八、先の先


 少しして、すずかは着替えを終えて外に出た。

 服装は昨日と同じ浪人着流し。

 短い髪は後ろに無理にまとめられ、護身用にと一昨日殺した辻斬り(辻風)の太刀も佩びていた。

 まるで本物の浪人のような出で立ちとなった今、陽のある内に襲われることはない。たしかにこの格好ならば物乞いや物盗りも迂闊には近づけないはずなのだ。

 都の陰の方にも探りがいれられることだろう。

 しかし、すずかの表情は酷く険しい。

 初めて都に来た時と同じ、騒々しい通りを歩く。

 心奥の不満は一つ。


(うん。どう見ても男だ……男だ……)


 ハァ、と自分の様相(すがた)をみながら、何度目かも知れない溜息を吐く。

 どう見ても本物ということは、どう見ても男ということである。

 男扱いをされるのが嫌いだというのに、またも自分から男装をする羽目になっていたのだ。

 そも、すずか自身は自分を男のような見た目だと思っていない。

 背が少し高いくらいで、あとは胸囲が他の女たちより小さいだけである。身体の線は細いし、顎の細い凛とした顔は町女らしくないとはいえ、男扱いされるほどではない。周りと少し造形(つくり)が違うだけである。男扱いは明らかに背丈からくる偏見なのだ。


(って、――考えても仕方ない、か)


 ふん、と気合をいれて思考を整理する。

“雷獣”探しといえど、各所を周り、話を聞くだけのことだ。

 初めて辻斬りに会ったのも昨日今日。恐怖がない訳ではないが、しかし心持ち留まっている訳にもいかないのだ。

 そうこう考えるうちに、すずかは件(くだん)の方広寺正面橋まで来てしまった。

 この橋の下で辻風幸之助が多くの人を斬っていた。

 この橋の上で“雷獣”は二人の同心を抉り殺した云う。


 ――そんな血みどろの惨劇があったというのに、痕跡は僅かな黒い染みのみ。

往来の人も、まるでかわらない。

 辻斬りは恐ろしいが――それは別段、京都(ここ)では特別なことではないのだろう。

 営みを根幹から揺るがすような大事ではないのだ。時の大河の中で、埋もれる程度の些事に過ぎない。

 遠くには大仏方廣寺の大きな影が見え、流れる川の音が辺りに小気味良く響いていた。


(あぁ……まるで、かわっていない。人が多く死んだとて、異業が如何に振るわれたとて……)


 その事実に思い至り、女は――柔らかい微笑みで、空を眺めた。いつもの下品な笑いではなく、どこか郷愁を帯びた安堵。

 人が死ぬことはあんなに苦しいのに。

 死に近づくことはあんなに恐ろしいのに。


 それでも――全てがかわったわけではないという結論(おわり)に安堵したのだ。


 そう。どんな感情があったとしても、物事の正否は結果で判断することになる。

 その過程に痛みはあるけれど――それでも全ては終わった後に判断されて如かるべきなのだ。

 血に穢れた川の和流(せせらぎ)は、今は安寧の調べとかわらない。その音に当てられたのか。眠気が不意に襲いかかる。

 

 ……心身の疲れがまだ癒えていなかった。


 橋の欄干に背を預けて、少々の休憩をとることにした。

 瞼にかかる重圧に耐えながら、眠るまいと必死に頭を働かせる。

 橋を渡る人々の姿を収めながら。胡乱な頭で考えた。

“雷獣”のこと。

 妖怪は人。その得物こそが妖怪だった。

 あの小童も元はただの人間でしかなかったはずだ。

 ならば。

“万鈎刀(らいじゅう)”を至ったのには何か理由があるはず。

 人をやめ、“妖怪”に至るまでの何か。

 その理由が知りたい。

 だが――暴れる相手から話を聞くには、やはり様々な意味で抑えつけるしか術はない。

 対応策。

 それに、すずかが求めるべきなのは殺しよりも尚、難しい。対話だ。生半可な策ではいけない。

 その際に最も障害となるのは――やはり、心のうちにある童子に対する喩えようのない感情であった。

 それはどうしようもないあるいでもある。

 何を考えているかわからない。

 どう扱うべきかわからない。

 苦手なのだ。

“雷獣”の小さな体が脳裏に浮かぶ。

 狂気に満ちた存在でありながら――彼は紛れもなく、少年だった。小さな一つの命の容(かたち)であった。

 そして少年の影は――すずかの追憶と重なった。


(あぁ似ている――似ていたんだ。彼に)


 血に塗れた小さな命は、いつしかその姿をかえた。

 歪な笑いは失せ、表情は暗く沈む。

 髪は金色へ。

 眸子は碧く耀く――肌は白く。

 どこか気品を醸しながら、完璧ではない少年の脆さと危うさをそのままに。

 毅然とした表情。茫乎とした相貌(おもて)。

 幽霊のように揺々(ゆらゆら)と安定しない。

 明らかに周りと違う、他者と違う。

 遠い向こうから来た異邦人。

 

 血の匂いと安堵と、少年の狂気――感情に兆した心の隙間が原因であろう。

微睡みの中で、すずかはその思い出に埋没した。

 

***

 

 京都に来る前。

 大和に来る前。

 此処に来る前。

 

 すずかは東北の山奥で暮らしていた。

 鳥が啼き、空気は澄む。自然の中の人の集まり。

 山中に作られたそこは、外界より隔絶されていた箱庭だった。

 なぜ、そのような外れの地に暮らしていたか。

 追い出されて逃げてきたわけでもなく、俗世から離れたかったわけでもなく。

 父の、本当にどうでもいい都合によって、連れてこられたのだ。


 ――すずかは父が嫌いだった。


 苦手ではなく、明確に嫌悪していた。

 後ろ向きで、否定的で、どうしよもなく理を重んじる。

 理屈でしか生きられないのに、その理屈が卑屈であった。

 父は人も選ばず、いつも悔恨の念を口にしていた。


 ――なかったことにする。なかったことにしなければならない。そうでなければいられない、と。


 なんとなく、それが嫌だった。

 だから、すずかは逆の道を行くことにしたのだ。

 その価値を知りたくなった。

 父が否定した全てを知りたいと、切に願った。

 古代、中世、戦国――そして徳川泰平の世へ。

 幸いにして、あそこには学ぶための本があった。

 歳の近い知り合いなどいなかったから、時は余るほどにあったのだ。

 故に、すずかはその歴史(ものがたり)に没頭した。


 書架(きろく)に埋もれる四季の中で。

 金色の少年とはそこで知り合ったのだ。

 どこを歩いている時でも、少年はいつも独りでいた。

 歳は五つも離れていたろうか。

 碧い眸子が異様なまでに美しく、水のよく撥ねる肌は女人よりなお白く細やかだった。

 容姿もさることながら、――その幽かで静謐(しずか)な雰囲気が、彼女の気を強く惹いた。

 すずかはそんな少年を見かけては、話かけるようになった。

 これからのこと。

 今のこと。昔のこと。

 

 少年はこの国の言葉は流暢に話せていたが、何故か――ねーサン、と。拙い発音ですずかを呼んだ。

 

 少年は彼女が初めて出会った異邦人でもあった。

 他の大人たちから離れた、森木の影。

 聴けば、海の向こう。遠い国から逃げてきたという彼の両親に連れられてきたのだと云う。

 それから彼と語り合うことが増えた。

 人がいる場所を抜け出して、その自然の中に逃げて隠れた。

 彼は憮然としたまま、訥々(とつとつ)と語る。

 すずかは彼に笑顔で応える。

 色々な話を聞いた。

 色々なことを話した。 

 しばくして、少年が頬で小さく笑うようになったのは多分、錯覚ではないだろう。

 すずかが話せることは己が識ることでしかない。

 それがいけなかった。

 無知の少年はそのまま、すずかと同じ知識を得るに至ったのだ。


 まるで同じ。

 知識(かこ)が同じなら、思考(みらい)もまた同期する。

 

 だから彼は鏡となったのだ。

 否、鏡にしてしまったのだ。

 いとも簡単に――意図せずとも、彼はすずかと同じ思想に染められた。

 左右非対称の、わずかなズレを以て。

 

 だから。

 なかったことにしたくなかった。

 

 だから彼は。

 人を殺した。

 

 かわらない明日を願った私(すずか)のために。

 かわらない明日を誓った己(じぶん)のために。


 金にたなびく細い髪。

 隙間から除く、茫乎とした眸子。

 両の手を血で染めながら、彼はたしかに哭(な)いていた。

 哭きながら、満面の笑みを浮かべて。

 矛盾を内包したまま後悔なく、その選択に安堵した。

 正常な思考と判断のままに、人を殺す残虐に手を染めたのだ。

 

 ――後悔している。 

 彼をあんな風にしたのは、自分だから。

 子どもは苦手。――それは彼を想い出すからだ。

 

 何を考えているかわからない。

 何をしたいのかわからない。

 知識はきっと受け売りで、思考も同じ。

 だが、行動が違ったのだ。

 必ずどこかに『彼』が残っていたはずだから。


 無表情な、氷のような少年だった。

 

 でも感情はあったのだ。

 感情に従って生きていたのだ。

 

 その理屈が、すずかには理解できないだけて。

 あの出来事は、それほど昔のことではない。

 あの少年が――どうなったのは知れない。

 ただきっと、もう会うことはないのだろう。

 会えないことは知っていた。

 だから酷く懐かしく。想い出す度に胸が痛む。

 精神(こころ)が乱れる。

 童子は苦手だ。苦手だと思って接さなければならないほどに、関わることに覚悟を要する。 

 “雷獣”は世にも恐ろしい魔の“妖怪”。

 ただ、それでも。

 あの時の少年と同じように、純粋なまでに無垢で――それ故に残酷なのだと――識(し)っている。

 

 

***



「ありゃりゃ、もしや旦那のところの?」

 

 微睡みの中に入り込む異物。

 懐かしい回想を邪魔する音がした。

 散々(ちりぢり)になりかけていた意識が、一つに収斂(しゅうれん)する。

 視線は雲った空ではなく、地上の橋に戻った。

 同時に渾沌の感情も雲が晴れるように澄んだ。


「えっ? あっ……?」


 瞼を強く擦ると、目の前に立っていたのは冬見飛車丸。

 昨日と同じ、仕事衣装を纏ったまま訝しげな眼でこちらを見ていた。

 

「やっぱりそうだぁ。おすずさん、でしたっけ? これまた奇遇でさぁな」


「き、奇遇ですね」


 突然の遭遇にすずかは戸惑う。

 涎を拭きながらも、警戒心を一層強めた。

 いつまでも夢現でいる訳にはいかない。

 さんざん武蔵を利用した挙句、手柄の横取り紛いのことをしたというのに、この小男は気にした風もなく、飄々と話しかけてきたのだ。

 何か裏があるやも知れぬと考えるのは道理である。


「しかし、その格好はまた……」


 その意を知ってか知らずか。同心は含み笑いで、すずかを一瞥する。

 人を馬鹿にしたような阿呆鳥の顔である。


「本当は男なん――」


「違います」


 予想通り――大笑いを返された。

 

「なるほどなるほど。まさか某たちが秋の寒さと戦っていた間に、旦那は雷と戦っていたとは!」

 

 その後、橋に背中を預けながら話すこと数刻。

 すずかは昨晩の顛末を自分の札の話を省きながら話した。

“雷獣”の正体。万鈎刀という奇怪な道具。

 そして武蔵と“雷獣”の不意の決戦。

 陰陽術について伏せたのは――無論、いらぬ面倒を避けるためである。

 飛車丸は時々先のような茶々を入れながらも目を曇らせることなく聞いてくれたのだ。


「しかしまぁ、話してしまって良かったんですかい? 武蔵の旦那は某にバラされるとは思ってないでしょうに」


「いいんですよ。玄信さんが動けないのなら、その間こそ都の人(貴方がた)が力を入れないとダメです」


 この報せで人死が減るのならそれに越したことはない。他者をどうでもいい、と啖呵をきりながらも――やはり、できることはしなくてはならない気がしていた。

 しかし、失態を責められたように感じたのか。飛車丸は苦笑いを浮かべてしまう。


「……全く、おっしゃる通りでさぁ。某も反省しやす面目ねぇ」


 わずかに伏された眸子から、まったくの本心とわかる。

 彼は誇りや在り方に拘り過ぎている。それが本末転倒の結果になったことを恥じているのだ。

 何より心外な話ではあるが――彼にとって、すずかは対等ではなく、玄信の付き人程度の認識だったに違いない。

 そんな人間が己よりも他者を慮っていたという事実が彼自身を省みさせているのだろう。


「しかし……“雷獣”が餓鬼で。しかも刀を折る万鈎刀とは奇々怪々もいいところ。それにあの武蔵の旦那をして、殺すに難い、と。こりゃ“妖怪”っていうのも肯ける」


 話に聞いた“雷獣”のことを思い浮かべてか、軽く身震いをする飛車丸。

 偶然にも、彼の言葉は“雷獣”と一戦交えた後の玄信の言葉と同じであった。

思いの他あっさりと信じた飛車丸の様子にすずかは少なからず驚いてしまった。


「あの……疑わないんですか?」


「色々と思うところはありやすが、アンタは旦那のツレだ。なら、賢(さか)しくも利の通ずる奴なんだろうさ。疑う必要はねぇでしょう」


 彼は強く断言する。

 飛車丸の言葉には玄信に対する複雑な評価が混じっていた。

 彼にとっても気に入らないところはあるのだろうが――少なくとも殺しの技や考え方に関しては、玄信を買っているのだ。


(なんだ――意外に仲いいじゃない)


 すずかにはそれが少し、嬉しかった。


「まぁ、上の方々も信じるかどうかまでは知りやせんがね。かけあってみましょう。屋根の上にゃ気をつけろ、二人がかりでも“妖怪”相手は荷が重い、と」


 彼は神妙な同心の顔つきで言う。続いて、――某が出会えれば、“妖怪”なんぞ一発でのしてやるところなんですがねぇ、と同じ顔で言うあたりが彼らしい。


「よかった。では、よろしくお願いします」


「……へへ。そう褒められると照れやすねぇ」


 他の同心たちが信じるかどうかまではわからない。だが、少なくなくとも警戒は大通りまで広がったはずだ。

 彼に告げるべきは、これで全部だろう。


「それじゃあ、また」


 すずかは独り満足して、よりかかっていた腰を上げる。が、不意の射抜くような視線がそれを許さなかった。昨日と同じ、鷹の目である。

 飛車丸の細面が釣り上がり、言い様もない圧を放つ。


「――いやさ、“妖怪”と聞けば、町民でも武士でも怖がるもんは怖がるもんで。アンタは随分と肝が据わってらっしゃる」


「……そんなことは、ないですよ」


「だが昨日の今日でもう動いてる。それにその格好だ。やはり――今から“雷獣”を探すんですかい?」


「やっぱり……わかりますかね?」


「なんとなくですがねぇ」


 やはり見抜かれてしまっていたか。

 彼は横を向いて、口元を歪ませた。

 横目にも、すずかを捕えて離さない。

 この男は存外に油断ならない。

 都を護る精鋭、京都所司代。その更に裏を任される隠密――この人格で疑わしい話ではあるが――であるこの男は、慧眼において玄信と違う意味で恐ろしい。

 この男の場合――表情が感情に直結していない可能性もある。


(やばいな――バレた。とめられる……かも)


 危機と感じたすずかは即興の言い訳を作り上げ、揺れた笑みで口を開こうとし、


「いや、本当はとめなきゃならねぇところなんですがね……やれやれだ」


 見かねた飛車丸の声に阻まれた。

 眸子の険は削がれ、どこか投げやりな調子であった。


「え……?」


「今回ばかりはとめられませんぜ。旦那たちは存外に侮れねぇとわかっちまったんでね。また上手く利用さしてもらいやしょう……」


「ほんとですかっ!」


 喜ぶすずかに、本当は不本意ですがねぇ、と溜息まじりに話してくれる。

 彼とて、玄信やすずかの功績を認めているということか。誇りと命――同心の仲間を含む――を天秤にかけて、彼は玄信をさらに利用すると決めたのだ。

 あまりに楽しそうな女の様子に、飛車丸はまたピシャリと言い放つ。


「ただし――夜は出歩いちゃいけねぇ。そっからは京都同心の出番っつうことで」


「はい、ありがとうございます。飛車丸さんも気をつけて」


 今度こそ心の底からの感謝の意を述べた。

 この時、すずかは彼に対する認識を少し改めていた。

 

 彼は狡い男だ。

 

 他人を利用し、己らの都合で平然と切り捨てる。

 そして、また、必要になれば他者をまた利用するのだ。

 断られることがないと確信した上で。

 なんて小狡い男であろう。

 その傲岸な態度は、すずかには受け入れがたいものではある。しかし玄信の言う通り。彼はそれで正しいのだ。

 町人のために、京都のために、小狡く努力をするのだから悪いということはない。

 彼は他者を慮ばかるが故に――他者を利用する小物だ。獲物を狡猾に狙う烏。きっと、京都所司代という住処でさえも利用すべき相手に過ぎないのだ。

 感じていた苦手意識は少しだけ和らいだ。

 むしろ強い好感を得たほどだ。――自分と違い、たしかな芯をもっているから。


「それと、最後にもう一つ」


「あ……あぁ、はい」


 言葉を受けて、意識は現実に戻る。

 補足するように、飛車丸はすずかの佩刀を指していた。


「腰の刀――鞘口に血が付いてやすぜ? 刀なんざ、数人斬れば刃毀れするもんだでさぁ。見せかけだけで、そいつぁ斬れるもんではねぇでしょうよ。身を守るなら、ちゃんとしたのを挿したほうがいいですぜ?」


 言われて、自らの左腰を見る。

 すると、たしかに鍔から鞘まで血錆で汚れてしまっていた。

 玄信が何も言わなかったから気づかなかったが、これでは武器としては使い物にならない。


「本当だ。……まぁ気をつけます」


 正直、すずかは刀など振り回せない。これは所詮、お守りである。

 使えずとも問題はないのだが――いざという時に知るよりはずっといい。

だから素直に感謝した。


「どうもどうも。まぁ、お互い死なねぇ程度に頑張りましょう。んじゃ、旦那にもよろしく言っといてくだせぇ!」


 へらへらと笑いながら、飛車丸は話も漫ろに離れていった。

 早歩き。形は普通に歩いている姿なのに、走っているような速さで彼は去っていく。

 違和感なく、人ごみに紛れ、影はすぐに見えなくなった。

 さすが――その絶妙な足運びは隠密ともいえるものだ。

 思えば、彼はお勤めの途中だったのだ。

 それでも時間を裂いてまで話をしてくれていたのだ。

 まったく、仕事熱心な男である。


「さて、私も行きますか――!」


 彼のおかげですっかりと目も覚めていた。

 気合を入れ直し――過去の幻影を打ち払い、すずかもまた、都の人ごみに紛れていく。

 一昨日の辻斬りに出会った橋の下はあえて避け、都の陰を探して回った。

 それで見つけたのは汚い都の裏通り。

 ちょうど外壁と古ぼけた家屋の狭間。

 疎らな人影を認めての行動だった。

 すずかはゆっくりとその狭間に踏み出した。

 陽が高いというのに――薄暗い視界。

 寄りかかるように無数のモノがそこにいた。

 枯れ木のように細い小童。

 動物の遺骸。ボロ切れを纏った半裸の女。

 鼠。泡を吹いて動かない老人。

 何かの塊を抱きしめ、微細する老女。

 それらの眸子が――中でも活きているモノのみが――一斉に動く。

 殺意。好奇。虚。渾沌。――淀みきった感情。

 様々な瞳に見つめられて、すずかは物怖じしてしまう。

 見せかけだけだとは理解しつつ、刀に左手を添えて呼吸を整えた。


「……大丈夫。いけるはず」


 怖気づいてはいたが、自信はあった。

 この“雷獣”探し。

 かなり不可能に近いとしても、彼女としても勝算がなければ引き受けない。

 周囲をもう一度見直し、表の通りにも影響はでないことを確認する。

 ふぅ……と深呼吸を一つ。


(大丈夫――だってコレは、あの男だって驚かせたんだから……!)

 

 懐から取り出す陰陽の札。

 辺りの人間が眸子を見開くより早く。

 力を込める。一面を撫ぜる。

 瞬間。鳴る――雷鳴轟音。

 紛れもなく、ソレは。

 

 鋼鋼鋼鋼(ギギィギィ)、鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ギギギィギギィギギィィ)――――!

 

 万鈎刀(らいじゅう)の唸り。音は札から溢れる。

 生き神写し。

 異業の札は、写しとった音を正確に再現していた。

 そう、これは昨晩“雷獣”が逃げる直前に留めた音。

 何かに使えないかと、最後の最後に留めていた音であった。

 人が雷鳴を掻き消すほどに叫んで逃げ出す。

 何もない、食べカスしか落ちていないほどの都の隅。

 一瞬で、動いているものは消え失せた。

 動かないモノだけが残った。

 すずかは無言でその景色を眺める。

 そして確信する。

 何時ぞやの玄信の話通り、この音を聞いた都人はきっとこぞって逃げてゆく。

 だが“雷獣”の正体を知るものならば。踏みとどまるはずなのだ。

“雷獣”は所詮、童子――どうあっても独りで生きていくことはできないのだから。

 同じことを都の隅、さまざまな場所で繰り返していけば、いずれは“雷獣”の足跡に辿り着くという算段。

 これがすずかの考え出した“雷獣”探しの策であった。

 ただし――この様子では何時になるかわからないが。


「ふぅ……まぁ。次に行きますか」


 深く溜息を吐きながら、ただ、たしかな手応えを感じながら。

 すずかは次を目指して歩き始めた。


 手がかりを得られなかったことに――ほんの少しだけ安堵しながら。


 

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