第9話 あたしが、好きな人――

 その瞬間、ざあっと枯れ草の音がした。


 思わず目を閉じる。鼻をくすぐるトトラの匂い。水の湿気った香り。肌に触れる風の涼やかで水っぽい感覚。容赦ない陽射しと、ぬけるような青い空。水面の反射光。その全てが、一瞬、この教室の中に現れた気がした。


 そんなはずはない。ただの幻想だ。でも。


 咽返る夏の熱い空気のように、感情が雪崩を起こす。そうだ。そうだ、あの日。遠い遠いあの日。


 彼はこうして手を差し伸べてくれた。


 内耳に、あの日の声がこだました。


 私はまだ幼かった。だからこそ、あの日それに巻き込まれたのだ。首都クスコからやってきた役人は、一軒一軒家を回り、私を見つけた。そして、告げた。アクリャ――太陽の処女の修行をつまないか、と。


 太陽の処女。一生を太陽に捧げ、インカ――王のために尽くす少女たち。


 それは大変名誉なことであっただろう。実際、両親は飛び上がって喜んでいた。でも、私は嫌だった。おかしいとか、変わってるとか、散々言われたけど、嫌なものは嫌だった。私は、太陽に生涯を捧げるつもりはなかった。私は、ただ、人で良かったんだ。人として、最後まで、あの湖の上で生きていたかった。


 だけど私はまだ幼くて、断る術も持っていなかった。そんな時、手を差し伸べてくれたんだ。


 ――悪いが、この娘は私が貰うことになっていてな。他をあたってくれ。


 その言葉は、今でもはっきり覚えている。生まれ変わっても、覚えていた。だってすごく、すごく、嬉しかったから。


 彼は、役人がいなくなったあと笑ったんだ。大人になるまでは、待ってやる、と。

 そして、そうだ。

 手を伸ばしてくれたんだ。強く太い腕を、私に向かって差し伸べてくれたんだ。



 ――今のように。



 目を開ける。


 そこはいつもの教室だった。廊下から、誰かの声が聞こえてくる。四条が真っ直ぐな目をしたまま、こちらを見据えている。トトラの香りも、水の匂いも、ふわふわした浮遊感もない。ただの教室の中であたしに手を伸ばしてるのは、ワスカルじゃない。彼じゃない。彼のように太い腕ではなく、華奢で白い、セーラーの袖から伸びる腕だ。


 彼女は、沙羅だ。何度見ても、沙羅でしかない。近藤沙羅。あたしの――阿野翡翠の、友達。


「……さら」


 名前を呼ぶ。絞り出した声に反応したかのように、涙がポロポロ零れてきた。


「さらぁ……!」

「な、泣かんでも……!」


 慌てたように駆け寄ってきた彼女が、あたしの肩を掴んだ。ひくっ、と思わずしゃくりあげてしまう。その場にしゃがみこんで、あたしは顔を覆った。


「さらぁ、ムリだよぉ。だって、さっ、沙羅は沙羅だも……んっ、ワスカルじゃないもの……」


 どうしよう。どうしよう。涙の止め方が判らない。バカみたいだ。


 ふっと、短く息を吐く音が聞こえて、あたしはぐちゃぐちゃになった顔を上げる。沙羅が、ゆるりと柔らかい表情を浮かべていた。


「私のことをもう好いてはいないのか?」

「すっ、好きだった!」


 叫ぶ。


「好きだった……すごく、すごく好きだった。愛してた。ワスカルのことも、あの島のことも、全部全部愛してた。大好きだった! でも、でもなんか違うの。あた、あたし……」


 そこまでで限界だった。もう言葉の一つもしゃべれなくて、あたしは泣くだけしかできなかった。


「ああもう、大丈夫。大丈夫やから」


 困ったように笑いながら、翡翠が背中を撫でてくる。小さな、薄い手で、そっと優しく撫でてくる。きゅっ、ともう一つ足音が聞こえて、あたしはなんとか視線をやった。四条が、困ったように、でもほっとしたように、優しい顔で微笑んでいた。沙羅は一瞬四条を睨み上げ――すぐにふっ、と短く息を吐いた。あたしの背中を撫でながら、ぼそっと、低く呟く。


「ほんまに。あんたはイネスやないねんなぁ……」

「え……?」

「イネスはそんな泣き虫ちゃうかったわ」


 顔を上げると、沙羅が屈託なく笑っていた。――沙羅、だ。この笑い方は、ワスカルはしない。


「いつも凛としてやって、理不尽なことも全部まとめて受け入れようとする強い女やったよ。あんたみたいに、ぐちぐち、こんな時代がー、とか言わんかったわ」

「そっ……それは……」

「なぁ、翡翠」


 沙羅がちょっと大人びた顔で、囁いた。


「ワスカルは、イネスを愛してたよ。一生かけて、愛してた。あんたは知らんやろうけど、あんたが先に死んでもうてから、すぐ追いかけたくらい、愛してた」

「え……」

「でーもなー、やっぱムリやわぁ」


 ぱぱんっ、とスカートの裾を払って、沙羅が立ち上がった。腰に手を当てる、いつものスタイルであたしを見下ろしてくる。両方の口角がにっと上がって、白い歯がわずかに見えた。


「翡翠も好きやよ? でもまぁ、ちゅーもでけんわ。女やしね?」

「沙羅……」


 ボロボロの顔を拭ってから、何とか立ち上がる。沙羅はくるっと、あたしに背を向けた。


「一生かけて、命かけて愛したひとでも、次の一生もまた同じように愛せるとは限らへんねな。当たり前やけど、悔しいけど。……別人や」


 背中越しに、笑い顔が見えた。


「翡翠。イネスは、ワスカルみたいな熱っ苦しい男が好きやったみたいやけど、翡翠はどう? そやなぁ、あんたはいまでも、『草食系』嫌いか?」


 言われて――


 あたしは自然と四条を見上げていた。目が、合う。眼鏡の奥の、ちょっとだけ垂れた目元。

 何一つ、強引にしない人。遊ぶときも、話をするときも、必ずこっちを優先する人。男らしい強さなんてない。でも、柔らかい、あたたかさがある人。あたしたちを、別々に扱ってくれた人。


 ああ――そうだ。あたし。


 心のなかにひとつ、ポコンと、言葉が浮かんだ。浮かんだ言葉が恥ずかしくて、思わず顔が熱くなった。その熱が伝染したみたいに、四条も顔を赤くしている。何これ。どうしよう。なんでだろう。


 あたし、泣きそうだ。

 くすりと、沙羅が肩で笑った。


「翡翠」


 沙羅が、ゆらゆら揺れる視界の向こうで、いつも通りの沙羅の顔で、笑った。


「今のあんたが――阿野翡翠が好きなんは、誰や?」


 あたしが、好きな人――


 脳が耳から入ってきた音を答えと結びつける前に、手のひらに熱が生まれた。四条だ。四条が、手を握っている。


「しっ……」

「ここ、近藤しゃっ」


 どもった。そして噛んだ。顔を真っ赤にした四条はそれでも手を放して来なかった。沙羅が迷惑そうに、ちょっとだけ顔をしかめる。


「なんやの。鬱陶しい」

「ぼぼ、僕、サボリとかしたことあらへんねん、けど、どないしたらええんかな!?」

「知らんわそんなん。勝手にせえや」

「そ、そやな。うん。ありがとう」


 今の会話のどのあたりに礼を言う流れがあったのかは知らないけれど、四条はこくこくとひとりで頷いて、それから相変わらず真っ赤な顔のまま、あたしを見つめてくる。


「ご、ごめん。一時間目だけ、付き合うてくれる?」

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