第7話 この子、うちのやから
何度も打ち間違えて、何度も書きなおして、何度も消して。そうやってなんとか書き上げた文章を何度か送って、それでようやく今日の顛末を、あたしは沙羅に報告することが出来た。沙羅はなんて言うだろう。また中二病は云々って罵られるんだろうか。スマホを凝視しながら考えていると、不意にスマホが長めに震えた。通話だ。
「はい、もしもし」
『もしもし、翡翠? うち』
「うん。あ、あのね」
『ようは四条に全部話したってわけやな。そんで四条はそれを何故か信じて、あんたは嬉しかったと』
一気に言われて、あたしは一瞬口ごもる。何故か頬が熱いので、手の甲で冷やしながら頷いた。
「あ……うん……」
『……ふうん』
「? 沙羅? 何?」
いつも通りといえばいつも通りな冷ややかな返事に、でもほんの少しだけ何かが違っているような気がして声をかける。
『うち、あしたそっち行くわ。朝』
「――へ?」
『学校、一緒行こ。迎えに行く。ほなね』
言うなり、ぷつっと軽い音を立てて通話が切れてしまった。沙羅が近くに住んでた中学時代はともかく、高校入ってからは、一緒に登校なんてしてないのに。なんだろ、突然。
「……ま、いっか」
◇
――翌朝。
宣言通り沙羅はあたしの家の前に、あたしの登校時間より前に来た。
「……どういうこと?」
「学校、行こ」
「いや、行くけどさ。何で」
「別に。行くで」
言うなり、あたしの手首を掴んで歩き出した。いつもより、ずっと歩く速度が早い。
何これどういうこと?
「沙羅!? なんかちょっと変よ!?」
「普通や」
嘘言うなー! 心の中で叫んでしまう。おかしい。絶対、おかしい。いつもと立場が逆転してるんじゃないかと思うくらい、おかしい。人のことを変だおかしいというのは沙羅の役目であって、あたしじゃないはずなのに!
けれど沙羅はそれ以上何も言わなかった。無言でぐいぐい歩いて行く。腕を引っ張られながらだから、ただただあたしは従って進むしかない。バスに乗っている間さえ、沙羅は無言だった。降りたら降りたで、今度はまたぐんぐんすごい速さで歩いて行く。半ば小走りになりながら学校までたどり着くと、沙羅はそのまま一年五組の教室へと足を向けた。
「四条、おる?」
「近藤さん?」
いつもらしからぬ低い声で問いかけた沙羅に、ひょこっと、いつも通りのふわふわした表情で四条が顔を出した。
「どないしたん? あ、おはよ。阿野さん」
「お……おは」
「今日はあんたに言わなあかんことあって来たん」
あたしが言葉を言い切る前に、沙羅が声をかぶせてきた。そして沙羅は、ぐいっとあたしの腕を引っ張った。
「四条。この子、うちのやから」
――は……い?
腕を掴まれたまま、あたしは硬直する。目の前の四条も、笑顔のまま固まっていた。
……今、なんと?
「この子、うちのやから。手、出さんといて」
……なんと?
状況を全く呑み込めないあたしと四条の感情を置き去りにして、沙羅はそのまま、ぐんぐんと歩き始めた。ついていくしかない。固まったままの四条が遠ざかっていく。
脳内ひとりパニックのあたしは、自分の教室に入ってからようやく声を振り絞ることが出来た。
「さ、沙羅!」
手を振りほどく。沙羅が顔をしかめた。
「どういう……」
「説明するから。鞄貸し」
「なん……」
「一時間目、サボるで。ええね」
いいも悪いもない。沙羅はあたしの鞄をひったくると、自分の机とあたしの机の上にそれぞれ鞄を置きに行った。そのまま、すぐ戻ってくる。
「うちらちょいサボるから、テキトーに言い訳しといて」
またあたしを引っ張って、外へ出て行こうとする。間際に、そのへんにいたクラスメイトにそんな無茶ぶりをする。こういうことを言っても、まーた沙羅はー、で終わるのが沙羅が沙羅たる所以だけど、でも、知ってる。普通じゃない。
連れられて歩きながら、あたしはきゅっと唇を結んだ。
判った。ちゃんと、沙羅の話を聞こう。
◇
沙羅に連れてこられたのは、二階の隅の空き教室、の脇にある非常階段だった。なるほど、確かにここなら人気はない。
階段に腰を下ろした沙羅を見て、あたしはぐっと腰に手を当てた。
「どういうことか、説明して」
「それはこっちの台詞だ」
ふっ、と短い苦笑とともに、いつもの響きじゃない低い声で言われる。
「……沙羅?」
「まぁ、私も軽率ではあったのかもしれないがな。しかし、不貞を働くつもりか」
「さ……」
沙羅、と呼ぼうとした。でも、声は出なかった。だってそれは、その口調は、決して沙羅のものじゃなかった。
「ふてい……ってなにを、ばかな」
「馬鹿な、もこっちの台詞だ。夫が見ていないからと、ずいぶん好き勝手やってるようだ」
――夫――?
唐突な言葉に、頭が殴られたみたいにじんじんした。階段に座る沙羅は、いつも通りのショート・ヘアに、いつも通りの制服姿なのに、その表情はいつもと違った。
口の端っこだけちょっと持ち上げて、睨み上げるように笑う顔。
沙羅はそんな顔しない。しないけど。
――あたしは、その顔に見覚えがある。顔じゃない、表情に、だ。
彼はいつだって、そんなふうに笑っていた気がする――
ぞくっと、背中を何かが這う感触がした。体中の血液が、一気に落ちていく感覚。まさか。そんな言葉と、でも、という自分の声が入り交じる。
沙羅が薄く唇を開いた。まるで催眠術にでもかかったように、あたしも同じように唇を開いていた。言葉が、溢れる。
『――ワスカル』
あたしと沙羅と。二人の声が重なった。反射的に、あたしは口を押さえていた。だって、だってそんな。あたしは今まで言ってない。言ったことなんてない。ないはずだ、沙羅にだって。
なのにどうしてその名前を知っているんだろう。それは、彼の名前だ。
イネスが、愛した人の――
沙羅がすっと立ち上がった。そっと、手を頬に添えてくる。
「何びびってるん?」
「さ……沙羅?」
「うん。そやで?」
顔が近い。
「悪ふざけやめ――」
「悪ふざけ? 何が」
「だ、だって、それは」
「あんたの想像通りや」
囁くように、沙羅が耳元に顔を近づけて笑った。
「男が男に生まれ変わるなんて、誰も保証してへんやろ。――なぁ、イネス?」
イネス。
かつての名前で呼ばれて、あたしはもう何も言えなかった。ただ、呆然と沙羅が身を離し、笑う姿を見上げるしかできなかった。
頭が痛い。がんがんと音がするくらい痛い。でも、なんとなく直感で判った。嘘じゃない。沙羅は、出まかせを言っているわけじゃない。
「ほんまはね、言うつもりなんてあらへんかったんよ。うちはうちやし。ワスカルとイネスであった頃のことはね、ええ思い出で片付けるべきや思てたん。そもそも今回の人生じゃうち、女やで。あんたと結婚なんかもでけへんし、なぁんも取り柄のないふつーの子として生まれてしもたしね。あんたがいくらぎゃーおぎゃーお騒いだって、そっかそっかって流しとったら、それでも傍におれる。あんたがこっち来て、運命や思たし、まぁ、それを自ら壊す必要もあらへんやろってね」
まるで何かのタガが外れたかのように、沙羅はぐっと腕を伸ばしてしゃべり続ける。どこか、晴れやかな笑顔で。
「でもま、それでもやっぱ嫉妬はするわ」
ふふ、と沙羅は低く笑った。
「イネスは私のものだ。そして翡翠はイネスなんだろ?」
「あ……」
沙羅なのか。ワスカルなのか。判らなくなって呼びかけも出来ない。
「――渡さない」
宣言に、指先がピリピリと痺れた。頭が真っ白になる。何が起きているのか、考えられない。沙羅が――ワスカルが――階段を降り始めた。無機質なリノリウムに響くキュキュっと言う足音は、間違いなく沙羅のものだ。だってあそこには、リノリウムも上履きも存在しなかった。
歩き出した沙羅が、背中越しに声を発してくる。
「行くで」
「あ……あの……」
「ああ、それから。もう近づいたあかんで」
「なに、が」
あたしの上ずった声に、沙羅が振り返った。ワスカルが良くしていたあの表情で、笑った。
「四条一真に、だ」
――四条に。近づいちゃ、ダメって?
せっかく友達になれたのに? せっかく色々話せるのに? せっかく――
せっかく、信じてくれる人を見つけたのに?
ぐるぐるぐるぐる回るだけの思考が答えを見つけ出すより先に、沙羅が低く冷たく告げた。
「イネス」
びくっと、体が反射的に震える。
ああ、そうだ。彼は、ワスカルは、こんなふうに強い口調で、いつも私を導いていた――
「私の言うことが、きけないのか?」
「ち、違います!」
気づくと、私はあの頃の口調で声を上げていた。熱に浮かされたみたいに。
「わ、私は、貴方に従います……ワス、カル……」
沙羅――ううん、ワスカルだった人が、笑った。
「それで良い」
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