私の愛したチチカカ湖
なつの真波
第1話 嗚呼――我が愛しのチチカカ湖……!
嗚呼――我が愛しのチチカカ湖……!
そのたっぷりたゆたう水は空の色を鮮やかに映しこみ、トトラの草はゆるゆると風に揺れ、何よりも美しき我が故郷よ。
遠き昔のあの時代から、今でもきっと変わらずに、美しく存在し続けているに違いない。
嗚呼――なのに。なのにどうして。
どうしてあたしはこんな、こんなペラい写真集を眺めるしかできないのか……! 嗚呼、あの水の匂いを、風の香りを、太陽の陽射しを、トトラのやわらかさをっ! 身体全部で受け止めたいというのにっ!
「なぜっ、あたしはあの場所にいないのーっ!」
「翡翠うるさい」
思わず叫んだあたしの声に、ピシャリ、と冷たく友人が告げた。
「あんた図書室の本くしゃくしゃにしたあかんで」
「はっ」
言われてはじめて、思わず本を持つ手に力が篭ってしまっていたことに気づく。図書室で借りた写真集だ。いそいそと皺を伸ばしながら顔を上げると、冷めた目をした女の子がひとり、こちらを見据えていた。
ポニー・テイルのあたしとは対照的に、綺麗に丸くカットされたショート・ヘア。男の子並みに薄い体を包む夏のセーラー服。友人の沙羅は、いつもどおり冷ややかな目でマックシェイクのストローに口をつけていた。
学校近くの大通りにあるマクドナルド。まぁ、寄り道には定番の場所だ。ちらりと周りを見回しても、うちの高校以外にも、いくつか制服姿が見える。銘々、ノートやテキストをひらげていたり、漫画やスマホを覗き込んでいたり。あたしははぁっと大きく息を吐いた。そのままべにょりと机に突っ伏して、放り出してあった手鏡を覗きこんでみる。不満気な顔をしたあたしが写っている。
黄色い肌に黒い髪。無造作にシュシュで束ねただけのポニー・テイル。沙羅と同じ夏のセーラー服。黄色い肌に、黒い髪。顔立ちはどうあがいても日本人だ。うう。
「どうしてあたしは日本人なのようう」
べんべんべんべんっ、と苛立ち紛れに机を叩くと、沙羅が迷惑そうに顔をしかめた。
「あのなぁ、中二病はそろそろ卒業したほうがいいと思うで、翡翠。うちらもう高一やで?」
「人を病人扱いしないでよ」
失敬な。断固として抗議するため、あたしは姿勢を正した。
「いい? 何度も言ってるけどね」
「はいはいはいはい。前世の記憶ですねインカ人ですねハイハイ」
「言わせてよ!」
「聞き飽きたわ」
そうは言ったって、この溢れだす熱情は止めようがないんだから仕方ないじゃないの。
そう。沙羅にだけは言ってあるのだけれど、あたしには今のあたし、阿野翡翠としての記憶以外にもう一つの記憶がある。
その時の名前は、イネス。
神聖なる湖チチカカ湖。そこに浮かぶ、トトラという葦のような草で出来た浮島――ウロス島に住んでいたんだ。
その国はタワンティン・スーユ。四つの州、という名のその国は、とても大きく発展した国だったんだ。タワンティン・スーユ――今で言う、インカ帝国。
「言うてもあんた、団子結びの紐みてきらきらしとるだけやん」
「キープって言ってよ!」
「知らんし」
キープ。紐文字って言われるやつだ。タワンティン・スーユは文字を持たない文明だったけど、細い紐に様々な結び目をつけたものを連ねて、それを運ぶことで情報伝達をしていた。それがいわゆる文字の代わりだったんじゃないかって、今の時代じゃ言われている。
沙羅は話に付き合ってはくれるけど、いつもこうだ。あたしが中一の頃、ここ京都に引っ越してきて初めて出来た友達で、実はそれなりに歴史に明るい。学校の授業で図書室で本を見てる時にインカ帝国の本の前で足を止めたあたしに、声をかけてくれたのが仲良くなるきっかけだった。
『何見てるん? インカ帝国? ほんまはタワンティン・スーユ言うんやっけか』
もうその言葉にどれだけはしゃいだことか。そしてまぁ、なんといいますか、中学一年生らしく周りが見えていない時期ではありましたので、うっかり彼女に『本当のこと』を話してしまったんだ。
ま、さすがに今はそんなバカはやらかさないけれども。
でも言いたい。はっきり言いたい。コレは病気なんかじゃない。
真実のことなんだ。
目を閉じれば今でも鮮やかに思い出せる。手元にあるのはただの写真集だけど、あたしはあの場所の空気も陽射しも匂いも、全てを鮮明に思い出せるんだ。
「はぁ……愛しいわ。チチカカ湖……」
「いつまで中二病続けるん?」
「だから病気じゃ……!」
いいかけて、はっとあたしは口を噤んだ。それからゆるゆると首を振る。
「そう……そうね。病気かもしれないわね。この愛しさ。懐かしさ。まだあの地はあるのに、辿りつけないもどかしさ……!」
「いやほんま、なんでうちあんたの友達やってんねやろ」
「沙羅は冷たすぎるわ」
「ふつーです。なんで下校途中のマクドでチチカカ湖やねん。ふつーは恋バナとかするやん?」
「恋? ハッ」
唐突な単語に、あたしは思わず鼻で笑った。
恋? それはあれですか。ラブですか。ラブってやつですか? だとしたら、答えはひとつ。
「バカげてるわ」
「はぁ」
生返事をする沙羅に、あたしはピシっと指を突きつけた。
「いい、沙羅? あたしは首長の息子に嫁いだのよ」
当然のように一夫多妻制ではあったけど! けど! 一番愛されていたのはあたし――ってかイネスだったんだから!
「首長よ? 首長の息子よ? 言ってしまえば次期王様!」
「言い過ぎ。村長レベルやろそれ。せめてほんまにインカの王様に見初められてたら良かったのに」
「庶民に何を求めてるのよ!?」
「うちはもうあんたと会話するのが疲れるっていうか……」
あたしはがしっと指を組んだ。うっとりと、目を閉じる。そうすればほら、今もまぶたの裏にはあの空が見えるのよ。美しい、あの、深く澄んだ青い空が!
その空を背景に、爽やかに笑う彼の姿を思い出す。浅黒い肌。太い眉毛。体つきはがっしりしていて、色鮮やかな衣装がよく似合っていた。
「彼は素敵だったわ。魚をとるのも上手だった! 力強い腕をしていたわ」
「漁師と結婚したいん?」
「それなのに、どうよ!? この現代日本男子の不甲斐なさ!」
「聞いてへんし」
あたしは興奮に任せてもう一度ばんっと机を叩く。顔をしかめて、告げた。
「特に許せないのがアレよ、アレ。なんだっけ? く……」
「く?」
「草系?」
「草食系男子な。草系て、ポケモンちゃうねんから」
「こうかはばつぐんだ!」
「黙っとれ」
ちぇー。沙羅はあたしの嘆きをちゃんとは判ってくれないんだ。
今のあたしだって彼に嫁いだイネスと同じくらいの歳だもん。彼ぐらい素敵な人がいればラブだってそりゃしてみたいんですよーだ。
でもいないじゃない、そんな人。
彼より素敵な人なんて、もうこの日本にはいないんだ。今回の生ではきっと出逢えないんだから。
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