第6話 僕は阿野さんを信じるよ
ちょっとだけ照れたように、でも何故かほんの少し誇らしげに見える顔で四条が笑う。
チクっと、胸の内側から何かが突き上げてくる。痛みともちょっとだけ違う、不思議な感情。そのチクチクに動かされるみたいに、あたしはそっと口を開いていた。
「つまり四条は、四条一真という人間が出来上がるまでにバタフライ効果が起きていた、と考えてるわけだ」
「そうなるね」
「あたしも? ――阿野翡翠もその流れに組み込まれているって考える?」
「そら勿論……」
「違うわ」
気がつくと、あたしは四条の声を遮っていた。そしてその声は、自分でも驚くほど硬かった。硬くて、尖っていて、冷たい声。自分で自分の声を聞いて初めて判った。あたしなんか、イライラしてる。
「阿野さん?」
「バタフライ効果は、何かがどこかで必ず繋がっている。でもそうじゃないこともある。歴史の中で途切れたまま、どこかに置いてきぼりにされたまま、唐突に現代に放り出されることもあるもの」
ぷちん、と軽い音が自分の中から聞こえる。糸が途切れたような音は、たぶん、気持ちの中の、何かだ。
「阿野さん、どないしたん?」
「阿野翡翠とイネスは繋がってない」
思わず口をついて出た言葉を、けれどあたしは、今更引っ込めることなんて出来なかった。洪水のように、言葉が止まらない。
「イネス……?」
「私はいたの、たしかにあの場所にいた、でも、私と今のあたしは繋がってない。今のあたしの阿野翡翠のルーツには絶対イネスがいるのに、でも、繋がりなんかない。地球の反対側だもん。あるわけない。バタフライ効果なんて、結局ウソ哲学でしょ。だいたい何でこんなとこに……もう一度生まれなきゃいけなかったの。どうしてこんな感情持ってまで、日本で生きてかなきゃいけないの。繋がってないじゃない、そんなのぜんぜ――」
「阿野さん!」
早口になりかけたあたしの声を、今度は四条が遮った。びっくりするくらい、大きな、はっきりとした声だった。
真っ直ぐな、真っ直ぐな茶色い瞳があたしを見据えた。
「――イネスって、何のことや? なんでそんな、泣きそうな顔してるのん?」
言わないほうがいい。そんな事判ってた。どうせ馬鹿にされる。嗤われる。そんなの知ってる。だけど。
喉の奥がちりちりと痛んだ。痛んだまま、潰れたみたいな声が出る。
「イネスは……あたし。前の、あたし」
四条が眉根を寄せる。絞りだすように、あたしは告げていた。
「阿野翡翠が、阿野翡翠になる前の名前。あたしはあそこに住んでたのよ。イネスって名前で、あの時代に、チチカカ湖に、住んでいたの。……生きていたのよ」
沈黙が落ちる。耳が痛くなるほどの無音の空間。そんなもの、この時代この場所には存在なんてしないはずなのに、一瞬確かに沈黙があった。
沈黙を割るように、ざっと風が吹き抜ける。周りの木々が鳴る音に紛れて、小さな声が聞こえた。
「……ごい」
「え?」
いつの間にか落ちていた視線をあげると、四条が目前にいた。近い。
「え、な、なに……」
「すごい!」
――は、い?
子供のような目でキラキラと叫ばれたので、あたしは一瞬硬直してしまう。
「ちょ……え……?」
「すごい、すごいな阿野さん! すごいな!」
何故かあたしの両手を握った四条は、そのままぶんぶんと勢いよく上下に振っている。ぶんぶん両手を上下に振られている。訳が判らない。
「すごいなー! そっかぁ、そやからあんな詳しかったんやなぁ! あっ、さっきの夢もそぉか!? そっか、そっかぁ!」
「ちょちょ、ちょっと待ってよ!」
慌てて叫んで、四条の手を振りほどいた。五十メートル走の後みたいに、心臓がドキドキしている。
きゅっとセーラーの胸元を握る。落ち着け。
「まさか、信じるの?」
「えっ、ウソなん!?」
「ホントよ!」
叫んで。
すぐに四条が目をぱちくりと瞬いた。かぁっと顔が熱くなる。きょとんとしていた四条がふわっと破顔した。
「ほんまやったら信じてええやん。おかしなぁ、阿野さん」
「で、でも、そんな非科学的なって……」
「科学も大事やけどね」
四条が軽く肩をすくめる。
「僕、歴史好きやん? そんで色々調べるうちに、どんどん僕が何も知らんことが判っていくんよ。そやからたぶん、科学も万能やないし、僕の知らんことなんかいっぱいある。阿野さんのえーと、過去? でええんかな? それがそうやったとしても、僕が否定はでけへんよ」
人畜無害な草食系男子たる、煮え切らないふわふわした笑顔で、でも、四条は確かに笑ったんだ。
「僕は阿野さんを信じるよ」
ほんの少し。どうしたらいいのか判らなくなって視線を彷徨わせて。
それからあたしはくるっと彼に背を向けた。
「ごめん、帰る」
「え。阿野さん、ごめん。なんか気ぃ悪うしたかな」
「ち、違うの!」
震える声で叫ぶ。
「うれ、嬉しかった、んだけど。なんかその、混乱してて。ごめん。帰る」
ちょっとだけ勇気を出した。かちかちに固まった首を無理やり動かして、振り返った。
「あ……ありがとう!」
投げつけるかのように言葉を叫んで、あたしはその場から走りだしていた。地面に足がついていないみたいに、ちょっとだけ不安定な感覚。鼓動が、内側から急げ急げとせかしているみたいに跳ねあげてくるから、どんどん走るスピードは速くなる。イネスのこと。チチカカ湖のこと。四条のこと。いろいろぐるぐる回りながら、でも、判っていた。
逃げ出したいくらい、あたし、嬉しいんだ。
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