六、万鈎刀(ばんこうとう)

 

 灯りの消えた都―――月は満月。雲はない。

 名月を眺めようとする者もない。

 横切るのは秋の冷風だけ。

 これが他の場所であれば野侍や商人になどが騒いでいてもおかしくはない。だが最近になってその影もなくなった。

 それほどまでに、都の人々は“妖怪”の影に怯えていたのである。こんな時刻まで灯りが消えないのは町人貴族の屋敷や遊廓(くるわ)ぐらいなものであった。

 この闇を、ゆっくりと偲ぶように歩む“妖怪”が一つ。


 “妖怪”は“雷獣”と畏れられていた。

 月に頭(こうべ)を垂れながら“雷獣”は悔しそうに唸りを上げる。

 

 獲物を探し、獣が走る。

 しかし今夜に限って、邪魔者が多かった。

 橋の陰、川の側など“辻斬り”が頻出するあらゆる場所に人がいた。同心や与力、三人ほどの組みで警戒に当たっていたのだ。


 ――明らかな待ち伏せ。


 喩えどんな相手でも、“雷獣”はその牙で噛み砕けるという自負があった。

 現に今まで無防備な女子どもだけでなく、剣術家や浪人なども一方的に殺し続けていたのだ。

 正に妖獣の絶技。凡(およ)そ常人にあっては鍔競り合うことすら不可。

 だが……複数人が相手では話が違う。一人に喰らいついている間に、他の相手に襲われては仕様がない。

“雷獣”は再び唸る。

 急な同心たちの働きに戸惑い、そして憤怒していた。

 

 ――血に飢えていた。


 何かを斬らねば、この飢えは癒せない。癒そうと彷徨っていたのだ。

 そして逆しまに――同心たちは通りには一人としていなかった。都の陰を警戒しすぎているのだろう。

 故に“雷獣”は悠々と、その身を闇に溶け込ませる。

 この都において生きているものを探して歩き回る。

 そうして、ちょうど京の中心辺りで足を止めた。

 本能寺から目と鼻の先、松下町の辺りに。

 提灯を持った人影が一つ。

 “雷獣”の血走った双眸が影を捉える。

 浪人か。

 暗い色の着流しに、太刀の帯刀。結われてもいない黒髪。

 

 ――獣は悟る。


 こんな静寂の中、一人歩くこの浪人は異常。

 この浪人もまた“妖怪”を退治せんとする一派だと。

 ならば、此処で斬らねばならぬ。

 喰らわねばならぬ。

 口元から体液を滴らせて、“雷獣”は赴(おもむ)くままに駆け出した。瓦を強く踏む。。

 

 跳躍。――咆哮。

 躊躇いなく、その屋根から飛び降りた。

 天から墜ちる雷(いかづち)に、矮小な人は為す術なく。

 無防備な肉の頂きに、振り上げた“牙”を――

 

「跳べ!」

 

 闇夜に怒声があった。

 ――ッッッ!

 ソレは振り下ろされた。だが、それより一歩早く浪人は振り返ることもなく、前方に跳ねる。

“雷獣”は自然の理に従い墜ちる。

“牙”が地を叩く。

 地を叩いた反動に“牙”が震えた。

 一撃必勝の跳躍。

 これを躱されたのは初めてであった。

 ――チィ、と舌打ちし、離れて立つ浪人を睨む。


 違和感があった。

 暗さ故に屋根の上からでは気づかなかったが、浪人の体は線が妙に細い。相貌は 蒼白。

 絹のような髪は短髪。

 その造形(つくり)、その白さは無骨な武人のものではなく。


(…女)


 奇事に心を奪われたのも一瞬。

 他のモノに血走った眸子を囚われる。

 

 女の向こうに―――同類(ケモノ)の姿。

 獰猛な笑みは、満円の月夜の下、ただ二つ同調した。

 


***


 

(――上から!?)

 

 声に合わせて、駆け出した浪人。

 語るまでもなく、それは着流しを纏ったすずかだった。

 目的は囮。

 女姿では逆に怪しいということで、わざわざこの格好になったのだ。

 

 かくして――獣は誘い出された。

 しかし成果を喜ぶ間もなく、その顔は驚愕に染まる。

 理由はいくつかあった。

 初日に“妖怪”が現れたことにも驚いた。

 同心たちに炙り出され、通りを彷徨っていると思われた“雷獣”が屋根から降りてきたことにも驚いた。

 だが、何よりも驚いたのは―――その姿。

 辻斬りなど溢れに溢れる夜の都で。

 一目でそれが“妖怪”だとわかるほどの異様。

 異業の辻斬り。

 妖怪。妖絶無比の獣の正体。

 

 ――“雷獣”は十三余りの小童だった。

 

 穢れに塗れる貌(かお)に、薄く細められた眼(まなこ)。

 丈の短い着物。着物から除く、肢体はことごとく、血と傷に覆われ、腰下が妙に赤黒く染められていた。

 立姿だけ見れば人非人(ならずもの)の童子である。

 だが一つの異常が、強烈に、その異様を高めていたのだ。

 “雷獣”の牙。両の手で持った異物。

 鮮やか橙色をした三寸立方の箱。

 そこから伸びる、一尺半の厚みある板状の刀身。

 何よりも、刀身を一周するように生える夥(おびただ)しいほどの錆鉄の牙。

 そして匂い立つ。腥(なまぐさ)い、血の蒸気に膿んだ風。


(まさか、――!?)


 提灯の灯りだけでは、精細を捉えることは難しい。

 見えないが――

 木造立ち並ぶ都には似つかわしくない鉄細工。

 これは普通の刀ではない。

 これは、普通ではない。


「あの! あなたはもしかして――」


 事情を訊かなければならない。

 そう思って声をかけたが、


「下がれ……!」


 すずかの身体が緊張に跳ね上がる。

 声は背後から。先ほどと同じ、玄信の声であった。

 腹の底から絞り出されたような叫びに、我に帰る。


(ああ、今――私、殺されかけたん…だっけ……?)


 その事実に遅れて、気づく。

 血気が引く。

 襲いかかる恐慌の波に、すずかは一間も後ずさった。

 見れば――“雷獣”は、小さな口が裂けるのではないのかと思わせるほどに歪ませていた。

 おびき寄せられたことに何の戸惑いもない。

 むしろ悦びを感じるように。

 骨ばった頬に、歪な溝が浮き上がる。

 およそ人の笑みではない。

 狂気。

 歓喜。

 二つの瞳が―――灯りを受けて妖しく輝く。

 誰かの笑みに、似ていた。


「――シシィ」


 五十もの人間を食い殺した魔獣。

 姿は人だが――明らかに、その精神(こころ)は人以外の何かにかわっていた。

 嗚呼(ああ)、これは殺すことを愉(たの)しんでいる。

 

 対話を試みんとする淡い希望は、一瞬にして霧散霧消に消え果てた。

 当の“雷獣”は、動かない女から視線を外す。

 そして無光の闇を睨む。

 すずかの後ろ、数軒先。闇の中――新免玄信が木刀を提げ、ゆっくりと歩んできた。

 実に――彼が屋根の上に潜む“雷獣”に気づけたのにはいくつかの理由があった。

 まずは絵巻。天を翔けるという記述から辺り全体を警戒していたのが幸いした。

 そして満月。強い月明かりが普段は見えぬ闇の先まで照らし、獣の牙を強く光らせていた。

 その“雷獣”の異形の刃を警戒しながら、玄信はゆっくりと前に出る。粛然として、問う。


「お前さんが“雷獣”かね?」


「………」


“雷獣”は答えず。笑っている。

 笑ったまま殺そうとしている。

 無言。得物が緩慢に掲げられ――月光に耀く。

 刀身はまるで黒鉄の鏡。鉄の歯が、月の乱光を走らせる。


「……なるほど」


 これが宣戦になろうとは――声(オト)より疾く、玄信は駆け出していた。間合いは一瞬にして、無に帰す。

 疾風(かぜ)――前動作を極限まで廃した、木戟一刀。

 叩きつけるように振るわれた三尺の木刀が、迎撃に動いた“雷獣”に迫る。間隙なく先手を取った。

 強かな打音が響く。

“雷獣”は両の手で支えた得物で、木太刀を防いでいた。

 鉄の牙に、嫌というほど木が喰らい込む。


「――シィ」


 右手で箱自体を支え、左の手で鉄の取っ手を握っている。

 上から押さえ込まれた“雷獣”。

 筋力の差は明白――異業(わざ)をなす間はなく。

 だが、その瞬間的な状況でさえも獣は笑みを絶やさない。


「死ね」


 一方の玄信もまた、笑んでいる。

 獰猛な獣が喉を鳴らし、死の匂いを愉しんでいる。

 男の狂喜の笑みを間近で見た雷の獣は、一度歓喜に打ち震えるように体を揺らし ――両の目を確(しか)と開いた。

 途端――沈黙したいた獣の喉から、凄まじい絶叫が迸る。

 右手を離し、箱から何かを引いた。


「シィィィァァッ!」


 玄信がほんのわずかに怯んだのは、絶叫のためではなく――一度として、耳にとめたことのない異音による。

 排出音。空気が断続的に震える。

 振動。振動に次ぐ、震動。

 

 ギィン! ギィン!

 ギギ―――ギィン!

 

 鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ギギィギギギギィギギギィ)!


 唸りをあげる、霹靂一声(へきれきいっせい)の轟音。


「ぬぅお!?」


 玄信の驚愕はいかばかりか。

 打ちつけ合った刃が震え、噛まれる。

 とまっていたはずの牙が蠢く。

 木の粉塵が舞う。亀裂が奔り、木剣が刀身を失っていく。


 鋼鋼(ギギィ)、鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ギギギィギギィギギィギギィギギギィ)―――!


 雷鳴。雷霆。

 雲一つない夜天の下。

 まるで、鉄の這い回るような――異音が響く。


「オマエはあアぁぁァ――!」


 感情の堰が切れたように“雷獣”が唸る。

 割れ響く誰何(すいか)の絶叫。

 時間にして数秒、木刀はそれで削り殺された(喰われた)。塵風とともに残骸が散る。振り切られた“牙”は刀身を返すことなく中空で翻った。

 刀すら、砕く――錆鉄の牙。


「これがっ――“雷獣”かッ!」


 状況を理解した玄信は即座に木刀を手放す。

 瞬刻――二足の後退。

 ――この特異な武器は、刀身が細かな歯に覆われている。

 故に、上下の区別を要さない。

 刀を噛み砕いた牙は――おそらく、疾く翻り、数多の人間の血を吸ったのだろう。

 距離は三尺もなく、太刀を抜く間もない。

 一刀を重んじる剣豪ならば、これで詰みである。。

 だが、玄信は――右手で抜くことを前提に傾けられた鞘口から脇差しを――紫電一閃(ひかり)にして放つ。

 本来の用途とは違う、速さのみを上げた抜刀。

 十手術を父に学んだ新免玄信だからこその技。

 小太刀は、牙の蠢きに触れた。

 金属と金属がぶつかり合う音――拮抗は一瞬。

 ソレも鉄の濁流に飲み込まれる。


 鋼鋼鋼鋼、鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼(ギギィギィギギギィギギィギギィィ)――――!

 

 刀に噛む牙。軋む鋼。

 絶え間なく響く金属同士の摩擦が光の花を散らせる。

 鉄を、散らせる。


「シシシ―――死ィ!」


 脇差しを抑える右腕が異様な圧力に震える。鉄の濁流は、その刃をこそ押し流さんとしていた。後退は不能。

 この拮抗が終わったとき、玄信は死ぬ。


「待っ!」


 すずかは堪らず悲鳴に似た声をあげた。

 だが、その声は誰の耳にも届かない。

 ――届く必要もなかった。

 玄信は片腕を封じられた。

 ――だが、宮本武蔵は二刀流。


「喝ァァッ!」


 武蔵の咆哮。鉄の蠢きに逆らうように。

 一足――左手は既に動いていた。

 放たれるは黒漆一閃。

 鞘をとめる腰紐を力任せに裂いて――鞘口を“雷獣”の顔面に撃ち放ったのだ。


 ――シシィ!


“雷獣”は是を避けんと後ろに跳ねる。

 突きは届かず、空を穿つ。

 しかしこれにより、数間の間合いが生まれた。

 剣戟(けんげき)が収束する。

 荒々しい“雷獣”の唸りは絶えず、武蔵は脇差しと鞘の構えを解かない。

 炎熱に熟されたような沈黙の中、先に言葉を紡いだのは“雷獣”。


「――オマエ……オマエは……!」


 昂揚のままに、甲高い悲鳴のような問いが鋼鉄の雑音を越えて響く。否、問うているのではない――ただ激情(ながれ)を叩きつけているのだ。


「――宮本武蔵だ」


 武蔵は呟くように返す。あらゆる感情の渾沌とした相貌(かお)で、“雷獣”は小さく唸った。


「ああ、………ああ――おれは“雷獣”だ」

 

 絞り出されたソレは――如何様な意味であったか。

 再び訪れる空隙、二人はともに動けない。

 荒々しい静寂の中で、互いの動きに目を凝らしている。

 琥珀の眸子と朱い眸子。獣と獣。

 隙を伺い、策を巡らす。

 だが、思索を巡らせるのは当人たちばかりではなかった。


(このままじゃ、武蔵は死ぬ――!)


 脂汗を全身に流しながら、すずかも何とか現状を打開しようと考えていた。

 力量は拮抗しているようで、武蔵の不利は覆らない。

 雷獣の牙は鉄を、数瞬で断つ。

 鍔競り合うことができない。それでいて、持ちかえる間も今はない。

 武蔵は動かないのではなく――動けないのだ。

 だからこそ、すずかは自分にできることを考えた。

 “雷獣”の隙をつくるような何か。

 せめて、武蔵が死なないようにする策を。


(何か――!)


 ものの数秒の思考を終えて、彼女は――陰陽術を使うことを決意する。


(――光。目晦ましができれば)


 懐に手を伸ばし、分厚い、片手に収まるほどの札を取り出す。逡巡はなく、それに親指で力を込める。

 光沢の黒漆の面が輝く。ソレは鬼火か霊魂か。

 この世に似合わぬ不自然な白光が溢れる。


(よし、いける!)


 喩えではなく――昼間の太陽光による効能は十分だった。

 浮かび上がる、他者には理解できないであろう文字と図の羅列。その表面を女の指が筆のように滑らかに撫ぜる――光は色をかえた。

 腹は決めた。この超常の的(てき)に対して――陰陽秘術を使うことになんの躊躇いが必要か。

 横にした札を両の手で確りと支え、発光と反対の面を二者に向ける。


「――玄信さんッ!」


 カシャ、と。

 声と同時に漏れる奇怪音。

 乾いた紙を一気に潰すような音と共に、白い稲光が世界を照らした。


「ッ!?」

「ぬ!?」


 闇に馴れていた二匹の瞳は、突然の光に目をやられる。

 視覚が狂わされ、行動が封じられた。

 それだけではない。奇怪な光は猛る心に惑いを齎す。

 だが稲光は――光だけ。

 それで十分だった。

 効果が有ると判断したすずかは、光を連続のものにかえた。闇を照らす光は月光より尚、鮮烈。

 その光の中を一つの影が駆け抜ける。


「――――――斬るッ!」


 武蔵はすぐに“雷獣”を殺しに罹(かか)っていた。

 光の惑いを突き抜けて、一刀に踏み込む。

 それは逆光の関係も加味した冷徹な判断。

 

 だが、

 

 だが――“雷獣”は遁(のが)れていた。

 

 二人にとっても意外なことに。

“雷獣”は陰陽術を前にして撤退したのだ。

 恥も外聞もなく、京に恐怖を振りまく“妖怪”が奇怪な光を脅威と判じた。

 シィ――と、小さな哄笑が洩れる。

 激情にかられていたのが嘘のような、あまりに冷え切った思考。その小さな背中が小路の方へ逸れていく。

 最早――牙も唸ることをやめていた。


「チィ!」


 武蔵は舌打ちする。

 追いかけるには、素早さの差があった。

“雷獣”は夜を疾走する野犬が如き俊敏性をもっていた。

 感心の間もまく、苦し紛れに脇差しを投擲する。

 投げるが――視力の回復が遅い。

 刃は、家屋の壁に突き刺さった。

 その逡巡の間に“妖怪”は完全に姿を晦ます。

 家屋の隙間を巧みに駆けるのか。遠ざかっていく跫音(あしおと)。

 あまりに広大な都の闇の中。

 最早、追いかけても遅い。

 そして、その様から“雷獣”は今宵、巣に帰るのだと容易に知れた。

 

 最後に一つ――遥か遠方から雷鳴が轟いたのは――疑いようもなく、“雷獣”の布告であった。

 

 騒音は告げる。

 いずれまた相見えよう、と。

 

 

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