第4話:記憶の欠片を拾い集めて

美琴みことっ」


 案の定、病室には誰もいなかった。開け放たれた窓から吹き込む風に、白のレースカーテンが揺れている。微かなはずの波の音がいつもより大きい。ゆっくり深呼吸して部屋を見渡すと、ベッド横に置いてあるはずの車椅子がないことに気が付いた。


「まさか……」


 病室を出ると、屋上へ向かう階段を駆け上がる。息を切らしながら屋上へと続く扉を開けると、海から吹き込んでくる風が勢いよく舞い込んできた。鋭く刺しこむ西陽に思わず目を細める。陽射しを左手でよけるようにして目を凝らすと、車椅子に座り、柵越しに海を眺めている美琴の後姿があった。


「美琴、戻ろう。今日は冷えるから」


「キミは誰?」


 彼女の右手にはスケッチブックが握られている。


前島楓太さきしまそうただよ」


 何度目だろう。彼女に自分の名前を伝えるのは。


「颯太……」


 こちらを振り返った美琴の瞳には涙が溢れていた。


「飯田に、何か言われたのか?」


「私はキミを忘れる。だけれど、キミは私を忘れられない。それが、どれだけ苦しいことかさえ、私にはわからない」


「俺は大丈夫だから」


「私はキミとは一緒にいられない。どうしたって私は私じゃなくなるの。キミに辛い想い、これ以上させたくないよ。だからもう、お互いに忘れた方がいい。中途半端な記憶でつなぎとめられるほど、感情は単純じゃないのっ」


「感情は単純じゃないかもしれない。だけれど、誰かを想うのに複雑な理由なんかいらないだろっ」


「嫌って」


 美琴はスケッチブックを掴んだ右手を高々とあげる。それは、これまで少しずつ積み重ねてきた僕らの物語、そして美琴にとって、僕という存在の全て。


「何してんだ」


「お願い、私を嫌って。こんな私をもう忘れてっ」


「そんなこと、そんなことできるわけない」


――美琴は楓太くんをいつだって忘れられる、でも楓太くんはいつまでも美琴を忘れられない、そんなの不公平よ。


 悲しみと苦しみにまみれた飯田の言葉が、僕の頭をスッとよぎっていく。


「明日に続かない。私は時間に閉じ込められているの。時間の檻の中にいるのよ。これから先もずっと。でも、楓太は時間から自由になるの。ここにいてはいけないの」


 美琴はそう叫ぶと、スケッチブックを一枚一枚破っていった。


「やめろっ」


「さようなら」


 破り捨てられたスケッチブックの断片が海風にあおられ、朱に染まる空に舞う。美琴は僕を忘れたんじゃない。自らの意思で僕の記憶を捨てたんだ。


 薄暗い海岸に散らばるスケッチブックの紙切れ。それは断片ではあるものの美琴の記憶そのものだ。もちろん全部を拾い集めることはできなかった。病院の屋上から破り捨てられたスケッチブックの紙切れは、街中に散らばってしまったから。


「私のせいで、ごめんなさい」


 そう言った飯田はスケッチブックの切れ端を拾うのを手伝ってくれた。


「お前、不公平って、言ってたよな」


「えっ?」


「美琴は忘れてしまうのに、俺は忘れることができないって……。いや、別に飯田を責めているわけじゃない。ただ、忘れたい記憶って、誰しもが持っていると思う。そうだろ?」


「えっと、うん」


 飯田はコクンとうなずくと、拾い集めたスケッチブックの断片を手渡してくれた。


「でも、忘れようと思えば思うほど、人は忘れられない。そうじゃないか?」


 飯田はうつむいたまま、小さくうなずいた。本当に捨て去りたい記憶こそ、一生向き合っていかなければいけないのだ。それは、僕自身の問題でもあり、そして飯田にとってもまた同じこと。僕は飯田の気持ちを、ずいぶん前から、なんとなく分かっていた。その気持ちに答えることができないからこそ、無意識に彼女を避けていたのかもしれない。


 翌日、僕はいつものように美琴の病室に訪れた。スケッチブックはボロボロになってしまったけれど、それでも拾い集めることができた記憶の断片を、彼女と一緒につなぎ合わせることができればと願う。


「美琴」


「キミは……」


 僕は自分の名を問われる前にスケッチブックを彼女に手渡す。ベッドの上でうつむいていた美琴は、スケッチブックをギュッと胸に抱えると、その肩を小さく震わしていた。


「キミが私を忘れれば、私は何も考えずにキミの存在を消すことができる、できるはずなのにどうして……」


「日々リセットされるなら、またそこから始めればいい」


「どうしてそこまで……」


「僕は、美琴の記憶になりたいから」


「楓太……」


「きっと、大丈夫」


「私、キミのことが好きだよ。昨日のこと良く覚えていない。明日どうなるかも分からない。でも今日、私はキミが好き」


 出来事の意味や価値は、時間と共に変わっていくという意味では、人は誰しもが今日を忘れていく。でも、今日を忘れてしまっても、今日の出来事そのものが消えてしまうわけじゃない。記憶は確かに自分というものの同一性を基礎づけている。だけれど、自分そのものの存在根拠とは違う。


「ありがとう。僕は君と同じ物語を歩いていきたいと、そう思うよ」


 記憶は意識や頭の中よりも、むしろ世界の側に沢山保存されている。


「また明日、キミに会いたい」


 あの夕景を見れば、君の横顔を今でも鮮明に思い出せるのだから。

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記憶の欠片、夕空を舞う 星崎ゆうき @syuichiao

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