第4話 最初の太陽は、この湖から昇ったんだ。

 ――夢をみる。


 遠い記憶の夢。色鮮やかで、詳細な夢だ。水の匂いと、トトラの枯れた匂い。肌を湿らせる風はすこし冷たくて、ひんやりとしている。足元はなんとなくふわふわしていて、慣れていなければたぶん酔うんだろうという感触だ。


 私はこの感触が好きだった。


 トトラのやわらかな弾力と、浮島らしい地に足がつかない感じ。小さい頃は、雲の上に住む鳥もきっと同じようなのよ、と母にしつこく言っていた。母はその度に笑って、否定せずに話を聞いてくれた。


 最初の太陽は、この湖から昇ったんだ。


 父に聞かされた話に、私は目をキラキラさせながら湖を見つめていた。あの頃来ていた貫頭衣は祖母が繕ってくれたもので、艶やかな赤地に黄色の刺繍が可愛くって大好きだった。それを着て、父の膝に座り、トトラのふわふわした揺らぎを感じながらチチカカ湖を眺める――


 子供の頃の私は、それが何よりも大好きだった。


 明け方、太陽が昇る前に家を抜けだしてよく島の縁に張り付いていた。

 頭上はまだ夜の中にあって、けれどそこから視線を下げていくと湖の辺りはもう白くなっている。白い星はその境目でまだ健気に光っていて、綺麗でたまらなかった。息を止めて見ている。私の細い腕は寒さにちょっぴり震えていて、けれどそれよりも次に来る瞬間のほうが大事だった。


 太陽が昇る。


 湖面に浮かび上がってくる太陽は、確かに熱を帯びていて耳をすませばじゅっと音がしそうだった。顔に、体に当たる陽の光が暖かくて、太陽の偉大さを感じ取れた。


 泣きたくなるほど、それは優しくて――


 瞼の裏を射す光に手を伸ばすように、目を覚ます。


 持ち上げたまぶたの先、視界に映ったのはへんてつもないただのマンションの天井だった。じわりと、視界がゆがむ。もう一度まぶたを閉じると、熱い感触が頬を過ぎていった。


 ――どうしようもない、ことなのにな。



「翡翠、どないしたん?」


 朝、顔を合わせるなり、沙羅がそう言った。思わず、目をぱちくりと瞬く。


「おはよ……。え? どしたって、何が」

「寝てへんの? 悩み? 変な顔しとるわ。あ、数学の宿題やってきた?」

「やってきたよ。……別に、なんでもないけど」

「嘘つき。あ、ノート貸してー」

「……あんたね」


 仕方なくノートを手渡すと、沙羅は自分の机にいそいそと持って行った。なんとなく傍の椅子に勝手に座った。授業前は、自分の席とか人の席と代わりとどうでもいいから心地いい。あたしの席もすぐ誰かが座っていた。軽くその様子を一瞥してから、沙羅を見る。てきぱきとノートを書き写す沙羅にため息が漏れた。


「うっといなぁ。何なん、言うてみいや」

「あんた真面目に聞く気ないでしょ」

「あるって。聞く気はあるけど時間はないの。ほらほら」


 話しい、と促されて、あたしはちょっと唇を突き出す。なんだかなぁ。見透かされている気がしてむずむずする。


「……最近、毎日夢を見るんだよね」


 シャーペンを走らせていた沙羅の手が、ふっと止まった。顔を上げる。


「それって、あの?」

「うん。最近ずーっと。何でだろーなぁって毎日考えてる」

「それでそんな顔? アホやん」


 きょとんとした顔で言われて、思わずかっとした。


「アホ言わないでよ! あたしは真剣――」


 ビッ、と言いかけたあたしを牽制するように、沙羅がシャーペンを持つ手をあたしに突き付けた。


「考えすぎ。せやからそんな夢見んねん。堂々巡りの悪循環や。もっとテキトーに生きい」

「テキトーって……」

「肩の力抜いて、まぁ、そういう夢見る日もあるわなぁ、くらいで受け止めんと。何でもかんでも意味持たせてたらしんどいわ」

「……」


 沙羅が、にっと唇を持ち上げた。


「あんま、そんなこと考えてたらめんどいことになるで。ええことない。しれっと生きとき」


 ――しれっと、ねぇ。


 細く長く息を吐き出し、あたしは教室を見渡した。誰も彼も、適当に生きているように見える。まぁもちろん、悩みゼロなんて人はいないんだろうけれどさ。


 ふと、ふたつ隣のクラスが気になった。四条なら、こういうときどう言うだろうな、なんて。そんなことをちょっとだけ考えた。



 週に二回、沙羅はバイトをしている。そういう日は大体集まらないで適当に帰るんだけど、その日あたしはちょっとだけ悩んでいた。放課後、五組の教室の前でうろちょろうろちょろと、お腹をすかせたクマみたいに歩きまわる。


 どうしよう。すぱーんっと扉開けてばーんっと名前呼べば奴もしゃーんっと出てくるのかもしれないし、どっちかっていうとそっちのほうが性に合ってる気はするのだけれど。


 なんとなく、ここしばらく三人一緒がデフォだったせいで、二人っきりというのに微妙な抵抗感があるわけで。だったらまぁ、とっとと帰ればいいだけなんだけど、なんというか今日はちょっとそういう気分になれないといいますか。だからって何でこんなクマみたいにうろうろしてるんですかあたし。ああもう、はっきりしない自分が鬱陶しいよう。


 思わず廊下の端でしゃがみこむ。何なんだこのぐちゃぐちゃな感情。どうすればバランスとれるんだろう。訳も判らずしゃがみこんで、じとっと壁とにらめっこをする。


「……何を、しとんの?」


 背後から。突然ひそっとした囁きが降ってきた。同時にバランスを崩したあたしは、そのまま廊下の壁に頭突きをかます。ごっ。と低い音がした。


「あああああ、阿野さんっ」


 盛大に慌てた声とともに、ぐいっと腕を引っ張られた。振り返ると、あわあわした様子の四条が目の前にいた。


「大丈夫やのん? なんかすごい音がしたで。あああ……おでこ赤なってる」


 痛いやろ、となでられて、なんだか言葉も出てこない。意外と指はごつごつしてるんだなぁ、とか。そんなどうでもいい感想だけが浮かぶ。


 ええと……何を、どう言えばいい。


 判らないまま口を開いて、閉じて、また開いて。そんなことを二度、三度繰り返していると、四条はくすっと声を立てて笑った。


「どないしたん? おかしなぁ」

「……うるさい」

「ごめんごめん。近藤さんは?」

「あ……沙羅、今日バイト……」

「あ、そか。今日木曜日か。ほならどないする? 帰る?」


 よいしょ、と立ち上がった四条に引っ張りあげられ立ち上がる。


「あ、あの、四条!」

「なに?」


 ――にこっと。人畜無害な笑顔が返ってくる。この顔で笑うやつなら、多少無茶をぶつけても怒ったりしないだろう。


 なんとなくほっとして、あたしはすうと息を吸って、それから軽く首を傾げた。


「帰ろ。どっか連れてって」

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