第7話 この子、うちのやから

 何度も打ち間違えて、何度も書きなおして、何度も消して。そうやってなんとか書き上げた文章を何度か送って、それでようやく今日の顛末を、あたしは沙羅に報告することが出来た。沙羅はなんて言うだろう。また中二病は云々って罵られるんだろうか。スマホを凝視しながら考えていると、不意にスマホが長めに震えた。通話だ。


「はい、もしもし」

『もしもし、翡翠? うち』

「うん。あ、あのね」

『ようは四条に全部話したってわけやな。そんで四条はそれを何故か信じて、あんたは嬉しかったと』


 一気に言われて、あたしは一瞬口ごもる。何故か頬が熱いので、手の甲で冷やしながら頷いた。


「あ……うん……」

『……ふうん』

「? 沙羅? 何?」


 いつも通りといえばいつも通りな冷ややかな返事に、でもほんの少しだけ何かが違っているような気がして声をかける。


『うち、あしたそっち行くわ。朝』

「――へ?」

『学校、一緒行こ。迎えに行く。ほなね』


 言うなり、ぷつっと軽い音を立てて通話が切れてしまった。沙羅が近くに住んでた中学時代はともかく、高校入ってからは、一緒に登校なんてしてないのに。なんだろ、突然。


「……ま、いっか」



 ――翌朝。

 宣言通り沙羅はあたしの家の前に、あたしの登校時間より前に来た。


「……どういうこと?」

「学校、行こ」

「いや、行くけどさ。何で」

「別に。行くで」


 言うなり、あたしの手首を掴んで歩き出した。いつもより、ずっと歩く速度が早い。


 何これどういうこと?


「沙羅!? なんかちょっと変よ!?」

「普通や」


 嘘言うなー! 心の中で叫んでしまう。おかしい。絶対、おかしい。いつもと立場が逆転してるんじゃないかと思うくらい、おかしい。人のことを変だおかしいというのは沙羅の役目であって、あたしじゃないはずなのに!


 けれど沙羅はそれ以上何も言わなかった。無言でぐいぐい歩いて行く。腕を引っ張られながらだから、ただただあたしは従って進むしかない。バスに乗っている間さえ、沙羅は無言だった。降りたら降りたで、今度はまたぐんぐんすごい速さで歩いて行く。半ば小走りになりながら学校までたどり着くと、沙羅はそのまま一年五組の教室へと足を向けた。


「四条、おる?」

「近藤さん?」


 いつもらしからぬ低い声で問いかけた沙羅に、ひょこっと、いつも通りのふわふわした表情で四条が顔を出した。


「どないしたん? あ、おはよ。阿野さん」

「お……おは」

「今日はあんたに言わなあかんことあって来たん」


 あたしが言葉を言い切る前に、沙羅が声をかぶせてきた。そして沙羅は、ぐいっとあたしの腕を引っ張った。



「四条。この子、うちのやから」



 ――は……い?


 腕を掴まれたまま、あたしは硬直する。目の前の四条も、笑顔のまま固まっていた。


 ……今、なんと?



「この子、うちのやから。手、出さんといて」



 ……なんと?


 状況を全く呑み込めないあたしと四条の感情を置き去りにして、沙羅はそのまま、ぐんぐんと歩き始めた。ついていくしかない。固まったままの四条が遠ざかっていく。


 脳内ひとりパニックのあたしは、自分の教室に入ってからようやく声を振り絞ることが出来た。


「さ、沙羅!」


 手を振りほどく。沙羅が顔をしかめた。


「どういう……」

「説明するから。鞄貸し」

「なん……」

「一時間目、サボるで。ええね」


 いいも悪いもない。沙羅はあたしの鞄をひったくると、自分の机とあたしの机の上にそれぞれ鞄を置きに行った。そのまま、すぐ戻ってくる。


「うちらちょいサボるから、テキトーに言い訳しといて」


 またあたしを引っ張って、外へ出て行こうとする。間際に、そのへんにいたクラスメイトにそんな無茶ぶりをする。こういうことを言っても、まーた沙羅はー、で終わるのが沙羅が沙羅たる所以だけど、でも、知ってる。普通じゃない。


 連れられて歩きながら、あたしはきゅっと唇を結んだ。


 判った。ちゃんと、沙羅の話を聞こう。



 沙羅に連れてこられたのは、二階の隅の空き教室、の脇にある非常階段だった。なるほど、確かにここなら人気はない。


 階段に腰を下ろした沙羅を見て、あたしはぐっと腰に手を当てた。


「どういうことか、説明して」

「それはこっちの台詞だ」


 ふっ、と短い苦笑とともに、いつもの響きじゃない低い声で言われる。


「……沙羅?」

「まぁ、私も軽率ではあったのかもしれないがな。しかし、不貞を働くつもりか」

「さ……」


 沙羅、と呼ぼうとした。でも、声は出なかった。だってそれは、その口調は、決して沙羅のものじゃなかった。


「ふてい……ってなにを、ばかな」

「馬鹿な、もこっちの台詞だ。夫が見ていないからと、ずいぶん好き勝手やってるようだ」


 ――夫――?


 唐突な言葉に、頭が殴られたみたいにじんじんした。階段に座る沙羅は、いつも通りのショート・ヘアに、いつも通りの制服姿なのに、その表情はいつもと違った。


 口の端っこだけちょっと持ち上げて、睨み上げるように笑う顔。


 沙羅はそんな顔しない。しないけど。


 ――あたしは、その顔に見覚えがある。顔じゃない、表情に、だ。


 彼はいつだって、そんなふうに笑っていた気がする――


 ぞくっと、背中を何かが這う感触がした。体中の血液が、一気に落ちていく感覚。まさか。そんな言葉と、でも、という自分の声が入り交じる。


 沙羅が薄く唇を開いた。まるで催眠術にでもかかったように、あたしも同じように唇を開いていた。言葉が、溢れる。



『――ワスカル』



 あたしと沙羅と。二人の声が重なった。反射的に、あたしは口を押さえていた。だって、だってそんな。あたしは今まで言ってない。言ったことなんてない。ないはずだ、沙羅にだって。


 なのにどうしてその名前を知っているんだろう。それは、彼の名前だ。


 イネスが、愛した人の――


 沙羅がすっと立ち上がった。そっと、手を頬に添えてくる。


「何びびってるん?」

「さ……沙羅?」

「うん。そやで?」


 顔が近い。


「悪ふざけやめ――」

「悪ふざけ? 何が」

「だ、だって、それは」

「あんたの想像通りや」


 囁くように、沙羅が耳元に顔を近づけて笑った。


「男が男に生まれ変わるなんて、誰も保証してへんやろ。――なぁ、イネス?」


 イネス。


 かつての名前で呼ばれて、あたしはもう何も言えなかった。ただ、呆然と沙羅が身を離し、笑う姿を見上げるしかできなかった。


 頭が痛い。がんがんと音がするくらい痛い。でも、なんとなく直感で判った。嘘じゃない。沙羅は、出まかせを言っているわけじゃない。


「ほんまはね、言うつもりなんてあらへんかったんよ。うちはうちやし。ワスカルとイネスであった頃のことはね、ええ思い出で片付けるべきや思てたん。そもそも今回の人生じゃうち、女やで。あんたと結婚なんかもでけへんし、なぁんも取り柄のないふつーの子として生まれてしもたしね。あんたがいくらぎゃーおぎゃーお騒いだって、そっかそっかって流しとったら、それでも傍におれる。あんたがこっち来て、運命や思たし、まぁ、それを自ら壊す必要もあらへんやろってね」


 まるで何かのタガが外れたかのように、沙羅はぐっと腕を伸ばしてしゃべり続ける。どこか、晴れやかな笑顔で。


「でもま、それでもやっぱ嫉妬はするわ」


 ふふ、と沙羅は低く笑った。


「イネスは私のものだ。そして翡翠はイネスなんだろ?」

「あ……」


 沙羅なのか。ワスカルなのか。判らなくなって呼びかけも出来ない。



「――渡さない」



 宣言に、指先がピリピリと痺れた。頭が真っ白になる。何が起きているのか、考えられない。沙羅が――ワスカルが――階段を降り始めた。無機質なリノリウムに響くキュキュっと言う足音は、間違いなく沙羅のものだ。だってあそこには、リノリウムも上履きも存在しなかった。


 歩き出した沙羅が、背中越しに声を発してくる。


「行くで」

「あ……あの……」

「ああ、それから。もう近づいたあかんで」

「なに、が」


 あたしの上ずった声に、沙羅が振り返った。ワスカルが良くしていたあの表情で、笑った。


「四条一真に、だ」



 ――四条に。近づいちゃ、ダメって?

 せっかく友達になれたのに? せっかく色々話せるのに? せっかく――


 せっかく、信じてくれる人を見つけたのに?


 ぐるぐるぐるぐる回るだけの思考が答えを見つけ出すより先に、沙羅が低く冷たく告げた。


「イネス」


 びくっと、体が反射的に震える。


 ああ、そうだ。彼は、ワスカルは、こんなふうに強い口調で、いつも私を導いていた――


「私の言うことが、きけないのか?」

「ち、違います!」


 気づくと、私はあの頃の口調で声を上げていた。熱に浮かされたみたいに。


「わ、私は、貴方に従います……ワス、カル……」


 沙羅――ううん、ワスカルだった人が、笑った。


「それで良い」

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