ミッコは私のことなんて


 高校三年の頃から、塾の先生の部屋を私は定期的に訪れている。当時の私にとってはそれなりに遠くに感じた狛江市のアパートは、今や大学に通うための下宿先となり、帰りに寄れる溜まり場のようなところになっていた。

「暑くね?」

「おじゃましますと言いなよ」

 アイスの入ったコンビニ袋を元先生の胸に押しつけ、軽やかにスニーカーを脱いで1Kの狭い廊下をぐんぐん進む。

「涼し~」

 扉の向こうでは寝る場所としては物が置かれすぎたベッドと、申し訳程度のぬいぐるみ、無印用品で揃えた家具というのっぺりした色合いが私を迎えてくれた。

「ちょっと、ハーゲンダッツ買ってくるのは構わないけど、どうせならチョコのやつ買ってきてよね、アカネ」

 短い髪の毛をガシガシと掻いている元先生の綺麗な脇に自然と目がいって、黒いキャミソールの生活感にどこか心がホッとするのだ。初めてここに来たとき、私は悩める受験生で、どこに目を置いて良いのか分からないくらいに緊張していたのに。

「はいはい、ミッコ先生」

 彼女は私とそれなりに親密な関係になっている、二十半ばも過ぎたフリーターだ。まあ、主な収入源は他にあるのだけれど。

「あんたはいつも自分の好きなもんばっか買ってくるんだから、こっちの気持ちも少しは考えてよね」

 そんなことを言いながら笑って、彼女は麦茶を注いで私に差し出した。少し零した茶色が彼女の手にかかり、私の手に湿りが少し伝播する。コップを渡す一瞬にも彼女の体温は否応なく私を掠めていくのだから、他人というものは暴力的に過ぎていた。

「ええ~? 考えてると思うけどな~」

 今度の月末にやってくる彼女の誕生日だってしっかり覚えているし、プレゼントだってもう買ってある。これ以上なにを考えればいいのだろうか、アイスの味だけで十分だろうか。

「バニラが嫌いって何回言ったら分かるのよ」

 はあとため息をついて、ミッコは両手を開いて私の方を向いた。座った状態、「ん」と一言、無表情。

「なに?」

 麦茶を飲み込んで間もない私に起こすジェスチャーとしては、不自然極まりないそのポーズ。腹の奥が締め付けられるように痛むのだけれど、気がつかない振りをした。

「なにって、あんたが一番分かっているでしょ」

 ぶっきらぼうに言うものだから、力強さに流されるがまま私は彼女に一歩足を進めた。四つん這いで歩くことも、きっと一歩と呼ぶのならば。

「毎度まいど、すみませんねぇ」

 なんて笑ってみるけれど、上手く笑えている気はしない。彼女は笑い返してなんかくれないから、部屋には空虚に私の波だけさざめいた。

 まるで獣物みたいに彼女に近寄り、私は胸元に、そっと頬を擦りつけた。求愛行動なんて呼ばれそうな頬擦りだ。ミッコは私の頭を手で包み、髪の間を手ですいた。

「……ん……」


 人に抱かれると、自分でも意図しない声が漏れるのは何故だろう。

 示し合わせたように目を閉じて、求められている確信もないまま体重を預けていく。私は私でなくなれなんてしないのに、この小さくか弱い、狭すぎる海に沈んでいる。水底から世界を眺めている間の私は、いつもより青いままでいられるような気がした。

 彼女の汗の匂いが鼻をくすぐった。いつまでもそうしていて欲しかった。叶うはずもないことを祈るのは、お酒が飲めるようになっても変わらない。


 夕暮れに蝉の音は、疲れも知らずに響きわたった。まるで私の呻きをかき消すみたいな気遣いだった。蛇口から落ちる一滴がすぐ隣で弾けたように聞こえるほど、アパートにいるであろう他の住人の気配はない。遠くからやっては去っていく国道の車は、誰が待っているどこに向かうのだろうか。風が撫でていくこの街のどこに、私のことを待ってくれている人がいるのだろうか。答えは私の背後に広がる窓の向こう、ベランダから吹く風に舞っている。誰もつかみ取らないゴミクズみたくそれは飛んで、多摩川の土手を走る誰かに踏まれるのだろう。

 不思議だった。私は確かにミッコの胸に埋まっているのに、考えはどんどん遠くに進んでいく。想像力は翼をはやして空を飛び、限界を迎えると途端踵を返して自由落下を始めるのだ。地面に落ちる痛さも知らないから、私はなんでも勝手におもんばかって、人目のないところにクレーターを作る。

 私はどんなことがあってもヘコまない。ヘコむのは地面の方だ。ヘコむような柔らかい頭があるのなら、私はもっと上手に生きていられたはずなのだ。

 残暑の夕べ、女は二人寄り添っているように見えた。その実、私が彼女に寄りかかっているだけなのだったのに、美しく言葉で飾りたくなってしまうのは、私の抱えている病といって差し支えない。

 私は青かった。この夕日に染められてなお隠しきれないほどに。なにも成長しないまま、ただ年輪だけを増やした邪魔な樹木。実もつけることがないのなら、ここまで伸びた意味はなんだというのだろう?

「ミッコ」

「んー?」

「好き」

「んー」

 ほらね、ミッコは私のことなんて好きじゃないんだ。

 分かっている。だけど今だけ、嘘でも良いから抱きしめて。

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