『廃園』



 夏休みが明ける前、九月の上旬に私は大阪の同人文芸イベントに参加した。前から決まっていたことだったけれど、生まれて初めての深夜バスに少し緊張もしていた。

 新宿のバスターミナルから出発する前、誰かとご飯にでも行こうと連絡をとったけれど知り合いは誰も捕まらなかった。ミッコは撮影があるとリゼロのコスプレの写真を送ってきたし、ゼミ生の仲がいい友達もバイトがあるからと断られてしまった。ミヤザキとはあれから連絡を寄越してくれなかったし、なんとなく気まずくて私からもメッセージを送れないままでいた。

 けれどギリギリに新宿に着くのも心細く、結局バス出発の一時間半前に私は新宿南口に立っていた。同人誌が敷き詰められたキャリーケースを引きずり、アメニティや着替えやらが入った大きなリュックを背負って、私はドコモタワーが望めるスタバの屋外席で一服していた。

 スマートフォンを見ながら明日の予定を確かめる。グーグルマップにチェックを入れた施設は、大阪に着いた後に巡るイベント会場までのルートだ。

 二四時間経営のマクドナルドで朝ご飯を食べ、歩いて同じく一日中開いている銭湯に寄り、身支度を調えてイベントに参戦する。

 イベントが終わったらその日の最終の新幹線で東京に戻って、私はおそらく重いままの荷物を一人アパートの階段で引っ張り上げるのだ。宿代をケチった、〇泊二日の弾丸ツアー。

「私、馬鹿だなぁ」

 ドコモタワーのライティングが移ろっていくたび、自分の立てた予定に苦笑する。いくらお金を浮かせるためといっても、大阪まで行くのに観光の一つもしないとはなにごとだ。

 純粋に本を売りに行くためだけの時間、私は今から九時間バスに揺られてまでキャリーケースの中にある本を読んで欲しいと思っているのだ。

 なんて情熱的に言ってみたいけれど、その実私は自分の作品が誰かに認めてもらえるという自信を失いかけている。別に誰にも感想をもらえないわけでも、一冊も売れないというわけでもない。それなのに、私はなんでか寂しい。どうしようもなく、無力感を味わいながらあのブースに座っている。

「だけど……」

 周りにお客がいなくなった一瞬、私は自己啓発的に呟いた。

 いくら自分で自分を否定しても、最後まで否定しきることができていないから私は今ここにいるのだ。

 見てみたかった。

 私はどれだけの寂しさに耐えられるのかということを。

 私の喉の渇きの限界が、どこなのかということを。



 深夜バスの座席に神はいない。

 結論だけ言えば私の今回の気づきはそれにつきた。二回の休憩のたび、運動前のようにストレッチを入念にこなす私は周りの景色とスウェット姿によって、ちょっとした市民ランナーのように見えたことだろう。

 三列に分けられたバスの車内は、洗脳チップでも埋め込まれたかのように大人しい廃人たちを連れ、朝方の大阪に目を擦った。湿気た車内には、それに似合わない冷房の風が渦巻いて、くたびれた人間の眉を汚す。

 私はカーテンで覆われた外に思いを馳せながら、先に京都で降りた分軽くなったバスが空でも飛んでくれないかとうなだれていた。

 

 ぼんやりと意識を数十分失うことを繰り返しただけの状態で、私は梅田駅近くのバス停に放り出された。キャリーケースと再会してすぐ、その手を引いて朝食のために歩き出した。前から調べていた、関東だろうがアメリカだろうがどこにでもあるマクドナルドに入った。

 誰が望んでいるともしれない朝食メニューを囓りながら、次に向かう銭湯への道を確認する。当然初めて歩く道だから、多少遠回りでも大きな道に沿っていくことにした。

 私が座っているそばを何人かの仲間連れが通り、机の下に隠れ切れていない鞄に少し躓いた。首を傾けて謝意を表明したけれど、顔をあげるとすでに、彼らは遠くまで歩いていた。

 妙に落ち着かないのはきっとマックのコーヒーが不味いせいで、心細くなんてなっていないと自分に言い聞かせた。


 銭湯で身体を洗い流し、肌に潤いを取り戻した。まあ、乾燥肌だからすぐにどうにかなってしまうのだろうけれど。ソファでゆったりと座り、眠らない程度の休憩をしたあとは化粧で皮膚呼吸を封じたりしていた。

「天満橋駅……」

 地下鉄の谷町線、どの線路に来る電車に乗ればいいのかを確認しながら、東梅田駅で立ち往生しかけた。

「OMMビル」

 その駅に着いたら着いたで、今度はどの出口から出ていけばいいのだとあちこちを見回し、私と同じようなキャリーケースを持った人々が、みんな同じような方向に向かっていく流れについていった。

 スムーズといえるくらい、他人の力で会場にたどり着き、私は満を持してキャリーケースを広げて自分のブースを彩るのだった。雑貨屋で買ったアイテムをちりばめて、選び抜いたマスキングテープで目立たせた値札を見本誌の前に堂々と立たせた。


 奮発して買ったポスタースタンドを組み立てて、隣のブースに挨拶して、お手洗いに行きたいと思ったときには会場は一時閉鎖となったり、てんてこ舞いになったりしていると、イベントはあっという間に始まった。

 そして、いつものように私のブースには大して視線も注がれず人もやってこないまま、一時間、二時間と時間が過ぎていった。ここまで時間が経ってなお、一冊も売れていない状況に少し焦りも覚えてきた頃、空腹の自覚やペットボトルにはいったお茶の残量という生体的な問題まで生じてくるものだから参ってしまった。


 私からいくつか離れた同じシマのブースには、大きな声で呼び込みをしているサークルがいた。通路に大きくはみ出して、無料配布の薄い冊子を通行する参加者に手渡している様子は、遠くからでもよく目立った。そして、そうやって目立っている時点で彼らは私よりもずっと注目されるだけの努力と度胸を併せ持っているのだろうと思い、怪訝な目を向けながらも感心してしまっていた。暇だからイベント参加のガイドラインを読んでいると、彼らが犯しているマナー違反は大したもので、それもまたおかしくて密かに笑っていた。


「あの」

「はいっ」

 スマートフォンから顔をあげた私に声をかけてくれたのは、おそらく高校生くらいの女の子だった。二重まぶたが印象に残る、健康的に焼けた肌の持ち主。チェックのシャツとブルージーンズに身を包み、透明なレンズで世界を見つめているみたいな挙動をしている綺麗な子。

「『廃園』、ください」

 私の撮った写真を加工し尽くしてできた表紙の中編小説を指さして、彼女は小さな声でそう言った。小さく聞こえたのは、きっと彼女がマスクをしているからで、その原因は思春期特有の肌荒れを隠すためなんだろうなと邪推してしまった。

 そんなこと気にしなくてもいい。あなたを世界で一番美しいと思ってくれる人はきっといる。少なくとも私には、そうとしか思えない。なんて思ってしまうのはきっと、彼女が私の本を買ってくれるというから思ってしまうからなのだろう。なんて現金、私は彼女と違いずいぶんと薄汚れている。

「ありがとうございます」

 無言のまま会釈をして、少女はイベント会場の海流に流されるがまま去っていった。私の岸辺から、彼女がどこにたどり着くのか。どうしてか、あの大声を張り上げている浜辺に難破しないでほしいとだけ願い、彼女の船出を私は見送った。



 そして、この日売れたのはこの一冊だけだった。



 知り合いはいないこともなかったこのイベントだけれど、懇親会は料金だけ払ってキャンセルし、一路私は新大阪に向かうための電車に乗った。

 新大阪近くのファミレスで一息をついて、そういえば大阪っぽいものをなんにも食べていないなと今日一日を思い返した。適当な音楽を聴きながらサンドイッチとドリンクバーで時間をやり過ごした。懇親会に出る気だったせいで、とった新幹線は遅い時間だった。せっかく奮発した新幹線に不満は持ちたくなかったから、この時間は有効に使うべきだろう。


 ポメラという文章編集デバイスを鞄から取り出し、私は書きかけの原稿に手をつけ始めた。今年の春から書き始めて、未だに完結をみない、私にしては長編の現在四万文字。

「……」

 さあ、物語も中盤を過ぎるころだ。ここから一気に山場の連続で、読者をはらはらさせる息もつかせぬ展開が連続されることだろう。腕の見せ所というところだ。

「……っぅ」

 しかしどう表現をしていくべきだろうか、おそらくあんまり奇をてらった表現はするべきじゃない。分かりやすい語彙を繋げて、時々驚かせるような比喩をするくらいがちょうどいい。

「……っっ……ぅっぅ」

 流石に疲れてくる頃だけれど、これからのイベントも楽しんでいくのなら、やっぱり新刊の一つも出していきたい。頑張らないといけない。頑張らないと。

「……うっ、っっぅ……」

 泣いてない。涙は流していない。

 ちょっと歯を食いしばって、手をキツく結んでいるだけだから。私は大丈夫。

 大丈夫だから。

 ファミレスは東京と同じように、余計なお世話もなくひたすら回転率と客の満足度を天秤にかけていた。冷房の季節は、大阪ではまだまだ続くのだろうな、そんなことを頭の片隅で考えていた。

 深夜バスに乗ってからずっと、膝が痛くてそこに手を置いていた。着替えてはいたショートパンツは、花火大会の後に喰われた蚊の遺物である、エアーズロックを露出させている。

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