第二部 第三章 二 白い森

 はるみがいなくなって四か月ほどが過ぎ、はるかが夏休みに入るころになると、ふたりだけの生活にもどうにか慣れてきた。茶室で目をつぶってはるみの名残りを感じることもずっとうまくなっていた。写真を眺めて涙を流しているよりは健全なことのように思えた。

 八月になって、はるかは小学校の修学旅行に出掛けてしまった。四泊五日の予定だった。出発の日は朝六時に集合で、忘れ物がないかとか緊急の連絡先はどこだとか、前日からちゃんとやっておけばいいようなことでばたばたして、慌ただしく家を出た。はるみだったらこんなことなかっただろうにと頭の片隅で思ったが、すぐに追い払った。

 はるかを学校に送り届け、バスの出発を見送っても、職場に行くにはまだ早い時間だった。でも天気も悪くなかったし、たまには朝早くから観測サイトに登るのも悪くないと思って、そのまま高森山の研究所に向かった。

 研究所に着いたのは七時すぎだった。すぐに山を登り始めた。

 朝靄あさもやが立ちこめ、ぼんやりとした朝日が差し込んでいた。麓からは斜面に沿うようにいくつかの雲が湧き上がっているのが見えたから、その中に入ったのだろう。こうした雲を次の研究対象に考えていたから、ちょうどいいと思った。こうした水の起源を知るためにはどのような観測を行ったらいいか考えながら歩いた。

 もうすっかり歩き慣れ、河村教授に引けを取らない速さで登り降りできるようになっていた。でも、今は湿度が高くて、しばらく雨も降っていないはずなのに、岩の上や、地面にのぞいた木の根っこにはうっすらと水が浮いているほどで、足元は滑りやすかった。朝の森を楽しみつつ、今後の研究について思いを巡らせながら、普段よりもゆっくりと足を運んだ。


 観測サイトを含むエリアは、まだ原生林として残されていた。標高の低い斜面にはコナラを優占種とする群落が形成され、標高が高くなるとブナが優占種になった。七本ほどのお気に入りの木もできた。根の張り方とか枝の分かれ方とか瘤のでき方とか、自分の知らなかった樹木の好みがあった。登るときには軽く手で触れて、挨拶をした。苔の生えた樹の肌が優しく答えてくれた。はるみがいなくなってしまってからは、じっと立ち止まって、無意識に樹を見上げていることもあった。

 研究所から観測サイトへの道は河村教授が切り拓いた一本だけで、外れようもなかった。変な言い方だが、人間のつけた獣道だった。でもまあ人間だって動物の一種に過ぎない。

 いつもの道を辿っていることは確かなはずだった。ところが行けども行けども五本目の樹が見つからなかった。すぐに消えるだろうと思っていた朝靄はむしろ徐々に濃くなって、いまや完全に霧だった。見通しが悪くなっていた。ただ穏やかな流れはあったので、雲が発達して厚くなり、大きな固まりになったのだろうと思った。こういう雲や霧がどの程度頻繁に現れているのかわからないが、これだけ葉や幹や地面が湿っているということは、場合によっては森林生態系の水資源として十分に活用されているのではないかと思った。

 あと五分ほど登れば観測サイトで、せいぜい三十分も待てば雲は流れ去ってしまうはずだ。足元の木の根っこやところどころに埋まっている岩の感じは普段とさほど変わりなかった。五本目の樹は見落としたのだろうと判断した。あれ以来、ときどきぼんやりと考えごとをするせいで、そんなことが今までにも何度かあった。

 ところが、先が見えないとはいえ、いくら登っても六本目の樹も見つからなかった。こんなに視界の悪い状況で登ったのは初めてだった。気持ちが焦り始めた。わたしの知らないほかの道があったのだろうかと思い始めた。


 一瞬、道の先に何かが動くのが見えた。

 人の足だった。

 白いスニーカー、細い足首、スカートの裾。

 それは、はるみの足だった。まさかとは思ったが、わたしには見間違いようのない、はるみの足だった。

「はるみ?」

 思わず呼びかけていた。

 呼びかけると、足は止まり、こちらを振り向いた。でも足首から上は霧が濃くて見えなかった。足だけがスポットライトを浴びたように浮かび上がっていた。

 足は向きを変えると、また動き始めた。

「はるみ、待ってくれ」

 しかし足は動きを速め、霧の中へ消えてしまった。慌てて後を追った。ときどき、ちらちらと足が見えた。

「はるみ! はるみなら、待ってくれ」

 そう叫ぶと、足は止まり、またこちらを向いた。でも近づこうとすると、歩き出してしまう。呼びかけても駄目なら、ついていくしかない。

 しばらく行くと、木々のない平坦な場所に出た。観測サイトに着いたのかと思った。霧は相変わらずで五メートル先も見えないほどだった。

 地面は土がむき出しだった。だから観測サイトではなかった。観測サイトは草地だからだ。やはり違う道に入り込んでしまっていたらしかった。もう足は見失っていた。

「こっちよ」と声がした。紛れもなく、はるみの声だった。

 逃げられてしまうのが怖くて、黙ったまま声の聞こえた方にゆっくりと歩み寄った。

 板張り小屋があった。扉が半分くらい開いていた。中からぼぉっと光がこぼれていた。

「はるみ?」

 中を覗き込んだ。

 はるみが、静かに眠る赤ん坊を抱いて、立っていた。わたしを見ると、にこっと笑った。その笑顔は雷光のようにわたしを貫いた。あれほど求めていた笑顔がそこにあった。

「はるみ……」

 胸がいっぱいで、それ以上、何も言うことができなかった。

 はるみは、赤ちゃんが起きちゃうから大きな声は出さないでというように、人差し指を唇に当てた。

「さあ、早く入って」

 囁くような声ではるみは言った。

 わたしは言われるまま中に入って、扉を閉めた。

 その部屋は、入り口の部分と、窓がないことを除けば、わが家の茶室とよく似ていた。あの燃えてしまった公民館と同じで、外側は古びているように見えたが、中は新しく、清潔だった。四畳半の真ん中に囲炉裏が切ってあった。本物の囲炉裏だった。炭が赤くなっていた。石油ランプのようなものが吊り下げられ、淡く灯っていた。

 わたしがもどかしく靴の紐を解いている間に、はるみは赤ん坊を奥に置いてある籠の中にそっと寝かせた。わたしを待つように囲炉裏の近くに正座した。

 這い上がるようにして畳に上がり、そのまま膝をすりながら、はるみのところへ行った。赤ん坊が母親を見つけたときはこんな気分なのかもしれない。

 なんだかすごく神聖なもののような気がして、すぐには触れることができなかった。膝を突き合わせるように座ったまま、目の前にあるはるみの顔をまじまじと見た。元気そうだった。いなくなる直前と変わらないように思えた。はるみは優しい瞳でわたしを見ていた。

 蝶でも捕まえるような気持ちでそっと手を伸ばした。頬に触れた。柔らかく、少しひんやりとしていた。はるみはじっとしていた。背に手を回し、抱き寄せた。背中を流れる長くしっとりとした髪にも変わりはなかった。初めて会った日の、はるみの匂いがした。そういえばいつも朝起きるとほのかにこの匂いに包まれていたような気がする。そしてはるみのいなくなった翌朝にはこの匂いはなかった。

 聞きたいことは山ほどあったが、今はどうでもよかった。はるみがここにこうしているのだ。そしてわたしとの間の子どもがそこにいた。もちろん抱いてみたかったが、でもなによりもまずはるみだった。

 もたれ合っていた体を起こした。静かに唇を合わせた。はるみの唇がわずかに開き、わたしを受け入れた。

 まるでキスを覚えたての時のように、いくらキスをしても、したりなかった。そしてキスをしていると、はるみがまだわたしを愛してくれていることははっきりとわかった。

 我慢できなくなって、体重を預けるようにしてはるみをそのまま横たえようとした。

「駄目よ。それはあとで」

 はるみはすっと体をずらしてしまった。

「ねえ、まずは話をしましょう」

「はなし? それよりもまず君を抱き締めたいんだ」

「わかってる。わたしだって、そう。でも待って。まずは話を聞いて。それにあなただって、聞きたいことはいっぱいあるでしょう?」

「それはまあそうだけど……」

「じゃあ、家にいるときみたいにソファで抱き合いながら、ね?」

 はるみが後ろを振り向くと、部屋の奥にソファがあった。さっきは気が付かなかった。いや、なかったはずだ。そして赤ん坊を入れた籠はなくなっていた。

 これは夢なのか? それとも、とうとうわたしの精神は破綻をきたしたのだろうか?

 はるみが立ち上がり、わたしの手を取った。確かにはるみの手の感触はあった。だけど夢の中だって、リアルな感触を感じることはある。

「はるみ、これは夢なの?」

「あなたはどう思う?」

「頭で考えたら、夢だと思った方が納得がいく。それに君とこうしてまた会えるなんて、本当に夢みたいだし」

「ねえ、あなたって、わたしといるときだけはイタリア人みたいね」

 はるみはそう言って、おかしそうに笑った。そういう時の笑顔も変わっていなかった。

「それに赤ちゃんは? さっきまでそこにいたはずのぼくたちの子どもは? あれは君とぼくの子どもなんだろう?」

「そう、あなたとわたしの子。でも、まず座りましょうよ」

 ほっとした。無事に産んでくれたんだ。でも、いなくなったときはまだせいぜい妊娠二か月くらいだったはずで、あれからまだ四か月半しか経っていない。だとすると六か月半で出産した計算で、かなりの早産ということになる。だけどさっきちらっと見えた時は、顔色のいい、元気そうな赤ちゃんだった。

 はるみに導かれるようにしてソファに座った。はるみはわたしのすぐ左に腰を下ろした。そしてはるみは甘えるように頬をわたしの肩にすり寄せ、「会いたかった」と小さく言った。指を絡めていた手に力が入った。

 はるみの肩を抱き寄せた。はるみもわたしも口を開かず、そのまましばらくじっとしていた。夢なのではなく、ほんとうにはるみがここに存在していることを感じた。はるみの重みや、肌や髪の感触や、匂いや、ぬくもりを感じた。

 霧の音が聞こえそうなほど静かだった。

 たぶん五分ほどして、はるみが顔を上げた。

「あなたが知りたいのは、わたしがどうして出て行ってしまったか、いったいどんな記憶が戻ってきたのか、そして今、わたしがどうしているか。そうでしょう?」

「ああ。そうだ」

 震える声で答え、小さく頷いた。はるみの瞳は、幸せそうでもあり、悲しげでもあった。

 はるみは体を起こし、わたしの方に向き直った。わたしも体の向きを変えた。向き合うと、思わずため息が漏れた。はるみの瞳と同じ色のため息だった。わたしのこれまでの人生でもっとも複雑なため息に違いない。

 強く抱きしめたくなったが、我慢して、おでこに軽く口づけをした。はるみの表情がほっと緩んだ。でもすぐに真顔に戻った。

「ぜんぶを話してしまうわけにはいかないの。わたしが話すことを許されているのはほんの一部だけ」

「許されているって、誰に?」

 はるみは悲しそうに微笑んだ。

「ごめんなさい。たぶんあなたの疑問にはほとんど答えることができないと思う。でもこれを見れば、あなたにはいろいろなことが推測できると思うの」

 どこから取り出したのか、胸の前で右の拳を開くと、手のひらには丁寧に小さく折りたたまれた紙が載っていた。開いてみてというように、私の方に差し出した。

 乱暴に扱うと壊れてしまいそうで、そっと受け取った。

 ゆっくりと開いていき、最後の折り目を開けた。

 そこには、わたし自身の鉛筆書きの数式や文字が並んでいた。

 息を呑んだ。

 それは、あのときに図書室で解きかけた算数の解答だった。

「まさか……はるみ、君はあの図書室の女の子だったの?」

 はるみは答えずに、すっとした目でわたしを見た。

「わたしは自分に関するあらゆる記憶を消されて、人間になっていたの。本物の人間よ。だから人間でいる間は、自分はただの記憶喪失だと思っていた。

「わたしはずっと、人間になってみたい、って言い続けていた。勉強をしたり、みんなで遊んだりする人間の子どもたちがうらやましかったの。わたしはずっとひとりだったから。それにしては、人間になってから友達を作ったりしなかったんだけど……記憶もなかったしね。

「わたしたちは普段は人間に寄り添って、微妙に距離を取って生きているの。気付かれないように。まあ、子供とか、ある種の人には時々見えちゃうみたいだし、ごく稀に特定の人にだけ積極的に近づくこともある。だけど人間社会に人間として派遣されるなんて滅多にないことで、時代の大きな節目とか、人間社会が大きく変わっていきそうなときとか、そんな時にそういうことがされるの。わたしたちの種族としても、もっと現代の人間を知る必要があったから。そして特別なケースとして――わたしの場合、強く望んでいたし、自分で言うのもなんだけど結構優秀だったから――通常よりずっと長い間人間でいることが許されたの。あなたの持っていた小説で読んだことのある潜入捜査とかいうのとは全然違うの。だって人間であるときのわたしは何も知らなかったんだもの。先入観なしにただ人間というものを体験しただけ。外側から見ているだけでは分からない、人間という生き物を。家を出たあの日、夢の中ですべてを知らされた。自分が何者であるかも思い出させられた」

「いったい誰に……」

 そう言いかけて、それにも答えられないだろうことははるみの表情からわかった。

「わたしのもうひとつの使命は、種族の跡継ぎを産むことだったの。これはわたしたちの種族のサイクルに合わせたり、住み処が使えなくなったりして、時々行われることなんだけど……ごめんなさい、あまり詳しくは言えない。木乃香さんにある条件の下で子どもを産んでもらうことで準備が整った。そのことはあなたは知っているのよね? それから一時的に人間の大人の女性になりすまして、人間の男の人と一度だけ交わればいいだけのことだったの。あとはすぐに戻って、子どもを産んで……」

 はるみはそこまで言うと、口を閉ざした。

「じゃあ、あの赤ちゃんは、ぼくたちの子どもだけど、人間ではないということ?」

 はるみは申し訳なさそうな顔で、黙って頷いた。

「本来ならそういう風に、いわばプログラムをインプットされていたらしいの。わたしの場合、今までのケースよりも少し早めに人間になって、人間のことを知って、それでしかるべき時期が来たらすべてを思い出して、子どもを作ったらさっさと戻るように。だけど、それが上手く働かなかった。木乃香さんの近くにいることは計画されたことだった。あなたと出会うことはある程度想定されていたけれど、わたしがあなたのことを好きになってしまったのは計算外だったみたい。そしてあなたがわたしのことをあんなに好きになってくれたことも。わたしはいつまでも戻らず、しかも人間の子どもを、あなたとの間の子どもを妊娠してしまった」

「じゃあ、やっぱり、人間の子なんだろう?」

 はるみは首を横に振った。

「儀式を行って、種族の子どもに変えられてしまったの」

「そんな……」

「仕方ないの。だってそういう約束で人間にしてもらったんだもの。従わなければ、あなたとはるかが……」

 はるみはふわっとわたしに抱きついた。わたしの無事を確かめるように一度だけぎゅっと抱き締めると、またふわっと離れた。

「なにもなくて、よかった。だって、わたしは相当いろいろと抵抗したから、ずいぶんと怒りを買ってしまったの。そこに仕方なく帰ったときも、人間の世界に戻りたい、ずっと居続けたい、って駄々をこねて、泣き続けた。無駄だということはわかってたんだけど。あの日、わたしがいなくなった日、すごい雨になったでしょう?」

「あれは、はるみの涙だったの?」

 はるみは泣きそうな顔で笑って、頷いた。

「いったい、君はどういう存在……」

 答えられない質問だとはわかっていたが、口に出さずにはいられなかった。

「じゃあ、山の方の雷は? あれは怒りの方? だとすると、ずいぶん怒られたんだね」

 はるみは子どもみたいな顔で頷いた。そうだ、確かにあの図書室の女の子に似ている気がする。もうどんな顔をしていたかなんてまったく覚えていないけれど、笑ったときの雰囲気とか、周りを優しい光で包み込むようなそんな感じとか、そんなところが、似ているような気がする。なんで、今まで、気が付かなかったんだろう。

「わたしがあなたを好きになって、あなたがわたしを好きになってくれて、それでシステムが狂ってしまったらしいの。魂の共鳴によってシステムに狂いが生じた、って担当の専門家が言っていた。人間の言葉で言うと、そういうことになるの」

「専門家もいるんだ?」

「あっちの世界も、人間の世界も、どうやら基本的には変わりないみたい。ただ、あっちは物質的な世界ではないの。あっ、いけない。しゃべりすぎるとまた怒られちゃう」

 はるみはいたずらっ子のような顔をした。

「でも最終的にはちゃんと使命を果たしたから、すべてを許してもらえたし、こうして人間としてもう一度だけあなたと会うという願いも叶えてもらえた」

「もう一度だけ?」

 そうであろうことは覚悟していた。一方で淡い期待も抱いていた。戻ってきてはくれなくても、ときどきこうして会えることを。

 はるみの顔が悲しげに崩れると、覆い被さるように抱きついてきた。唇を重ね、舌を絡めてきた。

 はるみは泣いていた。大きな瞳から涙がぼろぼろとこぼれていた。

 いつの間にか裸で抱き合っていた。

 上になったはるみの、背中に回した手に力をこめた。温かかった。わたしのよく知っている、あの時と全く変わっていないはるみの重さを感じた。

 はるみの涙がわたしの顔に降り注ぎ、わたしの涙と合流した。いつの間にかわたしも泣いていた。首筋を伝って、流れ落ちた。


 はるみの体が光を放ち始め、すぐにわたしの体も光り出した。白い光だったが、とても穏やかで、まぶしくはなかった。自然なこととして受け入れていた。はるみと同じだったから。

 雲の上のようなところにいた。でも空があるわけではなかった。真っ白な綿のようなものが一面に広がり、それに包まれるように、抱き合ったまま横たわっていた。知らぬ間にわたしたちはつながっていた。いままでのどんなときとも違っていた。身体全体で交わっているみたいだった。融合してしまったみたいだった。言葉を交わす必要もなかった。覚醒と意識の喪失の狭間を彷徨うような奇妙で果てしない感覚だった。森野さんと踊った時のあの感覚を何万倍にも凝縮したみたいだった。いや、あの時を遥かに超越した感覚だった。意識は遠のいていくみたいなのに、はるみのことははっきりと感じることができた。意識は肉体であり、肉体は意識だった。まるで生命の進化を遡っているみたいだった。


 はるみが突然声を上げた。あの時の声にも聞こえたが、驚きの声のようにも聞こえた。奇妙な、甲高い声だった。

 わたしの意識、普通の人間としての意識が、夢から引き摺り出されたように、戻ってきた。まるでその声に呼び出されたように。

 どれだけ長く抱き合っていたのか、時間の感覚は完全に失われていた。

「たかふみさん、わたしはもうだめ……もう、消えてしまう」

 はるみが苦しげな声で言った。

「消えてしまう? そんなのいやだ!」

 場の全体から掃除機のノイズのような音がし始めていた。

「でも、もう無理なの。もういられないの。もうわたしの役目は終わってしまったから、何かに溶けて、消えてしまうの」

 はるみの声は切迫していた。

「ちょっと、待ってくれ」

「もう待てない。わたし自身ではどうにもならないの」

「そんな……」

 はるみの身体だけが再び光り始めた。今度はどんどんまぶしくなっていった。抱きしめた体の輪郭が光で滲んだ。愛おしいはるみの、その顔だけは、まだ、はっきりと見ることができた。はるみは意思の力で〝何か〟に逆らい、少しでもわたしのそばにいようとしてくれているみたいだった。

 必死で抱き締めた。

 はるみもまたわたしに強く抱きついていた。

 肉体の感触はまだ消えていなかった。でも、その感触もどんどん心許ないものとなっていった。

「はるかのことをお願い。寂しくなったら、泉の水を一口だけ飲んでみて。一口だけよ。そうしたら……」

「泉って? いったいどこの!」

 わたしは叫んでいた。

 光は、ジェット機の近くにでもいるような、ものすごい音を発していた。それはやがてうねるようにして、耳には聴こえないほどの高い音に変わっていった。

 光は遂にはるみの顔に押し寄せてきた。

 やがてぼんやりとした顔の形になり、そしてそれは一瞬のうちにどこかに行ってしまった。

 はるみは消えてしまった。

 呆然としていると、今度は真っ暗になった。

 何も見えず、何もわたしを支えていなかった。わたしは暗闇の中を落下し始めていた。意識が遠のいていった。


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