喰らいつく私



 帰りの新幹線では、呆然となにも手につけることなくただ座っていた。イヤホンをつけて目を瞑っても、隣のサラリーマンが購入する車内販売のアルコールは匂ってくる。別に酔って嘔吐しないのならばなんでもいいけれど、そんなに飲んでどうしたいんだと聞いてみたかった。もちろん聞かなかったけれど。

 高速で過ぎ去っていく風景の向こうに、私は今日唯一私を見つけてくれたあの女の子のことを考えていた。彼女の買ったあの一冊が、少しでもその人生に彩りを与えてくれれば、もう私は小説なんて書かなくてもいいんじゃないかとも思っていた。結局のところ、それは確かめようはないのだけれど、とにかく祈るだけ祈って、それでいいんだと思いたかった。


 もう止めたかった。全部、重い荷物を引きずることも、売れるか売れないかで一喜一憂することも、上手く書けるかと不安になりながら原稿に向かうことも、誰か私を見つけてくれないかと声にならない叫びをあげ続けることも。諦めてしまえば、食いしばる歯を開いてしまえば、今よりずっと楽になれるはずだった。

 堪らなくて、私はミヤザキにメッセージを送った。他愛もない内容だった、とにかく他人から私に向けられた言葉を聞きたかった。私はこの世界にいるんだと確かめたくて、その一心で泣きたい気持ちを堪えていた。


 ミヤザキに送ったメッセージに、返信が着くことはないまま新幹線は走るのを止めた。東京駅に放り出された私は、山手線に乗り、果ては小田急線に乗り換え終電間際の喧噪に取り込まれた。

 邪魔くさそうに私の荷物を見やる人々に俯いて、私は電車の中でじっと暗いスマートフォンの画面を見つめていた。返事はない、返事はない。

 既読の確認はしなかった。なんだか負けたような気がして。

 誰に?

 私は誰と戦っているの?



 やっぱりミヤザキから返事はなかった。



 諦めて目を閉じていたら、思いの外早く狛江にたどり着くことができた。もう見慣れた私の最寄り駅。

 小雨が降り出した東京で、私は夜の灯りに目を細めていた。この期に及んで神様は意地悪で、最終列車の濁流を抜けてなお、その姿は見つからなかった。

 そんなとき、握りしめていた画面に明るさが取り戻された。特に期待もしないままそれを覗くと、案の定ミヤザキからのメッセージは送られてきていなかった。


「イベント行ってたんでしょ? おっつかれ~」



 キャリーケースがけたたましい音をたててキャスターを転がした。小雨に私がどうなろうと知ったことではなく、自宅とは反対方向の道をひた走る。


 こんなことをしてなんになる。

 こんなことをしてなんになる。

 やめたいやめたいやめたいやめたいやめたいやめたいやめたいやめたいやめたいやめたいやめたい。

 こんなことをしてなんになる。



 見えてくるのは見窄らしいアパートメント。まるで洒落ていない灰色の外壁。



「きゃあ!」

 キャリーケースを持ったままそのアパートの階段を駆け上がろうとして、力が足りずに転んでしまった。膝が痛い。どこか擦りむいたかもしれない。

「ううぅぅ……!」

 おおよそ人間ではなさそうなうめき声をあげ、私はキャリーケースを手放して階段をよじのぼる。宿主をなくした水色のキャリーはリズミカルに階段を駆け下りて、地面に激しく身体を打ちつけ雨曝しになった。


 ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ、ミッコ。


「ミッコ!」


 合鍵でこじ開けたドアの向こう、ミッコは姿見で自分の身体を凝視している最中だった。

「うぇ!? アカネ!?」

 戸惑うのも無理はないだろう。おそらく今度の撮影で使うのであろうセーラー服に身を包んでいた彼女は、不意打ちを食らって目を点にしていた。

 その点を目標に、私は最後の力を振り絞って飛び込んだ。

「ちょっと、ええ!?」


「わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 近所迷惑も考えないで泣きわめく私を、最初は戸惑っていた彼女も観念したように抱きしめた。

「……独りで頑張ったね。……疲れたよね」

 唐突にやってくた私に向けて、彼女はそんな優しい言葉をかけてくる。なんにも知らないくせに、私が欲しい言葉は全部彼女が言ってくれる。私は彼女になんにも返せないくせに、こうやって優しさを貪ってしまうのだ。

「まいったな~。片方の靴下、まだ履いてないんだけど……」

 制服姿の女性に抱きついて泣くなんて、これがきっと最後だろうな。彼女のぼやきもよそにおいて、私はしゃくり上げるように泣き続けた。そういえば、今まで付き合ったどの男の前でも、私はこんな風に泣いたことはなかった。泣きそうな顔をしたことさえ、なかったかもしれない。


 そう、私は最初から分かっていたんだ。私が甘えられる相手は酷く限られていて、それができない男と付き合うときはハナから別れることを前提に動いていた。それがどれだけ失礼なことだったのかも自覚しないまま。

 だからといって、ミッコにすがりついて泣くことが、私にとって正しい愛情の形なのかは分からないままだ。これだって、とても歪な関係なのは間違いない。

 こんな風に誰かと正しい関係を結べないまま、自分の欲求のために他人に喰らいつく私は、獣物といってしかるべきだ。



「……夏ももう終わるね」

 小雨の向こうに広がっている街の喧噪に、彼女はなにかを予感したように呟いた。いい加減泣き止む気配を見せた私に、なにか話題でも提供しようというのだろうか。


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