間章、“牙”を封から解き放つ

 

 ――殺せなかった。

 

“雷獣”は独り唸る。

 まだ陽はあるというのにそこは暗い。

 眸子(ひとみ)は僅かに入り込む斜光を反射し、紅く染まっていた。

 今、その荒々しい牙は牛革の鞘に封じられている。

 ここは数少ない“雷獣”の安息の場所。

 事を起こさんと潜み、すでに三日になる。

 その間、誰も殺していない。何の糧も得ていない。

 あの日以来、奉行所の警戒の体勢が大きくかわった。

 三人一組。その内、一人は熊避けのような鈴を腰につけ、いざとなれば人を呼ぶ備えをしている。

 あれでは――容易に手を出すことはできない。

 糧は得られず、存える術を断たれていた。

 物を食わねば、人は生きていけない。

 これは自然なこと。

 その理は“雷獣”にとって人を殺すことに通じていた。

 撤退においてアレほど冷静であった“雷獣”は今、酷く荒れていた。

 人を殺せぬことに焦っていた。

 

 ――このままでは帰れない。


 あの日から、どうにも落ち着かぬ。

 そして理由はもう一つある。

 今の今まで、人を襲って仕損じるなど一度たりともありはしなかった。これまでの五十二人、その全て。

 牙を以て、電瞬の内に屠ってきたというのに。

 あの男は一瞬であれど“牙”を退けた。

 あの女はまるで“妖怪”のような奇怪な術を使った。

 脅かす側の“妖怪”が、脅かされる危惧を抱いた。

 雷を駆る妖怪、『雷獣』は人家と田畑を荒らすというのに、殺すことができなかったのだ。

 不意に、目の前を鼠が駆け。

 

 ――獣。

 獣の眼を思い出した。

 武蔵と名乗った人間の狂気。


“雷獣”が、その邂逅に昂揚したのは、その勇名を賞するからではない。その名の持つ意味と、眼前の存在が一致したからに他ならない。

 

 獰猛な笑み。――誰かに似ている笑み。

 あの眸子はとても、心を乱した。

 まるで獣。まるで怪物。

 人が人を視る眼ではない。

 正確に、ただ事実を測りとる――裁定者。

 それが何故か心に高揚を運び、同時に畏怖を刻んでいるのだ。 

 

 ――あぁあ……


 思考に耐え切れず。


“雷獣”はまた唸る。

 怒りも恐怖も歓喜をも混ぜた、自身にも理解できない感情の渦。

 だが、確信していることもあった。

 ソレは殺さねばならないということ。

 あの男を。できるだけ早く。

 でなければ、……落ち着けない。

 何故、落ち着けないのかもわからないが――わからないままに打倒するべき敵と悟った。


『なにか、これは……?』


 不意に渋い老人の声が届く。

 外から。おそらくは、通りがかりの翁であろう。

 それで思考が寸断された。

 獣は振り仰ぐ。


『…まさか物の怪の類か』


 木の葉が踏み鳴らされる。近づいてきた。

 

 ――嗚呼(ああ)、このままでは見つかってしまう。


 しかし、外の者はおかしなことを言っていた。

 ここは神を奉る社なのに物の怪などと口にするとは。

 老僧にとって、ソレに差はないのか。


『あるいは、悪戯の過ぎた小童か……』


 粛然とした態度。この男は――高慢にも、説法の一つでも語ろうとしていたのだろう。

“牙”を封から解き放つ。

 僅かばかりの光を受けて、万の牙が滴りを漏らす。

 ――噛み殺す。

 この者に示さねばならない。

 ここに在るのは神ではなく、人ですらなく、雷鳴に吠える“妖怪”なのだと。

 この瞬間、心の乱れが掻き消えた。

“雷獣”は、口が裂けそうなほど笑んでいた。

骨ばった頬に、歪な溝が浮き上がる。

 楽しい。

 人を殺すのは、愉しい。

 ――今からこのモノはただの肉塊になる。

 殺しのみが、この獣に肉の悦びを齎すのだ。

 ならば――あの武蔵も同じであろう。

 アレは同類だ。同類に違いない。

 

 それで“雷獣”は思いつく。

 次にどうすべきか。

 あの武蔵という剣豪を、ただの肉塊にする術を。

 アレが果し合いにおいて無双を誇ると云うのなら――同じ在り方で打ち倒すべきなのだと。

 それこそ、ただ一つの証明になるのだから。

 光を遮断する障子に何某(だれ)かの手が掛けられる。

 僅かな間隙から光芒(ひかり)が洩れる。

 それが“雷獣”を照らすより早く。

 罅割れた金属音―――掻き消される絶命の一声。


 赤い雫が“雷獣”を濡らした。

 

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