、彼女に手掛かりは一つもない。

 だから。


(私が……やらないとっ)


 自らの要求を通さんとするならば、極めてこれに努めるのは至極――道理だ。


(それに、私の陰陽術ならこんなこと容易い――っ!)


 懐に手を伸ばす。

 取り出すのは札。逡巡の暇はなく。

 指を素早く走らせて、出しうる最大の大きさで、万鈎刀(らいじゅう)の唸りを再現した。


 鋼鋼鋼鋼(ギギィギィ)、鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ギギギィギギィギギィィ)――――!


 風の音しかなかった山間。

 異様なほど映える異音。

 もし、あの子どもが“雷獣”に関わりある者たちならば――


「―――え?」


 ――戻ってくると思ったのだが。

 その光景はさすがに理解を越えていた。

 

 少年はたしかに戻ってきた。

 だがそれだけではない。

 木々の隙間から、或いは山の向こうから。


 影。

 ―影影。

 ――影影影。

 ―――影影影影。


 小さな人影が、十を越えて。


 木々の影から、まるで音に釣られるかのように溢れた。

 顔の詳細まではわからない。

 だが遠目から見てもわかるほどに、笑んでいた。

 骨ばった頬に溝が浮き上がる。

 その瞳は何かを求めるように、紅葉の赤を彷徨い。

 呆然と立ち竦んだすずかに向けられる。

 

「……そんな」

 

 数日振りに、彼女は死を覚悟した。

 

 

***

 

 同刻。

 玄信は小倉屋の一室で凝固として座っていた。

 容としては禅であったが、不動の相貌に似合わず、その思考には雑念が渦巻いていた。

 むぅ、と低く唸る。

 死体の見分を終え、すずかに追いつかんと早々に戻ってきたのだ。しかし、当の女が帰っていなかったのである。

 外に出て探そうとも思ったが、陽は既に傾きかけている。行き違ったのなら仕様がない。


「しかし、――遅いな」


 まさかとは思うが、また厄介なことになっているのかもしれない、と考えてしまう。

 玄信はあの落ち着きのない女には面倒事を引き起こす才があると考えていた。

 常識も進むべき指標ももちえないというのに何かをやる気概だけは異様だ。その何かが定まらないまま行動するから、自ら危険に向かうことになる。

 玄信にして見ればあの気質(ヤマイ)でよくもあの歳まで生き残れたものだと感心するほどである。

 その実、そのようなところがアレを放置できない理由の一つであるだけに、あまり遅くなっては気にもかかる。

 だが、数刻しても待ち人は一向に現れなかった。


「ハッ――儂は処女(おとめ)かよ」


 苦笑混じりに呟いて、この数日で自分がいかに毒されていたかを理解する。

立ち上がって、窓辺に寄った。

 雨戸を開き、身を乗り出して通りを見る。人影は疎ら、正面通りに面するこの道には未だ人が絶えはしない。

 ほぅ、と玄信が感心の声をあげたのはその時である。

小倉屋の壁に奇妙な物が刺さっていたのだ。

 また苦笑して、天を仰ぐ。

 空は茜。

 遥か西の向こうには暗雲があった。


「これは……今日はたんと降るのだろうな」


 独りごちて、その奇妙な物――短刀に括られた文を手に取る。

 昼間、蕎麦屋に行く前にはなかったであろう異物。

 手に取り、開く。

 早々と字に目を走らせた。

 

 ――ようやく。

 徐々に、男の口元が歪んでいく。


 男の存在そのものが名刀の如き紫電清相の冴えを取り戻す。


「雨より先に、雷が来たか」


 妙に流麗な文字で書かれたソレは果たし状だった。

“雷獣”から武蔵への。


 刻は―――今日 彼誰時

 場所は―――京都東山 清水寺ノ大舞台

 

「菩薩を前に殺し合いとは粋なことを考える。はてさて、神仏を畏れぬとはこのことかな」

 

 喜々として、されど普段とかわらぬように彼は支度を始めた。

 普段の白着流しの上に、赤い肩衣を羽織る。

 大小の刀を腰に挿す。

 先ほどまでの愁いなど、今の一瞬で消し飛んだ。

 

 ――獰猛な笑み。

 最早、女の帰りを待つことはできない。

 最早、何者にも止めることは叶わない。

 

 妖怪殺しを愉しむために、宮本武蔵は歩みを進めた。

 

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