七、無間抱擁

 

 初めて人を殺した刻(とき)。

 

 忘れたことなどありはしない。

 最早、天下は安泰に近づき――この先を決める大きな戦いを待つばかりだった。

 後に天下分け目と言われる大戦(おおいくさ)。

 その戦列に加わるために、誰より早く武人に為らんとしたのだ。

 理は知れない。

 時世と言えばそれまでで、確たる決意(おもい)があったとは言えない。

 だが、これは一つ。儀礼のようなものだった。

 

 これから先、踏み込むのは殺しの世界。

 誰が天下をとったとしても、人を斬らねばならないことに変わりない。

 

 だから、けじめ。

 一人殺し。刻み込まねばならなかった。


 人を殺すということの如何を。

 人を殺すということの意味を。

 そして、初めての果たし合い。

 

 播州の村に父の勇名を聞きつけた兵法者が訪れた。

 父は遠の昔に死んでいた――だから戦った。

 

 方に年十三にして始め、

 播刕新當流有馬喜兵衛なる者

 

 相手は太刀。此方は木刀。

 有馬の剛力(ちから)は恐ろしかった。

 一太刀の内に刃が木刀に喰い込み、その圧をもって、此の身体を呑み込んだ。

 初めての果し合い。

 迫力からして、己は負けていたのだ。

 ならば意思だけは負けまいと、敵の強相を睨み上げ、我武者羅(がむしゃら)に押し返した。

 ――その刹那に、有馬は使えなくなった太刀から左腕を放し、殴りつけてきた。

 それは明らかに剣術ではなく、しかし確実に兵法だった。

 その行いには、殺す為の利があったのだ。

 相手は歴戦の武士。此方は十三の小童。

 違いは歴然。

 この数瞬はなす術もなかった。

 ものの数発で、この眼は赤く物を捉え始めた。

 

 そう。

 その時、赤き視界で垣間みた剣豪(てき)の相貌(かお)。

 獣のような笑み。――人を殺すことを愉(たの)しんでいた。

 

 だが平静を失っている訳ではない。

 平静のまま、凶相のままに殺す利を尽くしている。

 灼熱のような肉体(からだ)の中に、冷え切った精神(こころ)。

 相対する二つの対極が矛盾なく内在する境地。

 父であり武人であった新免無二斎が、終(つい)ぞ教えなかった殺しの理。

 

 その時、知ったのだ。

 人を殺すための才があるとすれば、それは殺しを愉しむ心なのだと。


 殴られた続けた体は限界に近く。

 目に映る全て(モノ)がゆるやかになった時。

 木刀を握る手を放し、有馬の左腰に滑らせていた。


 それが、この戦いの天理であった。

 相手の脇差し――引き抜いた刃の閃光(ひかり)は今尚、瞼の裏に残っている。

――後のことは、凡(およ)そ言では言い尽くせない。

 痛みを感じる暇はなかった。

 

 殴ったし、殴られた。刺したし、刺された。

 だが生き残ったのは此方だったのだ。


 この一戦が、後の全てに通づる理を授けた。

 数言しか交わさなかった有馬喜兵衛は師とも言うべき人間となっていたのだ。

 そこで地に転がった有馬に敬意と賞賛の眼を向けると。

 

 生きることをやめた、かの者の顔は――

 

 骸は朽ちて、果てるのみ。

 その肉の一片まで、人はモノに成り果てる。

 あの刻より我が殺生の道は始まり。

 

 殺して、殺して、殺し続けて。

 

 その快楽に唯々耽り。

 ――此の身未だ辿りつくところなし。

 


 *** 

 

 

 早朝。小倉屋の壁に寄りかかり、玄信(はるのぶ)は着流し姿で空を眺める。

 陽が少しずつ、町並みに陰影を与えていく。


「あの時の儂と――そうかわらんのだろうな」


 小さく呟いて、薄く笑った。息は霞にかわる。

 眼前の通りには人影はなく。

 都はまだ、眠りの途上であったのだ。


「あら早い……昨晩は、何か悪い夢でも見たのかい?」


 微睡みの中に、澄んだ女の声が響く。

 玄信は驚くこともない。――声は、背後の壁から聞こえていた。


「悪い夢というほどでもねぇな……懐かしい心地ですらある」


「と、言いますと?」


「噂の人斬り――“雷獣”は十三の餓鬼だった。げに恐ろしいことにな」


「まぁそうですか……それはまた、なんとも」


 女は一度、喉を詰まらせて――


「童(わらべ)を斬ろうなんて、玄(げん)さんは業が深いねぇ」

 

「業などというもの、お前だって信じておるまい」


「ふふ。それもそうですがねぇ」


 そうは言いつつも、声には何処か影が滲んでいた。何か思う所があるのだと玄信には察せられたが――相手が口を開くまでは沈黙を守り、朝霧の向こうを眺めていた。

 暫くの沈黙の後、女の声が漏れだした。


「玄さんはそれでもえぇのでしょうねぇ。アナタがそうでなくては生きていけないのは知っておりますから」


 女は皮肉で言っているのではない。真剣な声で言っていた。


「でも、あの娘は違う。事情がどうあれ、童子が死ぬことに傷ついてしまう。そういう精神(こころ)の持ち主でしょぅ?」


 見透かしたような言葉。対する玄信は視えぬ相手に応える。首を横に振った。わかっていないな、と。


「安心せい――あの女は、お前ほど強(したた)かではあるまいよ」


 貶す訳ではなく、褒めるでもなく。

 そう言って、玄信は部屋に戻った。

 

 

 ***

 

 

 日は既に高く昇り。

 都には柔らかな光が帰ってきた。

 晴天快晴。

 昨夜、妖怪が現れた事など、なかったかのような空であった。――実際に、“雷獣”の来訪を知る者はすずかと玄信を除いては一人としていないのだ。

 ただ――日が昇った後でさえ、玄信は何か考える素振りばかりで口を開かず、すずかもまた昨日の恐怖から立ち返ってはいなかった。

 二人は口数も少ないままに朝一番の食事を終えた。

 何かを察したおつやも、平時のように膳を下げていった。

 そうして訪れた静寂。

 その中で、すずかは昨夜のことを反芻した。


“雷獣”は去り、布告を残した。

 夜の通りに取り残された二人。

 すずかは総身が粟立(あわだ)つような恐怖に、長く動けないでいた。


「……すまねぇな」


 玄信が表情を曇らせながら言った言葉で、ようやくその縛りも解かれたのだ。


「たしかにあれなら“妖怪”というのも肯ける」


“妖怪”の異業を何かの仕掛けと踏んでいた彼は――喩えそれが仕掛けとわかっていても――その異常な刃の恐ろしさをその身で知った。

 だからこその、肯定。

 そして彼の慧眼は――もう一つの異業のモノを見逃すはずはなかった。その異物――すずかの手に握られた札に視線を移す。


「それが、お前さんの陰陽道か」


「……はい」


 虚言を吐く余裕もなく、小さく肯く。

 奇怪な術を使う女――“妖怪”となんらかわらない。

 それは漠然とした説明だけで、納得のいくモノではない。

 また鑑みるように――玄信は少し眸子(ひとみ)を細めた。だが、細めたまま。


「人がくる前に離れるぞ。“雷獣”の唸りは流石に響く」


 訊ねる意思はなく。早々に去ることを選んだのだ。

 そこに宿る思惑を伺い知ることは叶わない。

 琥珀の眸子は渾沌(こんとん)に耀き、相貌は巌の如く硬く、そしてわずかに口元の端が歪んでいた。

 その日、彼は――何一つ問うことはしなかった。

 慄いた心のままに、すずかはその事実に安堵したのだ。

 

 それがちょうど、昨日の出来事。

 そんなことがあったが故に、彼女には己について語らねばならないような気持ちがあった。協力者という手前、『全て』を話さなければならない気がしていた。


(でも――本当に? それを信じてもらえるの……?)


 だが、一晩を経ても踏ん切りがつかない。

 話そうと口は開くが、その途中で閉じてしまう。

 彼の無言が恐ろしかったのだ。眼目の前に座り、そんな逡巡を繰り返し続ける。

すると、これか――と呟く声がする。

 玄信の灯りの点いたような声であった。

 不意に、一枚の薄汚れた紙を取り出す。


「お前さんは……九鈎刀(きゅうこうとう)を知っているかね?」


 キュウコウトウ――?

 聞いたこともない言葉である。


「いえ、わかりませんが…?」


 一体何を言われるか、と身構えていたすずかは急な問いに戸惑う。そこで玄信は考えるままに語る。


「大陸にある刀剣の一種だ。儂も書で見ただけだがね」


 言って、残された湯呑み指を突っ込む。

 そして汚れた白紙に水で絵を描いた。


「形全体は中国の片刃刀とかわらねぇ。ただ一つ。こう、刃の峰がな。まるで獣の歯のようになっておる」


 すらすら、と筆で絵を描く流麗さ。

 全形はすぐに明らかになる。

 刀身の逆刃。本来は波紋を写すための部位が、まるでささくれ立つように荒れている。

 羽か。あるいは獣牙の如きものが九つ。 

 それこそ、まさに妖刀のような異型であった。


「これが――刀ですか?」


 九鈎とは九つの鉤爪(はり)のことであったか。

 なによりも、玄信は存外に絵心があった。

 

「書には肉を抉るのに使うと書かれておった。これで肉を挽いたらば――さすがに縫合もできねぇだろうて」


「似てるん……ですね」


 すずかはそこで納得した。確かに、この刀は一部において“雷獣”の牙に酷似している。


「だが、アレは九鈎なんてものではねぇ。細かい鈎が――数千数万、蠢いていた」


 あの暗闇の中で異音を撒き散らしていた“牙”。夥(おびただ)しい数の鉄歯は、それこそ鉄であろうと噛み千切る。

 それが“雷獣”の異業の正体。


「さしずめ、そうさな―――万鈎刀(ばんこうとう)“雷獣”か」 


 九つの牙で九鈎ならば無尽の牙で万鈎刀。

 玄信が、冬の吐息のように呟いた。


「万鈎刀? ……まさか」


 その名を聞いて、すずかは悟る。


「まさか、今朝からずっと名前を考えてたんですか?」


「うむ」


 と、強く肯いた。


(何故――そんなことを?)


 奇妙な事態だった。まるで予想外である。

 すずかが戸惑っていると、玄信はまた真剣な表情のまま続けた。


「なぁに――名は雷獣とあの餓鬼は分けえるものだという示しだ」


「示し……ですか?」


「示し。あるいは、証立てだな。儂は陰陽師ではないがね――名は呪術の類であろう? それぐらいは知っておる」


 自嘲と諧謔を込めた口調。

 だがしかし、彼が抱くのはその実利を識る者の顔である。


「名は物事を縛る。言葉は時に、人間の思惑を狂わせる。甲斐の虎、越後の竜、戦国最強、第六天魔王、――天下無双。どれも所詮、ただの言葉だ。言葉に過ぎねぇ、ただの音だ。だがそれを人は畏れ、その動きを改める」


 正に、その通り。号とは須(すべか)らく、名の呪術である。

 それが故に、古代からここまで、本名を隠す風習は全国に遍在しているのだ。それは名と存在の直結性。その法に人が無意識に従っているからである。


「仏教の真言と言ったか? ――アレも酷い冗談だ。唸っている坊主たちも、意味など理解していないのだからな。音や体裁が、霊験あらたかなモノに成り果てておる」


「それと“雷獣”とは何か関係があるんですか?」


「思うに。これもまた“妖怪”が恐ろしいと言われる遠因でもあろうて」


「それは――まぁ、そうでしょうが……」


 この男は確信を衝く言葉をサラリと言ってのける。

 “雷獣”は確かに異形だが、その担い手は人間。ただの人間でしかない。

 その民衆の恐慌の一つは“妖怪”という名にもあるのではなかろうか、と玄信は考えたのだろう。

 だから、此方が一方的に名を縛ることで――異業をそうゆうものにまで貶める、というところか。

 図らずもその思考は――人が容作ってきた妖怪の在り方――信仰の零落にどこか似ていた。


「だから、名前が必要だった、と」


 それにしても半日は考え過ぎである。

 すずかは半ば関心しつつも、不必要に慄いていた自分自身に呆れた。


「まぁな。だが道具と人、同列に語るのは無理があろうよ。どちらも雷獣では語りにくくて適わんからな」


 彼は流麗に告げる。恐怖も昂揚も皆無。理智と機知にのみ依っている。


(宮本武蔵――この男もまた、ただの獣ではなく、狂いながら思考する魔物……)


 ならばもしや――武蔵という名そのものが、彼の威圧なのかもしれない。

 名が存在を縛る。それは宮本武蔵と云う剣名にも当たる。広く刻まれた名はその歴史を、圧倒的な実力を他者に刻み付ける。

 脳髄(うちがわ)から侵食する、人間の精神(こころ)を踏みにじる威圧(ちから)。


 剣の腕以前の強さ。

 兵法。人為無双。

 彼が――より強くある為に。


 すずかは喉まで出かけた言葉は放たず、ただ玄信の意見に肯いた。

 さて、と玄信は何事もなかったが如くに続ける。


「この万鈎刀だが」


 これを決めるために時を費やした甲斐があってか、玄信の語り口は活きていた。


「昨夜の一戦でわかったことがある。雷鳴はその蠢きで、雷光はその光の反しだった」


「はい。―――正に、あの万鈎刀が“雷獣”でした」


 思い出す“雷獣”という少年の姿。

 奇怪な噂。異業の雷獣。絵巻の雷獣そのものではないにしろ、恐ろしいアヤカシには違いない。

 万鈎刀(らいじゅう)の恐ろしさは、相対したこの男が最も理解している。


「これを見ろ」


 おもむろに脇差しを差し出し、眼前で半ばほど刃を晒す。露が滴るのではと錯覚するほどの、流水の波紋。

 人を斬るに相応しい、洗練された流麗たる刃の耀き。

 すずかは刀の良し悪しなど知る由はないが、この小太刀が並々のモノではないことは知れた。

 だが、一箇所。

 至高の芸術に傷が奔る。刃の腹が削り取られていた。そこから滲み出るは、傷のような罅(ひび)。


「……すごい、ですね」


 思わず息を飲んだ。この刀を喰らったのは紛れもなく万鈎の牙だ。


「これはな。正真正銘、村正の系譜が鍛えたものだ。並よりゃ良い刀だろうて。大阪の二度の合戦(いくさ)でも、決して毀れることはなかったのだがね」


 その刀が今、波紋を乱して、折れかけていた。


「しからば、あの万鈎刀。ただの鉄の塊じゃあねぇだろう」


 無論――彼の思考は、その一点にも至っていた。


「アレは大きな鑢(やすり)だ。要は研磨の道具みてぇなものだろうて。細かい鉄が何度も当てられりゃあ、どんな名刀も削れるだろうな。

 ――くく、……はっははッ!」


 刀身を鞘に収めながら玄信が呵呵大笑した。


「しかし、何度考えても、あの奇妙の感覚だけが解せんのだがね。打ちつけ合った木刀から、まるで引き込むような勢いを感じたのだ。

 吸い込まれるような感じがあった。逆に、小太刀で受けた時も然り。あれがどうにもわからねぇ」


 よほど奇妙に感じたのか、手を開いては閉じることを繰り返していた。

 暗くて見えなかったか、あるいは、夥しい牙に惑わされたか。この男はここまでわかっていながら、万鈎刀がどのような造りか完全には理解していないのだ。


(いや――本当はここまで理解できることがおかしい。……なにせ相手は何十人もの人間を殺しつつ、その存在を隠し通してきた妖怪なのに……なのに……)


 やはり――この男の異常だ。この時勢に、ありえぬほどに、超越した俯瞰(ふかん)を持っている。

“雷獣”の正体は予想の範疇を超えていたであろうに、彼は奇怪と一蹴しない。世の理の内にあるとし、その理を解そうとしている。


 ――この間も、玄信は独り熟考していた。


 すずかは引きつった笑みで応えた。

 協力者であるならば、応えねばなるまい。


 ――少しだけならば、語っても問題ないだろう。


 事実として、すずかは蚊帳の外にあったが、あの暗闇の中でもしっかりと万鈎刀を捉えていたのだ。


「……多分だけど、わかります」


「ほぅ?」

 

 感嘆の声を上げる玄信。その期待に怯みながらも、言葉を選んで説明した。


「あれは刀身を一周するように、歯のついた紐が巡ってるんです。それが――ただただ速く回ってる。だから沢山の牙があるように視えるんですよ。引っ張られたように感じたのも、歯の回ってる方向に流されたんだと思います。回っているから――鑢になった」

 

 蠢くというのは言葉の綾だ。

 すずかの想像する限り、アレは回転する鉄牙(きば)である。

 だから何度も鉄がぶつかり、結果として大きな鑢となってしまっているのだ。


「なるほど、鉄輪の凶器ということか。馬の車輪に轢(ひ)かれれば刀が折れるも道理であろうな」


 玄信は納得したように肯く。

 別段驚いた風もなく、納得していた。

 だが万鈎刀は留まることを知らない研磨である。鍔競りあえる相手ではなく、知ってどうにかなるものでもない。

 そこで、すずかは一応といった具合に補足した。


「ただ――私の陰陽術が法力を溜めなければならないように、“雷獣”も力が切れることがあると思います。そこを抑えれば、きっと――」


 優れた道具は優れているからこそ何かしらの不利があるものだ。その不利を突けば抑えることは難しくない。

 無論、すずかの心の奥底には殺さずに済ませたいという願望があったのだが、


「しかし、儂と対峙した時には起こらなかった。期待できることではあるまいて」


 その助言を――玄信は一笑に伏した。その理があったとしても、殺しには繋がらないと切り捨てたのだ。


「それは、そうですが……」


 すずかは困惑してしまう。

 では、どうするべきだというのか。

 弾ける鉄の火花を幻視する。

“雷獣”の童子(どうじ)らしからぬ裂けでる狂笑(わらい)を想い出す。

 あの時――胸に痛みが走ったのは、“雷獣”が少年だったからであろう。

 実にすずかは、子どもが苦手だった。

 何を考えているかわからないから相手にしたくない。

 それでも、どこか理屈ではない部分で人の心を捉える辺りが気にいらない。

 理屈に傾いた女の思考では、その童子の在り方自体が苦痛なのだ。

 そして、その上で――殺して欲しくはなかった。

 玄信は今まで――万鈎刀を攻略し、殺すことを前提に話を進めていたが、それを素直に認めたくはなかったのだ。

 たとえ人殺しの畜生であったも――何を考えているかわからぬ獣であっても。

アレを殺すということは、人を殺すということだから。


「むむぅ」


 思わず、唸りが口から溢れでた折。


「……おお、そうだ!」


 そのすずかの顔で何かに至ったのか、玄信がぽん、と手を叩いた。


「な、なんですか?」


「お前さんの陰陽術。アレは存外に助かった。恩にきる!」


 意外なことに玄信は、真面目な顔で頭を下げた。


(嘘――この人、頭を下げちゃった……?)


 何とも言えぬもどかしい感触がすずかの全身を撫ぜたが、感謝されて悪い気はしない。


「そんなのお互い様ですよ。いいですよぉ、ずっと頭下げたままでも」


 胸は優越感が満ちていた。破顔一笑して、彼の赤髪まじりの頭を見た。幸いにして禿はない。


(あら――よく見れば髪がちょっとだけ赤い――まさか血じゃないよね? 地毛かな)


 こうした余裕をもって彼を見るのは初めてで、気にならなかったところにも目がいくものである。

 せっかくの機会なので、しばらく彼を観察してみた。

 琥珀の眸子、赤髪まじりの総髪、常人ばなれした巨躯。

 改めてみるだに、奇怪な風態である。

 別段、それは言及するほどのものではなかったが、


「――ところで」


 そんな折。首が疲れたのか、頭があがる。


「お前さんの陰陽道。他に何かできるのかね?」


「え、……えと」


 赤黒い頭がニヤリ、と笑った。

 この男はすずかの陰陽道を見世物芸――いや、事実幻術(めくらまし)と判断したようだった。

 何かして見せろ、と眼が強く言っている。


「そうですね。昨日みたいに音を鳴らしたり、光を出したりするのは――まぁ札の使い方の一つでして」


「で?」


 不評――というよりも、玄信はそんな口上に興味はなかったのだろう。

 怪異の説明としての『陰陽道』を晒してしまった以上、すずかの『おんみょうどうのふだ』は何かしらの道理を元にするモノというのは知られてしまっているのだ。

 これは存外に、骨の折れる問いであった。


「他には……声や音、見ている物を…あぁ~と…留めておいたりできます」


「……留める、とは如何に」


「ちょっと待ってください」


 すずかは立ち上がり、窓際で法力を貯めていた札を持ってきた。そうして昨夜と同じように両手でしっかりと持ち直す。


 発光――黒ずんだ一面が、灯篭のように淡光を放つ。

 光の中で、すずかは馴れた手つきで指をふるった。


「はい。こんな感じです」


「ぬぅ……?」


 玄信が唸りながら見せつけられた札をみる。

 札に――まるで基督(きりすと)の絵画のような色彩で――一つの風景が描き出されていたのである。


「儂がいるな。あと、こちらは“雷獣”か……」


 月の映える夜空の下、奥にいるのは万鈎刀を携える小さな人。

 手前には脇差しと鞘で構えをとった大男の背中があった。

 昨夜――陰陽術を使った際の情景が、すずかの視点から見事なまでの精密さで描き出されていたのだ。

 玄信はその札の一面を物珍しそうに触ってたしかめる。

 だが指には無機質な感触が残るのみで、何も付いたりは

しない。これはつまり今の一瞬で描かれた絵ではないということの証明となった。


「……ぬぅ。あの暗さで絵など描けようはずもなし。そも油絵なんざ南蛮人の嗜(たしな)みだろうて――やるな」


「……生き神写し、とでもいいますか。絵だけじゃなくて、音も留めてありますよ。やりますか?」


 彼の顔を覗き込んで、訊ねる。

 答えをまたずして向かいに座る。


「いや、いい」


 玄信の顔は深く皺が刻まれていた。なるほど想像を絶するまでの思考をしていることが察せられる。

 時折、彼がぬぅ、と唸るのは奇妙さを解き明かすことに窮しているからだろう。


「ふふ。ふふふふふふ」


 玄信の困ったような表情がおもしろい。いつにもまして優位な立場にすずかは大きな背を揺らして笑った。

 思えば――京に来てから、彼女の胃はこの男に虐められっぱなしだったのである。

 だからこそ、この状況を長く楽しみたかったのだが――


「まるで役に立たねぇな」


「なっ――つぅぅぅ!」


 本人にはその意はないのだろうが、それで全部が台無しになった。


「いやさな。もしも、お前さんの陰陽術が戦いの利になるものなら、力を借りんとも考えたが――それでは仕方あるまいて。今度からは連れてけねぇな」


 顎を摩り、思慮にはせながらに言う。

 すずかとは違い、玄信は初めから真剣だったのだ。陰陽

 道にしても別に道楽で訊いた訳ではなかった。


「それに、お前さん――人が死ぬところは見たくあるまい」


 彼は何ともない風に――心の惑いを言い当てる。

 相手がただの辻斬りならいざ知らず“雷獣”は年端もいかぬ童子。

 最低限の人の心が、すずかを“妖怪退治”から遠ざけている事にやはり彼は気づいていた。

 満面の笑みは消え失せ、再び苦悶が表情を支配する。


「………やっぱり、殺すしかないんですか。まだ子どもですよ?」


「餓鬼だろうが、妖怪だろうが、辻斬りは辻斬りだ。理はそれで十分だろうて」


 玄信の言うことは常識知らずのすずかにも理解できた。

 殺しは殺しであり、ならば罪も罪である。

 そしてこの時代、すずかが思うほどに幼少期は長くない。

“雷獣”を特別にしてはいけない、というのはわかる。


「それでも――できれば殺して欲しくないです」


 蚊の鳴くような声(おと)。だがいつかと同じ。確固たるものがないから、はっきりと口には出せなかった。

 玄信はそれを見下ろす。感情のない眸子。感情のない声。彼はただ――すずかの理屈を問うていた。


「お前さんはアレと話すことが目的だったな。だから殺すな、というのはわかる。だがね。人の命を慮ってのことならば理屈が違うのではないかね」


 そして、強く言った。


「あの“雷獣”は、まだ殺すぞ。お前さんに縁のない人間がまだまだ死ぬぞ。それはいいのかね? 無論……儂はどうでもよいが」


「でも――」


 良いはずがない、とすずかは確かに思っている。

 思ってはいるが、そう言い切れるほどに意思は強くない。

 中途半端なのだ。

 あるいは単純に。全てを己の利だけで判別せんとしながら、人が死ぬことに―――どうしようなく価値を求めてしまっている。

 それがどうにも考えを鈍らせる。

 それがどうにも、受け入れがたい。


「私は――」


 だから。

 ここで、他人を考えることを放棄した。

 理屈を定め、己の道を決めるために。


「私自身のために“妖怪”に話を訊かなければいけないんです。他の人のことは、どうでもいい」


 唸るように声を絞り出していた。

 実利を考えるなら、そう決めるしかないのだ。

 そして思い出す。

 この思いが、今まで自分を生かしていたのだと。


「昨日会って確信しました。アレは私と同じなんです。だから、会って、その正体を明かさないといけない。貴方に殺されたら――その……困ります」


 他人の為ではなく、自分の為に強く頼んだ。

 まっすぐに玄信の琥珀の瞳を見る。


「同じ……か」


 彼は静かに呟いた。必死の懇願を前にしても彼の意思はかわった様子はない。


「まぁいい。――お前さんがどうあっても、儂は“雷獣”を殺す。だが……」


「だが……?」


「昨日の今日だ。儂を狙いに定めたというのなら、しばらくは相手も動かねぇはずだ。だから時間はある」

 

 昨晩“雷獣”はたしかな布告を玄信に残した。

 ならば――すぐに動くことはあるまい。

 そも出会えないのなら、殺すこともできはしないのである。ならば時間とは、“雷獣”殺しの猶予である。


「儂もしばらくは動けねぇ。相手が相手だ。また同じようにかち合っては、逃げるのは儂の方だろうて」


 玄信は獰猛に笑う。勝てぬというのに悔しさの欠片もない――むしろ愉しんでいる。

 殺せぬという状況を。

 殺し方を思考することを。

 ゆっくりと上げた右手には四本の指が立てられていた。


「だから四日だ。それまでにお前さんは“雷獣”を探してみよ」


 それは、だから。ありえない提案であった。


「ほ、ほんきですか?」


「殺さぬようにしたいのだろう? ならば、お前さんが探して捕らえれば良い」


 軽い玄信の言い様に、すずかは先程の問答の意味を悟る。


(誘導された。私が本心を語るように……!)


 彼女はあれだけのことを言ってのけた手前、拒否することができない。

理屈を決めてしまった以上は――それに逆らうことを彼女はできない。

 玄信の今朝からの態度からして万鈎刀の名だけではなく、誘導の流れまでも考えていたに違いなかった。


「えと、でも。どこを探していいかもわからないので…」


 だが、玄信が無茶なことを言っていることにもかわりはないのだ。探し物ができるほど、すずかは都に通じていない。

 その上、奉行所の連中が必死になって探しても見つからなかったものを探すには、あまりに情報が足りなかった。

 だが玄信は知らぬ存ぜぬと話を続ける。


「あのぼろ布のような格好だ。“雷獣”はどこか都の陰にでも住み着いているのだろうて。ならば痕跡があるはずだ。それを見つけてこい」


 自らの要求を通さんと欲するのならば、極めてこれに努めるべきだ――彼は粛然と言い放つ。

 世の道理を語って効かせる。


「場所が割れれば、万鈎刀を振るわせぬように捕らえることも易いやもしれぬ」


 まったくもって、おっしゃる通り。

 しかし、だからと言って快諾はできず。


「でも」


 なけなしの抵抗を試みようとするが――

 

「お前さんの陰陽道なら容易いだろう?」

 

 ――その言葉には、ただ肯くしかなかった。

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