第10話 あたしは、阿野翡翠は、
ふわっと、水の匂いがする。川の傍の大通り。あの日あたしが初めて出逢った場所。
四条に手を引かれたまま、ここまでやってきた。とは言えその手は、ワスカルみたいに強くない。いつだって振りほどけそうな、弱い力。だけど、どうしてだろう。あたしは、今のあたしは、こっちのほうが心地いいんだ――
「阿野さん、ごめんな」
川をまっすぐ見据えていた四条が、はっと息を吐き出しながら言った。
「一時間目、サボらせてしもて」
「う、ううん。大丈夫……」
「そ、そか。えと……す、座る?」
「うん、そう……そうね」
お互いなんだかしどろもどろになって、視線も合わせられないまますとん、とベンチに座ってしまった。う、ううむ。距離が、ある。
ふわっと、水気を含んだ風が拭いていく。心地よさに、思わず目を細めた。ほんのり、風の中に混じる甘い花の匂い――くちなしかな。ああ、そうだ。あの場所には、くちなしなんて花はなかったね。
「阿野さん」
「え……あ、うん」
「前に僕が話したこと覚えてるかな。んと、バタフライ効果の話」
――今、ここで、それ?
きょとんとしてしまうけれど、なんとか頷くだけ頷いてみせた。四条が、いつもどおりのほわほわした顔で微笑んだ。
「あの時、阿野さん泣きそうな顔してたやろ。繋がってへんて」
「……うん」
「そんなこと、なかったやん。ちゃんと繋がってる。大丈夫やで」
「別々、なのに?」
「別々やから、や。同じやったら繋がられへんよ。混じってまうだけや。阿野さんとイネスさんは別。近藤さんと、ワスカルさんも別。別やから、別の形で繋がれる。風とか水とか土とか、そういうんも、たぶんどっかでぜえんぶ、繋がってる。大丈夫」
大丈夫、か。
正直なところ、四条の思考回路はあたしには難しい。何が大丈夫なのかも、判らない。でも、身体の真ん中がほっこり、あったかくなるのだけは、確かだった。
「あの日、ここで阿野さんに声かけられて、良かったわ。繋がれた」
「……怖かった? あの時」
「僕、ケンカとかしたことあらへんからね。ほんまは結構、ね。さっきも正直、ちょっとびくびくしててんで?」
「うそ」
ふふ、と思わず笑い声を立ててしまう。四条はぽりぽり、と頭を掻いた。
「嘘ちゃうて。やけど僕、なんかめっちゃ怒ってしもて……あんな怒ったんはじめてやったわ」
「あれ怒ってたんだ」
「うん。ごめんな。近藤さんも気ぃ悪うしてへんとええけどな。また、三人で遊ぼな?」
三人で。そう言ってくれたことが嬉しかった。
「うん」
頷くと、四条は満足そうに笑顔を見せた。それから、ばっ、と急に立ち上がった。あたしの正面に立つ。
「阿野さん。本題」
「はっ……はい?」
「僕、贅沢やねんなぁ。もっと、つながりたいんや」
「四条?」
「好きです」
――端的な、真正面からの言葉。それが耳に入って、脳に伝わって、咀嚼出来るまでは数秒かかった。自分でも今あたし真っ赤だって判るくらい、全身が熱くなる。
「あ……」
身体中絶対赤いくせに、頭だけが真っ白になって言葉が出ない。ただただ見上げていると、四条がぷっ、と吹き出した。
「阿野さん、顔あっか!」
「だ、だだだ、だって! あた、あたしだって!」
そうだ。あの時。沙羅に問われた時、ぽっかり浮かんだ答え。イネスはワスカルが好きだった。でも、あたしは違った。イネスだったあたしは、ワスカルを愛せない。阿野翡翠が好きなのは、ワスカルじゃない。
「あ……あたしも、好き」
「阿野さん」
「あたしは、阿野翡翠は、四条が好き。四条一真が好き」
次の瞬間、あたしは四条の腕の中にいた。
見上げると、子供みたいに無垢な顔で笑っている四条が目にはいる。どきどきする。でも、それよりずっと心地良かった。力強くはない。でも、優しくて暖かい。
ああ、そっか。あの日。ここで四条と出逢えたから、今があるんだ。四条の言う『バタフライ効果』ってやつ。きっとそれはこうして、こうやって、積み重なっていくんだ。
これからも、この先も、ずっと未来へ。
目を閉じる。
瞼の裏できらきらと、夏の陽射しが揺らめいていた。それは確かに新しくて、でも。
――遠く愛した、あの湖のきらめきによく似ていた。
――Fin.
私の愛したチチカカ湖 なつの真波 @manami_n
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