九冊


「えっと、直接会って言いたかったんだけど……」

 嘘。

「うん、仕方ないよ。お互い忙しいし」

 学校で会おうと思えば会えるじゃん、帰りにとかでも。

「ごめんね、他にいい人たくさんいるから、お互い合う人を探そう」

 これ以上いっしょにいる意味が分からなくなった。私が恋人を失うとき、よく言われる言葉の一つだ。大学生になってできた恋人には、だいたいこの言い方で別れを切り出される。誰もが異口同音に言うものだから、もう詳しく話を聞く気もなくなっている。

 大学も三年生になって文系の学部に通っていれば、恋人だってそれなりにできるし別れる。そんなに珍しい話でもないだろう。サークルやゼミ、講義中のふとした出来事で簡単に他人と出会い、くだらない理由をやたら詩的に飾りつけて別れていく。このサイクルに意味があるかなんて考えたことはないけれど、私の上を通り過ぎていった何人かの男にとって、それは重要なことであるらしかった。意味なんてどうでもいいでしょ、なんて言いたくなることもあったけれど、自分から離れていこうとする人間にこれ以上時間と思いをかけることに、それこそ私は意味を感じられなかった。だから別れ話を切り出されたら、ほとんど二つ返事で受け入れるようにしている。その日だってそうだった。大学三年生の春、私が自分の作った小説を同人イベントで売った帰り道に電話が鳴ったのだ。

 狛江駅から降り、電話をし、アフターで誰かと飲んでいたわけでもないからまだ暗くない空に睨まれながら、私は一路自宅を目指した。ミッコは今日撮影があると言っていたから、今彼女の部屋を訪れても無駄だろう。合鍵でドアをこじ開けたところで、彼女の匂いしか部屋に残されていないのなら、やるせないだけだ。

 温もりがあり、そこに匂いが香るから他人といると切なさが消えるのだ。名残だけあっては単に胸が苦しくなるだけなのだ。

 一人暮らしをしているアパートに戻った。両親にいわれて三階の部屋を借りているのだけれど、売れ残った同人誌をキャリーケースに詰めて登るには、その階段は少し急だった。半年前、前回のイベントに出たときには彼氏がこれを持ち上げてくれたけれど、今回はそんな荷物持ちはいない。自分の作品が受け入れられなかった重さを自分の力で持ち上げて、私は自らの巣へと這いつくばった。

「ただいま」

 誰もいないのに声を出して、自分に帰ってきたのだと言い聞かせる。これもサイクル、毎日の。

「つっかれた」

 キャリーケースを急いで開ける。放っておくと何日も放置してしまいそうな気がしたものだから、身体を休める前にさっさと片付ける。オリジナルの小説、くだらない恋愛小説とファンタジー。上橋菜穂子と綿矢りさに影響を受けた私の作品たち。知る限りもっとも安い印刷所で作った片手が埋まるほどの種類の文庫本は、PP加工でお互いに気を遣いながら、ぎっしりと段ボール箱に詰め込まれている。

「めんどくさいから貯金しようかな……」

 お釣りのために用意した五〇〇、一〇〇円硬貨も取り出してため息。これを財布に入れるのも億劫だし、かといってATMに持って行くのも同じようなものだった。

 枕元にあるブタさんに硬貨を入れると、一枚いちまい丁寧に彼は悲鳴を上げた。彼だか彼女だかの確信はもちろんないけれど。

「九冊……」

 ポツリと出てしまった数字は、今日売れた同人誌の数だ。大学二年から始めた同人活動、出たイベントは一年間で四回、今回で五回目だったけれど、二桁の頒布を記録したことは一回もなかった。どんな大きなイベントでも、あるいは小規模のコアなイベントでも。一冊の値段が特別高いわけでもないし、周りから浮くほど安いわけでもない。毎回のように隣のサークルが繁盛していながら、私のところには足を止めてくる人がまったくいないという現象が起こっていた。それでも毎回だれかしらが手にとって私の小説を買い求めてくれるのだから、幸せといえばもちろん幸せな気分になることもあった。

「でも、もうちょっと売れてくれてもいいのにな……」

 なんて思うのは傲慢だ。分かっている。


 私はある程度の片付けを終え、さっさとシャワーを浴びて一日の帳を降ろそうとした。そしてバスタオルと下着類を脱衣所に持って行く途中、食器棚に躓き転んでしまった。たまたま開いていた棚からグラスが一つ落ちた。

 ギャシャン、なんて音がして変な感触が足に。黒いショートパンツから伸びた私の足に、青いグラスの破片がいくつか乗っていた。床に当たった衝撃でこうなったのだろうな、なんてぼんやりそれを眺め、ゆっくりと破片をどかして立ち上がった。トイレのスリッパをはき、大きな破片を新聞紙に乗せ、残った小さな破片は掃除機をかけて処理をした。

 幸いにして足に傷はつかなかった。私は傷ついていないけれど、今日別れた彼氏からもらったグラスは割れてしまった。青く溶かされ形作られた高いグラス。

 けど構わない。私は傷ついていないから。


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