第8話 もうそろそろ僕のが限界やわ。寂しなる

 その日から、また日常は一変した。ううん、端から見たら元に戻っただけに見えたかもしれない。あたしと沙羅はいつも一緒で、四条はその輪の中に居なかった。沙羅がなにか言ったか、手回しをしたのか、それは判らなかったけれど、四条からこっちに寄ってくることもなかった。廊下で見かけても、四条はやっぱり影が薄くて、でもあたしは何故かその姿をすぐに見つけられて、でも彼は困ったように微笑んで、それだけだった。


 ――それだけ、だった。


 沙羅は、沙羅のようでそうじゃなかった。たしかに沙羅なんだけど、いつものようにツッコミも飛んでくるんだけど、でも時々はっとするほど『彼』だった。


 遊ぶときも、今日はあの服を着てこいだとか、髪型だとか、いちいち指定してきた。沙羅じゃない。そういうことをするのは『彼』だ。


 戸惑いながらも、あたしは従うしかなかった。

 そうしていて、思い出す。

 そうだ。私は――イネスは、彼のそういう強引で、でも強いところが好きだったんだ。


 もう逢えないと思っていた、愛しい人。それが今目の前にいる。性別は違うけど、でも、翡翠の友人でもあった彼女が、そうだったんだ。

 それはすごく嬉しいことだし、奇跡なのかもしれない。

 頭では判っていた。でもどうしても、心のどこかがチクチクしていた。



『翡翠。明日帰りにうちに来いや。うちに帰ってからでもええな。それやったらあんたあの赤のワンピ着といで。あれよう似合う。昔っから、あんたは鮮やかな赤とか似合うなぁ』

「……沙羅」


 電話口でからからと笑う沙羅の声に、あたしは何を言えばいいんだろう。あれからもう、一週間が過ぎていた。相変わらず四条は何にも言ってこないし、沙羅――というべきか、ワスカルというべきか――は変わらずゴーイング・マイ・ウェイだし、あたしはどうすればいいのか。


 うちおいでや、じゃなくて、うちに来いや、なんだな。なんて、そんな小さなことが気になる。


『不満か?』


 ふっと、電話口の声のトーンが変わった。小さく、息を呑む。この声の主に、逆らう術を知らないんだ。


「いえ……光栄、です」


 小さく答えると、電話の向こうでふふっと小さな笑い声が上がった。でもそれは、沙羅のようで沙羅じゃない、そんな声だった。



 翌朝、あたしは目覚ましより先に起きていた。まだ六時前だ。いつもなら二度寝といきたい時間なのに、もう寝る気なんて起きなかった。そもそも、寝たのか寝てないのか。うとうとしながらずっと、あの頃のことを思い出していたような――夢に見ていたような気がする。全然疲れが取れない眠り。


 そっと嘆息を吐いて、ベッドから抜け出す。音を立てないようにそっと洗面所に行って、顔と歯を洗う。それから、何の変哲もないマンションの一室で、あたしはもそもそと制服に着替えた。そうすることで、夢うつつの曖昧な状態から、ちゃんと『阿野翡翠』になれるような気がした。


 ――あれ?


 ふ、と、制服のリボンを結んでいた手が止まる。


 今の自分の思考回路に違和感を覚えたんだ。――阿野翡翠に、なれる? それじゃあまるで、イネスのことを疎ましがってるみたいじゃない。


「……変なの」


 むすっと呟いて、それからもう一度時計を見る。ゆっくりしていたとはいえ、まだ六時半。学校に行くには早すぎる。でも。


 ちらり、と机の上で充電中だったスマホに目を向けた。沙羅はいつも、あたしの登校時間には必ず来るから。


「ごめん」


 小さく囁く。誰にも聞こえない謝罪なんて意味が無いって知ってるけど、でも今のあたしにはそれで精一杯だった。鞄をひっつかんで家を出る。



 早朝の学校なんて初めてだった。朝練をしているらしい運動部の声を聞きながらあたしは自分の教室へと向かう。久しぶり、だなぁ。この感じ。ひとりって、こんなに隣がすうすうするもんだっけ。でもなんかちょっと、ほっとするかもしれない。鞄を机に置いて一息吐いてから、ふと、思いついた。


 クラスにはまだ誰もいない。だとしたら、たぶんあっちも、いないんだろうけれど。でも。

 もしかしたら。


 かたん、と椅子を蹴って立ち上がる。そのままいそいそと五組の教室へ足を向けた。いやほら、なんといいますか? もしかして、ってあるじゃないですか?


 ドキドキしながらそっと中を覗いて――そしてあたしは、その場で立ち尽くした。きゅ、と唇を引き結ぶ。ああ、どうしよう。なんでだろ。なんで、泣きたいんだろ。


 窓際、後ろから二番目の特等席。四条一真は朝の光の中でひとり、本を読んでいた。


 扉の音に気がついたんだろう。四条はふっと顔を上げ、こちらを見て目を丸くした。でもそれも一瞬で、すぐにいつものほわほわした笑顔になった。


「おはよう、阿野さん」

「おは……おは、よう」

「どないしたん、入っといでや。ひとりなん?」


 言われるがまま教室の中へと入っていく。足元がふらふらしていて、傍の机を蹴飛ばしてしまった。


「あ、沙羅は……その、お、置いてきちゃった……」

「あー、そやから今日早いんかぁ」

「しっ、四条はなんでこんな時間に?」

「ん? 僕はいつも大体この時間やよ。実は僕んち家族多くってなぁ、五月蝿うるそうてうちじゃ本とかゆっくり読んでられへんねん」


 照れたように四条が笑う様が、たった一週間ぶりなのになんだか少し懐かしかった。それから、四条がそっと窓をあけた。暑くなり始めていた教室に、外の空気が流れ込んでくる。


「一週間ぶり。やね」

「……うん」

「聞いてええ? 近藤さんどないしたん? 一週間もすれば落ち着くかな思てちょっと距離置いたんやけど、その様子やとまだあかんみたいやな」


 くしゃ、と髪の毛をかきながら、困ったように笑っている。


「もうそろそろ僕のが限界やわ。寂しなる」

「……さみしい?」

「寂しいよ? 阿野さんは違うん?」


 率直な問いかけに、ちょっとだけ躊躇ってから首を横に振った。


「ちがくない」

「そか」


 小さく頷く声が、あったかかった。目元が熱くなってくる。喉の奥に張り付いていた弱音が、口をついて出そうになって、何とか呑み込もうとして――やめた。


 ……大丈夫。きっと、大丈夫。あたしの前世とか、イネスとか、そんな荒唐無稽な話さえ四条は信じてくれたんだ。信じるって言ってくれたんだ。きっと、大丈夫だ。


 あたしは目元を拭って、顔を上げた。ちゃんと、言いたかったから。


「四条、あのね」


 ――あたしの話を、四条は押し黙ったまま、真剣な眼差しで聞いてくれた。全てを聞き終えたあと、少しだけ重いため息を吐いた。


「大変やってんね。ありがとう。話してくれて」

「……信じる、んだ」

「当然やん。疑う必要なんてあらへんねやろ?」


 微笑まれて、何も言えなくなる。こういう時の四条の顔は、大人っぽい。


「……なんで、だろ」

「なんで、って?」

「あたし……イネスの頃は、生まれ変わりなんて考えてもなかった。でも、あるんだね。しかもよりによって、こんな日本で、あの人までいて。何でなんだろうって」

「理由かぁ」


 四条が腕を組んだまま、教室の天井を睨み上げる。


「近藤さん……ワスカル、さん? の方は、なんか判る気ぃはするけどな」

「どうして?」

「阿野さん、追いかけてきたって感じするねん。めっちゃ嫉妬しいみたいやし、めっちゃ好きやったんやろなぁって」

「そいえば、イネスが先に死んだんだよね。あの当時流行ってた病気にかかっちゃって」


 ふと思い出したことを呟くと、四条があぁ、と頷いた。


「そやったら、僕の考えもあながち的外れでもなさそやなぁ」

「イネスは?」

「んー。亡くなってしもたんはいつ頃なん?」

「今のあたしとそう変わらなかった、と思う……けど」


 四条がぱちぱちと瞬く。


「ほならたぶん。もっと生きたかった……んやろなぁ」

「それで日本人?」

「……に、日本は医療発展してるし……?」


 苦し紛れな答えに、思わず笑ってしまった。四条が照れたように苦笑する。


「笑わんといてえよ」

「ごめん。だって」

「まぁ、ほんまのとこは判らんけどね。でも僕は阿野さんと逢えて嬉しいから、感謝せなって感じやわ。神様かなんかに」


 ……、この、草系め。ほわほわしてるからって、そんな台詞をへらへら吐かれたって困る。


 口ごもったその時だった。ぱんっ! と背後で派手な音がした。


「――イネスッ!」


 怒号。


 背中にビリッと電気が走った気がした。肩がすくんで、動けなくなる。どんどんどんっ、と派手な足音が近づいてきて、背後からあたしの腕を強く掴んだ。


 沙羅、だ。


「どういうつもりや!」

「いっ……!」


 捻り上げられるように腕を持ち上げられた。捻れた腕を守るために、身体ごと沙羅に向き合うしかなかった。眉を釣り上げた沙羅が――ううん、ワスカルが――そこにいた。どうしよう。すっごいすっごい、怒ってる。


「どういうつもりだ。私を避けるのか?」


 言いながら、握る手に力を込めてくる。痛みがびりびりと腕から上がってきた。


「も……もうしわけありませ……」

「――やめえや」


 すっと。あたしの手首にもう一つ、別の手がかけられた。静かな声とともに、その手はするすると沙羅の指を離していく。


「やめえ、近藤さん。こんなことしたあかん」

「誰のせいだと」

「知らへんよ。少なくとも僕のせいでも阿野さんのせいでもあらへんのは確かやね」


 しれっと言いながら、四条はあたしの肩をそっと引いた。はずみで、あたしの腕から沙羅の指が離れる。


 沙羅が苦々しい顔をしながら、口の端を歪めた。


「何も知らぬ者ごときが」

「知らへんよ。なーんも知らへん。そやけど、判るよ。阿野さん、怖がってはる。痛がってはる。何も知らへんけど、それがあかんことやってくらいは、知っとるよ。――ワスカルさん?」


 その言葉が、引き金だった。


 弾けるように、笑い声が上がる。ワスカルだ。沙羅の姿をしたワスカルが、背をのけぞらせながら大声で笑っている。知っている。私は知っている。あれは、人を馬鹿にした時の笑い方だって。


「話したんだな、イネス。お前はやはり、この男に」

「ご、ごめんなさ……」

「僕が無理やり聞いたん。阿野さんは悪ないで」


 そう言った四条に、ワスカルは冷ややかな目を向ける。


「若造が」

「悪いけど、今は近藤さんと同い年や」

「お前に口を出される謂れはない。この女は私のものだ」

「人をもの扱いする人とは気ぃ合いそうにあらへんけど。まぁ、ワスカルさんの言うとおりやったとしてもや。それはイネスさんであって、阿野さんやあらへんやろ?」


 ――え?


 一瞬、何故だろう――頭を、殴られた気がした。


 こんな状況だというのに、あたしは呆然と四条を見上げてしまう。イネス。阿野。それはどっちも、あたしの名前だ。だけど。


 四条は今、あたしたちを別々に扱っている。


 どくっ、と心臓が内側から跳ね上げられた。指先がぴりぴり、熱を持って痺れている。


「馬鹿馬鹿しい。あれはイネスだ。――なぁ、イネス!」

「ちゃうで、阿野さん!」


 同時に叫ばれ、あたしはいつの間にか、自分が二人から距離をとっていたことに気がついた。


 待って。待ってよ。判らないよ、そんなの。だってあたしは、阿野翡翠だけど、でも確かにイネスの――私の記憶だって、ある、のに。


 判らない。判らない判らない判らない――


 膝が笑っている。かつ、と後ろの席に腰があたった。そろそろ時間が時間なんだろう――校門の方は、すこしずつ賑やかになってきているようだ。窓の外の空は青い――そういえば、そろそろたぶん、梅雨も明けるんだ。


 風が吹いた。ふわりと、沙羅の綺麗な髪が揺れる。


 雲間から、太陽が顔を出した。陽射しがまっすぐ、射しこんでくる。その光の中、沙羅が手を伸ばした。


「――イネス」

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