エピローグ・蝶
見覚えのない場所に倒れていた。森の中だった。霧は晴れていた。たくさんのブナの葉が光を透かして、生き生きとした黄緑色に輝いていた。頭の中ではまだ光の音が遠くに鳴っていた。
体に力が入らなかった。すべての力が抜き取られてしまったみたいだった。
「はるみ」
右手に、折りたたまれた紙を握っていた。図書室の女の子の、あの紙だった。
顔の上でそれを広げた。子どもみたいに真剣に問題を解こうとした、あのときを思い出した。
あのときからわたしたちはすでに共鳴していたのだろう。互いの存在を引き寄せ合っていたのだろう。
泉、か。
はるみは最後に何のことを言っていたのだろう。泉なんて、どこにあるのだろう。それにここはどこなんだろう。
まだ見ぬ泉のことを思い浮かべると少しだけ力が湧いた。わたしはゆっくりと上半身を起こした。紙を畳み直して胸のポケットにしまった。
小さく息を吐いた。地面に手をつきながら何とか立ち上がってはみたものの、足元が覚束ない。近くにあるブナの木の根元に腰掛け、その幹に背を預けた。
まるで生命の根源にもどったような交わりだった。はるみとの最後の。
そして、すべてを飲み込んでしまうような、圧倒的な、エネルギーのうなりのような、あの光。
その光に吸い込まれるように、消滅してしまった、はるみ。
そうだ、はるみは、何かに溶けて消えてしまう、と言っていた。だから消滅したのとも違うのだ。あの光がなんだったのかはわからないけれど、はるみはその一部となったのだろう。赤く煮え立つ溶岩に落ちた岩のように。
もう、はるみは、はるみとしては存在しない。でもたぶん、まったくなくなってしまったわけではない。
いずれにせよ、結局、はるかの言ったことが正しかったのだ。ただひとつ違っていたとすれば、それは最後の最後に、はるみがわたしに会いにきてくれたことだ。
時間を見ようと思って携帯電話をポケットから出した。今朝、完全に充電してあったはずのバッテリーは、底をついていた。リュックの中からGショックを取り出した。十時二十一分だった。はるみとは、まる一日以上、抱き合っていたような気がした。でも日付を確認するとまだ今日だった。はるかを修学旅行に送り出した日だった。森に入ってから、三時間ほどしか経っていなかった。
突然、目の前を蝶が横切った。紫色の大きな蝶だった。わたしを誘うように、辺りをひらひらと舞った。
半ば無意識に立ち上がり、リュックを背負った。すると蝶は進み始めた。
蝶の後を追った。体が勝手に動いていた。
蝶は下の方へ向かって飛んでいるようだった。
泉に導いてくれるのではないかという微かな期待を抱いた。
傾斜は緩いけれども、道のついていないところだったから、笹を掻き分けながら蝶についていくのは大変だった。
でも蝶はわたしを待っていてくれるようだった。
初めてこの山に登ったときのことを思い出した。河村教授もこんな風にわたしが追いつくのを待っていてくれた。でも、狸ならまだしも、こんな美しい蝶というのは河村教授には不似合いだった。こういう蝶が似合うのは間違いなくはるみだった。はるみそのものではなく、使者か何か、そういう気がした。
気がつくと、観測サイトにつながる道に出ていた。すぐ近くに、五本目のお気に入りのブナの樹があった。蝶はわたしの周りを何度か回ると、やがて来た方向へ、森の奥の方へ、飛んで行ってしまった。泉には連れて行ってくれなかった。はるみのことだから、必要なときが来たら、きっとわたしはそこに辿り着けるのだろう。
樹の肌にそっと手を置いて、ブナの樹を見上げた。はるみが微笑んでいるような気がした。
心の穴はなくなっていた。そこは、はるみがそばにいてくれたときのような、温かいなにかで満たされていた。
はるかのことを思った。たぶんわたしは今日のことをはるかに話さないだろう。でも、きっと、はるかはなにかを感じるはずだ。
道を見た。
ゆっくりと森の空気を吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。
もう一度、ブナの樹を見上げた。
樹の肌からそっと手を離した。
(了)
ハルの森 百一 里優 @Momoi_Riyu
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