第3話 マンコ・カパックよ!

 朝である。学校の、朝である。朝礼が始まる前の時間というのはざわめいているもんである。つまり。他の組に出入りしようが、変な顔をされることも少ない時間ということだ。


 昨日、彼が告げた五組の教室へ足を向ける。勢いに任せて扉を開けると、なかなか素敵な音がした。景気が良くていいじゃないか。ざっと教室の中に視線を滑らす。


 いた。四条一真。教室の一番奥、窓際の席の後ろから二番目。特等席に座って昨日と同じ文庫本を読んでいた。なるほど、影が薄い。


「四条クン!」


 声を張り上げる。四条一真は本から顔を上げると、ぎょっとした表情を浮かべた。


「え、あ。阿野さん……?」


 驚く必要はなかろう。あたしは昨日告げたはずだ。話し相手になりましょう、と。


 そしてこれは、その第一歩なのだ!


 つかつかつかっ、と彼の席に歩み寄る。何故か自然に、傍にいた他の生徒達は道を開けてくれた。ありがたい。四条一真の前で足を止める。あたしは、口を開いた。


「ジャジャンッ。第一問」

「……え?」

「タワ……インカ帝国の初代王の名前は!」

「マ……」


 言いかけて、四条が口を閉ざした。ひくっ、と頬がひきつっている。


 な、なんたる無様……! インカ帝国史を読むような人間が判らない問題なはずがないのに!


 カッと頭に血が昇る。勢いのまま、あたしは叫んでいた。


「マンコ・カパックよ!」


 ぶっ――と誰かが後ろで吹き出す声が聞こえた。無視。

 何故か顔を赤くして硬直した四条に指を突きつける。


「ジャジャンッ。第二問! 太陽に仕える美しい女性たちをなんという!?」

「え……アクリャ……?」

「そう、アクリャよ! 太陽の処女!」


 それぞれのアイユ――集落で最も美しいとされる者たちの集まりだ。ちなみにイネスは選ばれなかったわけじゃない。辞退しただけだ。


「なかなかいいんじゃない? じゃあジャジャンッ。第三問」

「え……ちょっと、えと、どういう……」

「そうね、じゃあちょっと踏み込んでみましょ。ウロス島のあったチチカカ湖周辺をスーユで分けるならどこにあたるでしょう!」


 四条が一瞬固まった。さすがに少々難問か。スーユ――つまり、タワンティン・スーユのどの州に属していたか、ということだが常人ならそもそも四つのスーユを答えられない可能性が高い。だが四条は眼鏡の奥の目をいっぱいに見開きながら、ぴっと人差し指を突き立てた。


「コ、コリャ・スーユ!」

「正解!」


 いいわ。なかなか、なかなかいいじゃない……!


「なら、トウモロコシで作ったビールの名前は!?」

「簡単! チチャや! 今も飲めるんよね、あの辺り!」

「そうなのよー! 行きたいわっ! あ、あとじゃあトトラで出来た船――」

「バルサやろ!? 乗ってみたいと思って――」

「えーかげんにせえ」


 スパンッ! と後ろから叩かれてあたしは言葉を失い、四条は言葉を呑み込んだ。痛みは殆ど無いとはいえ、衝撃は結構ある。後頭部をさすりながら振り返ると、案の定沙羅がノートを片手に苦い顔をして立っていた。彼女には昨日のことはひと通りメールで伝えてある。だからまぁ、五組まで来ることは判らないでもない。だが。何故叩かれなきゃいけないのか。


「何すんのよ」

「何してんねや、って言いたいのはこっち。朝っぱらから他人様の教室でなに二人して喚いとんの。見てみい、みんなドン引きしとるやん」


 む。言われてみてみるとたしかに、何故かあたしと四条の周りは皆の机から距離があるような気がする。


 ちらりと視線を四条にやると、四条は顔を赤らめて困ったように笑っていた。……さっきまでノって来てたのになー。


「まぁ、いいわ」

「何がやねん」


 軽く髪の毛を整えて、スカートをはたいて、あたしはにこっと笑ってみせた。


「なかなか見所あるじゃない。じゃ、今度はお昼にね」

「昼もやんのこれ!?」


 沙羅の叫びは右から左へ受け流し、あたしは教室を後にした。


 うん。うん。やっぱりいいじゃない! トトラどころか、バルサまで名前を出したのよ……!


 ぐぐっと拳を握り締める。あたしは、そう、あたしはやっと、阿野翡翠として生きて十五年にして、やっと、逢えたのだ。





 心いくまであの時代、あの国のことを語り合える相手を!



「そう、そやんね! コンキスタドール関係の本はいっぱいあるのに、その前の時期について言及してる本ってあんまないよな。阿野さんもそう思うんかー、やっぱり文字なかったんが大きいんかなぁ」

「四条クンはキープは文字ではない派?」

「うーん、記録として数字とかは表してた思うけど、いわゆる僕らでいう文字とはちょっとちゃうんちゃうかなぁと思ってて。判らんけどね。阿野さんは?」

「あたしはキープ・カマヨックじゃなかったからなー」

「え?」

「あ、いえ。何でもないです」


 いかんいかん。危ない。キープ・カマヨック――キープを読む役人のことだけど、あたしはそれではなかった。懐かしい、とは思うけど、読めはしない。まぁ、そんなこと言うべきじゃあない。


 お昼休み。朝に続き五組まで出張したあたしを、四条一真はほわほわした笑顔で迎えてくれた。

 教室の片隅で机を並べて、お弁当を広げながら語り合う――ディープな話。


 いやはや、驚くほどについてくる。宗教、言語、地理に風習。食べ物まで。どこにぽんっと話を振ってもついてくるんだから楽しくて仕方ない。


 若干、あたしと四条一真から、周りが離れている気がしなくもないが、まぁ、気にしない事にしよう。


「それにしても、阿野さん詳しいなぁ、びっくりしたわ」

「四条クンこそ」


 あたしはそれこそ、昔の記憶を掘り返しているだけにすぎないけど、四条一真はそうじゃない。だとしたら、なかなか見所のあるやつである。


 細腕細腰、眼鏡に温和な顔、という男としての魅力は感じないけれども、知識人としては評価したい。


「なーに、よその教室で奇妙な空間つくりあげとんねん」


 べこっと後ろから叩かれて、振り返る。また沙羅だ。両手を腰に当てて、仁王立ちしている沙羅は正直四条クンより男前だ。


「さっすがやな、歴ヲタの噂は冗談ちゃうかったんや」

「うわさ……?」

「割と君噂やん? 秀才クン。というか歴ヲタくん」

「初めて聞いたわ」


 困ったように四条が笑う。へー。優秀なのか。知識人か。


「あたしも初めて聞いたわ」

「あんたは他人に興味なさすぎやねん」


 つくづく沙羅は容赦無い。


 とか言いつつ。えーと、沙羅さん? 何故あなたは隣の机を引き寄せているんでしょうか?

 がごごご、と机を並べて、沙羅はさも当然、といった顔をしている。


「うちが一緒に弁当食べたあかんの?」

「別にいいけど……」


 あたしの娯楽の時間を奪うというのは癪だが。沙羅なら仕方ないかな。


 なんて思ってると、沙羅はにこやかに四条クンに話しかけた。


「四条ー、あんたは他にどんな時代が好きなん?」

「え、僕? そやなぁ、古代史も好きやけどスタンダードに幕末あたりも好きかなぁ。このあたりの関連場所は全部回ったで!」

「はー、地元愛やねぇ」

「ちょ、インカっ、インカよ、インカ! チチカカ湖について語らせなさいっ」


 余計な話であたしの娯楽の時間を完全に奪うなー!


 ――こうして、あたしと四条と沙羅の、不思議な友人関係は始まった。


 登校は今までどおり銘々好き勝手にしてるけど、お昼休みは三人で食べたし、帰り道も時々、三人一緒に帰ったりした。

 沙羅もあたしもこのあたりのことはあんまり詳しくないんだけど、四条は生まれも育ちもこのあたりらしくって――つまり高校も徒歩組だ――なかなか、放課後が楽しくなった。


 歴ヲタ、の噂は真実だったようで、驚くことに四条一真、インカだけでなく他の地域の他の時代も網羅してんじゃねぇのと言いたくなるくらいだった。その知識を駆使して、幕末関連の場所に連れて行ってくれたりもしたわけだけど、ぶっちゃけ正直興味はない。ただ、思う。こんな風にすぐ行ける場所に、どうして生まれなかったのかなぁ、って。せめてペルーだったら良かったのに。何故日本。何故地球の裏側なのか。


 四条はあたしの興味なさ気な態度も読み取ったのか、それでも嫌な顔はせず、もうちょっとラフな場所にも案内してくれた。


 雑貨屋に、甘味処。美味しいお茶のお店とか、金平糖を量り売りしてくれるお店とか。

 にこにこしながら、「次どこがええかな。何か、見たいのんとかあるかな?」なんて、いちいち探りながらではあるのだけど、四条はそれでも楽しそうだった。


「四条は気い使いやなぁ」

「そうでもないよ。ただ僕、どうせやったら皆楽しいほうがええからね」


 沙羅の言葉ににこにこ答える様は、なんというかまさに草系男子だった。まぁ別に、楽だからいいけどね。

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