8.見てはいけない
友人のパルトニーが経験した話。
彼と同じ寮に、同い年のソーントンという気弱な生徒がいた。
小柄で野暮ったい眼鏡をかけて、「小心者」という看板を背負っているごとき猫背で。教師から何度「背筋を伸ばそう」と注意されても、次の瞬間には空気が抜けたように背が丸まってしまう……そんな少年だった。
けれどパルトニーには、何かと呆れられたり馬鹿にされたりしがちな学友の、目立たぬ美点も見えていた。
ソーントンは誰かに傷つけられても、傷つけ返さない。
嘲笑されても、自分は誰の悪口も言わない。
木陰で読書を楽しみ、小鳥の姿に微笑んで、ひろった
そんな彼を見ていると、
『ひとりでも楽しく微笑んで過ごすことができるのは、妖精が遊んでくれているからなのよ』
パルトニーの弟が赤ん坊の頃、ベビーベッドの中で機嫌よさげに笑っているのを見た祖母が、そう言っていたのを思い出す。
ソーントンの平和な様子は、そんな微笑ましさを感じさせてくれたから。
だが、悪意をもって見る者は、どこにでもいて。
「情けない奴。言い返す度胸も知恵もないのさ、あいつは」
別の寮の同学年のリーダー格であるミラーと、その仲間たちは、たびたびそう言ってせせら笑った。
主張せねば伝わらない社会において、もっともな意見ではある。
けれど侮蔑目的で吐かれた言葉などには同意する気になれない。
パルトニーはソーントンを大切な寮の仲間だと思っていた。
彼の控えめな優しさは素晴らしい長所だし、彼自身がそのことに気づく日が来れば、きっと猫背も吹き飛ばす。自信をもって胸を張り、
――そう、楽観していたのだ。
まさか彼が、十五歳のその年に、亡くなってしまうとは思いもせずに。
ソーントンは晩秋の雨の午後に姿を消し、捜索の末、翌朝、学校の敷地内も流れる川の下流で見つかった。
死因は溺死。
遺書などはなく、自殺か事件か、確たる理由はわからぬまま事故として処理された。
パルトニーには、ソーントンが自死を選んだとは思えなかった。
いつものように静かに控えめに――変わったところなど、なかった。……気づいてやれなかっただけかもしれないが。
最近はミラーたちの嫌がらせが度を超すこともあったし、その都度パルトニーたち同寮の仲間で庇ってはいたけれど、ソーントンの自尊心は置き去りだった気もする。
自分を含め、知らぬ間に彼の心を抉っていたとしても、他者からその傷は見えないし、深さも測れない。
思うところは多々あったが、ネガティヴな想像を重ねてもソーントンは戻らない。
パルトニーは努めて明るく考えることにした。
ソーントンはすでに神の御手の中で、安らいでいる。
いや、でも。
もしかするとその前に、妖精に会いに『冒険旅行』をしているかもしれない。
学校を卒業したら大抵みんな、大学入学まで一年ほどのギャップイヤーを利用する。旅行したりボランティアや資格取得に励んだりして、さまざまな経験を積む期間だ。
ソーントンだって、楽しい経験をもっと増やしたかったはずだから。
自然を優しく見つめていたあの目で、精霊たちの世界を見学して回っているかもしれない。
(妖精には会えたかい? ソーントン)
心で呼びかけ灰色の空を見上げれば、冷えた大気に息が白く溶ける。
(妖精って、本当に絵本に載ってるみたいな姿をしてるのかな? ぼくもいつか見れるだろうか。……充分に楽しんだら、ちゃんと天国に行くんだぞ)
感傷的すぎる自覚は、あったけれど。
凍てつきそうな川の中で亡くなった友人の魂に、せめてあたたかな想いが届けばいいと。パルトニーは心から祈った。
その数日後、強風が吹き荒れた。
森の木々は殴られたように
夜にはさらに勢いを増した風が、近く遠く、悲鳴や嬌声じみた音をたてて、就寝時間を迎えた生徒たちの安眠を妨害していた。
それでも、精力的に活動する少年たちのこと。深夜にはその殆どが眠りに落ちていたのだが。
パルトニーは、ぱちりと目をさましていた。
寝入り
夢の中で彼は、すでに懐かしく感じる声を聞いた。
ソーントンの声だ。
けれど聞き慣れた小さな声ではなく、力強い声ではっきりと
『見たらだめだよ』
何を? と訊き返した自分の声で、目がさめたのだった。
半端な時間に起きてしまい、夢で聞いた声と風の音が気になり眠れない。
諦めて本でも読もうかとデスクランプに手を伸ばし、ふと、先ほどから強風に打たれ続けている窓が気になった。
ガタガタと、ひっきりなしに音をたて。
まるで誰かが外から開けようとしてるみたいに。
部屋は二階だ、あり得ない。
けれど――
いつもはひらきっぱなしのカーテンを、今夜はたまたまきっちり閉めている。
だから、もしも布の向こうに誰かがいたとしても、わからない。
カーテンの隙間から、何かがこちらを覗こうとしていても――
「バカバカしい」
パルトニーはわざと声に出して言った。
嵐に怯えるチビの弟じゃあるまいし、風に不穏な想像をするなんて。
気になるなら、確かめればいいのだ。誰かも何かもいないことを。
パルトニーは窓辺に向かい、カーテンを開けようとして――
ソーントンの声を、思い出した。
『見たらだめだよ』
ただの夢。なんのことやらわからぬ言葉。
でもなぜだかパルトニーは、(見ないでおこう)と考えを変えた。
今、カーテンを開けてはいけない。
理屈を退け、心優しかった友人がもたらした直感に従い、寝床に戻った。
その後は不思議なほど風の音も気にならず、夢も見ぬ眠りについた。
翌朝パルトニーは、ミラーたちが大怪我をして入院したことを知った。
素行の悪い彼らは、「嵐のほうがかえって目立たない」と深夜こっそり寮を抜け出し、校外で知り合った女の子たちに会いに行こうとしたらしい。
だが行く手を何かに遮られた。
それに彼らは追い回され、突かれ、斬りつけられて、逃げ惑ううち川に落ち、
――彼らが見た、何かとは?
ある者は「煙が笑い声を上げていた」と言い、別の者は「たくさんの何かに取り囲まれた」と言い、そしてミラーは「あれは腐った肉と骨と、死んだ馬の群れだった!」そう言ったらしい。
ひとつだけ、同じ証言を得たのは、
「ソーントンだ。ソーントンが俺たちに復讐しようと、悪霊を連れてきたんだ!」
勝手に寮を抜け出して、勝手に何かに震え上がって、入院するはめになったあげく、故人を侮辱する。
ミラーたちは、かつて自分たちがソーントンにしたように、「情けない奴らだ」と嘲笑される側になった。
中には「ソーントンの復讐」を信じる生徒もいたけれど。
パルトニーはもちろん、そんなことは信じなかった。
ミラーたちは罪悪感があったから、あの嵐の夜にソーントンを「見た」のだろう。
けれど馬の群れという言葉は、信じていいのかもしれないとも思った。
祖母はこうも言っていたから。
『嵐の夜は、『
「ソーントンは、本当に妖精に会えたんじゃないかな。でもぼくが『いつか見れるだろうか』なんて言ったから、『
そう言って笑ったパルトニーは、ソーントンの命日ごとに、川の岸辺に花を手向け続けた。
卒業するまで、ずっと。
英国寄宿学校余話 enaga @nekohige
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