間が悪い男


 七月、適当に大学のテストをこなしたらすぐに夏休みはやって来た。夜中に試験勉強をしていると、ふと受験期に訪れた突発的な虚脱感を思い出した。十二月の終わり頃、ご飯もまともに食べられなくなった私に、両親は精神力が足りていないと厳しい言葉を投げかけた。塾の授業中、全部が嫌になった私に住所と電話番号を渡したミッコは、冬の日の神様みたいだった。

 もうあんな風になることもないんだろうな、なんて微笑を浮かべながら試験を片付け、夏休みのアルバイトに精を出した。夏休み限定で応募した配送助手の仕事で、これがウマの合うドライバーさんといっしょだったから毎日楽しく仕事ができた。


 といった八月のある日、予定もなく、かつミッコも塾のバイトで遅くまで帰ってこないという暇を私は貪っていた。大学の友達、知り合いといっても気軽に遊びに誘うような仲の人間はいなかったし、ただなんとなく冷房の中、本でも読んですごそうかと思っていた。

「もしもし、今日暇? よかったら花火でも見に行かないか?」

 ミヤザキからこんな電話が来るまでは。


 花火大会といっても、隅田川でやるような大規模なものではなかった。そうはいっても人混みは発生していたし、会場近くの駅前で待ち合わせていても、すぐにミヤザキを見つけることはできなかった。

「やあ」

「うわっ、びっくりした」

 神出鬼没に現れた細い男は、海辺の街でもいつものような無表情だった。

「急なのによく来てくれたね」

「ああ、暇だったからね。それに、たまにはいいんじゃないかなって思って」

 大学の同級生と夏祭り。いい響きじゃないかと自分でも思う。特に一緒にいるのが苦痛な関係でもなかったし、なにより断る理由がどこにもなかった。

「花火が上がるまではそれなりに時間があるから、出店とか回ろうか」

「任せるよ」

 夏の私は、だいたいショートパンツをはいている。そりゃ彼氏と出かけるとか、そういうことがあれば多少のおしゃれはするのだけれど、夏に着るものが比較的クローゼットに少ないのは確かだった。

 だからこの日もショートパンツだったし、海辺といっても会場の公園も良く整備されていて蚊も少なかった。

「こういうお祭りって、セリノはよく行ってたの?」

「うーん、まあ年に一回くらいかな」

 彼氏に連れられて隅田川の花火大会に行ったことがあるけれど、あれは場所もとれなかったし人も多すぎたしで、あまりいい思い出じゃない。

「じゃあいつも食べるものとかあるの?」

「まあ……わたあめは食べるよね。うん、あとリンゴ飴と……わたあめ」

「わたあめがとにかく食べたくて、できればリンゴ飴もな」

「そういうことです」


 夕方の祭り囃子のせいだろうか、私達の間にはいつもより笑いが多かった。学校の食堂で話しているのとは訳が違い、人目があるのにそれを気にしなくて済むような空気が、この海街には満ちていた。

 わたあめを食べながら歩いていると、途端世界の手触りが柔らかくなったような気がした。私達は射的で案の定お金をむしり取られ、輪投げではOBしすぎた輪が屋台の隙間に消え失せたり、くじ引きで手に入れた手持ち花火をお互いに向けあって大会よりも先に火花をおっぱじめたりしていた。

 幸せだった。久しぶりに心の底から笑っていたし、彼があんまりにもはしゃぐものだから余計に楽しかった。


「あー! 楽しいっ!」

 最近の悩みなんか色々吹き飛ばしてくれるほど、夏の祭りの力にほだされている。身体も火照って浜辺近くのベンチに私達は腰掛けていた。

「こんなに笑ったのは久しぶりだなぁ」

 しみじみ、おじいちゃんみたいな調子でミヤザキは言った。私はそんな彼の横顔を見て、暖かい感情がわき上がってくるのを感じた。もう無くなっていたと思っていたアイスクリームが、よく見ると冷凍庫の隅に一つだけ残っていたときと同じ感情だった。

「楽しんでくれた? なら良かったよ。最近のセリノ、なんか落ち込んでいるみたいだったから」

 私達の眼前に広がる浜辺には、ビニールシートの上に乗ったシンドバットたちがあぐらをかいている。今か今かと花火が上がるのを待ちわびて、轟音でお腹が揺れるのを期待しているようだった。私ももちろんその口で、次第に首が上がって視線を空に向けてしまっているのだけれど。


「なあ……セリノ……」

 心が躍っていた。たかが花火にこんな気持ちにさせられるのも癪だったけれど、非日常のシンボルとして今日の一日を盛り上げてくれたことも確かだった。こうやって、打ち上がる前に花火というものは私たちに火を灯していく。

 ふと気がつくと、私の足にはいつの間にか蚊に喰われた赤が、申し訳なさそうに顔を覗かせていた。今まで気がつかなかったくらいのものなのに、存在を知ると途端に痒みを覚えてしまうのだから不思議だった。ミヤザキはなにかを言おうとしているけれど、大した話じゃないだろうと私はそこに手を伸ばそうとした。



「僕と付き合ってみないか」

 爆裂音。間近で広がった大輪の火の輪に周りの群衆は感嘆の声を咲かせた。



 びっくりするほど間が悪い男だった。



「おお~」

 私もそれに続いて声をあげた。伸ばしかけた手を止めたせいで、痒みに目の端が歪んでいく。それでも腹の底にズドンと来る振動が心地よくて、足をブラブラとはしゃいでみた。

「……」

 一発、二発と順に上がっていく花火に私達の沈黙は守られていく。一瞬だけ彼の横顔を目で追ったけれど、彼もまた花火の方を見上げて笑顔を保っていた。さっきの言葉はなかったことにして、花火がかき消したことにして、私たちは夏を満喫した。

 私がベンチに追いた手のすぐ横に彼の細い指があって、どことなく体温が伝わってくるような気がした。


 私は手を自分の膝の上に置き直した。


「じゃあな」

「うん、バイバイ」

 小さく手を振り合って、私達はターミナル駅で別々の路線に向かって歩き出した。彼は花火の会場からここに来るまでの車内、道で一切あのことについては喋らなかった。いつもより挙動がオーバーだったりしたけれど、私はそれについては言及せず、ひたすら花火やその前にあった出店でのことを思い出して話題にあげた。

 彼の勇気はもう一度振るわれることなく、私はそれをいいことに最低な踏みにじり方をした。

 狛江で降りた後、泣きそうな顔で私は空を見上げた。

 花火はもう上がることはなくて、ただ夏の大三角形が私のことを見下ろしていた。八月の香りが私を取り巻いて、太ももの痒みに爪を突き立てる衝動を抑えられないでいた。



 彼が私に告白したとき、思ったことは「ないな」という答えだった。本当に申し訳ないけれど、たぶん私は彼のことを一生そういう目で見られないと思う。

 きっと彼は私と恋人になれたら、すごく私に気を遣い幸せにしてくれようとするのだろう。彼女がいたことはあると言っていたけれど、明らかに女性慣れしていない様子を見ると、実質初めての彼女として愛情を注いでくれるに違いない。きっと楽しい瞬間もたくさんくれることだろうと思う。

 しかし、私があの提案にゴーサインを出すことは、どう考えてもありえないと確信していた。

 おそらく私が恋人に求めるものは、幸せというものではないのだと思う。そりゃもちろん、いっしょにいて楽しかったり話題があったりすることは大切だ。ただ、それが本質であるなら、私が欲しているのは単なる友達ということになってしまう。

 私が男に求めているものはもっと理不尽な、どうしようもない暴力性なのだ。

 それは、肉体的な暴力を振るって欲しいということではない。むしろ痛いのは嫌なのだけれど、日常的な会話の中に私を威圧したり、言うことを聞かせたいという支配欲を男の口調から見いだすと、私は妙な興奮を得ることがある。否が応でも従わなければならないという、男から絶対的ななにかを見いだすような感覚、私が恋人に求めるのはそんな暴力性だ。そして彼にはその強引さが欠けていた。いっしょにいて楽しくはあるが、刺激がないという不能感が著しいのだ。

 こんな判断で恋人を選んでいたら絶対に幸せにはなれないだろう。分かっている。私のやるべきことは、今この瞬間にミヤザキに電話をして告白をしかえすということなのだと思う。そうでもなければ、彼は私から少しずつ距離をとっていってしまうか、あるいは一気に距離をとってしまうかのどちらかだ。気の置けない友人を、私はまた失うことになるのだ。避けるべきだった。手を伸ばすべきだった。

 ただ、思ってしまった以上もう戻れない。

 ミヤザキはつまらない奴なのだ。私に恋愛感情を持っているつまらない奴、そんな男とこれ以上仲良くなってどうする?

 そう、思ってしまったのだ。


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