第3話:また明日会えるように

「キミは誰?」


 リセットされる風景。それはいつだって新しい体験だけれど、時間のループから抜け出せない経験。記憶が維持されるというのは、日々の繋がりを実感することに他ならない。


「僕は前島颯太さきしまそうた


 途切れた時間、それを繋ぎ合わすことで断片的な時間は物語となっていく。とはいえ、それは必ずしも希望に満ちた幸福な物語だけではない。むしろ連続的な絶望の中で、苦しみもがく物語の方が日常に近いのかもしれない。


「颯太。綺麗な名前ね」


 物語を紡ぎだすこと、それは彼女にとって本当に幸せなことなのだろうか。スケッチブックを手にしながら、そんな葛藤で胸がいっぱいになる。僕のことを覚えていてほしい、それは僕自身の望みであって、美琴みことの意思ではないのだから。


「砂浜から見える夕焼けが好きで、その場所で君のことも好きになった」


 だとしても、僕はもう一度、君と過去を語り合いたい。これから先のことを話していたい。同じ物語を一緒に歩いていきたい。


「夕焼け……」


 スケッチブックを取り出すと、僕はそこに自分の名前を書いていく。


「記憶が続かないって話は覚えているか?」


「よく覚えていないけれど、なんとなくは分かるし、そうなんだって、今朝お母さんから聞いた」


 思いのほか、彼女は落ち着いていた。


「よかったらなんだけど、今日の出来事をこのスケッチブックに書き残しておかないか?」


「えっと……」


 美琴は戸惑いながらも、僕が差し出したスケッチブックを手に取る。


「前島……楓太」


 互いに好きという感情を共有し合えた頃の美琴は存在しない。


「私もキミが好きだったのだと思うけれど、今の私にはそれがどういう感情だったのか分からない。ごめんなさい」


 美琴が記憶と共に失ったのは、誰かに特別な想いを抱くと言う感情。


「謝ることなんかじゃない。そんな、全然気にしなくていいから」


「そこに、座って楓太」


 僕は彼女が指差した先の椅子に腰かける。美琴は、床頭台の上に置いてあった鉛筆を取り出すと、スケッチブックに何かを書き始めた。


「何を書いているの?」


「動かないで」


 そう言って黙々と鉛筆を動かしていた美琴は、やがて手を止めると、僕を見つめ 「キミの絵を描いている。また明日会えるように」 とつぶやいた。窓の外から吹き込んでくる海風が、美琴の前髪を静かに揺らしている。


――また明日、会いたい人がいる。


 美琴に気づかれないように、僕は頬を伝う涙をぬぐった。


「動いてはダメよ楓太」


 スケッチブックに記録を付け始めた美琴は、記憶こそ戻らないものの、僕の存在を理解してくれるようになった。美琴にとっては毎日初めて会う僕なのだけれど、スケッチブックに刻まれた出来事の記録は、昨日の僕と今日の僕を繋いでくれる唯一の物語として、彼女の風景を支えていたのだと思う。


 二学期が始まり、美琴に会える時間は、病院の面会時間の終わり迫る夕刻だけになってしまった。いつものように、薄暗い病棟の廊下を歩いていると、向かいから同じ高校の制服を着た女の子が向かってくるのに気が付く。


「飯田……」


 隣りのクラスの飯田沙織いいださおりは、美琴とは中学時代からの友人だった。


「美琴の意識が戻ったって連絡があったから。楓太くん、毎日ここに通っているの?」


 飯田は美琴と僕が付き合っていることも知っている。


「うん、まあ」


「私のことは覚えていたけれど……」


「記憶のこと、聞いたか?」


「うん……」


「そうか。いつか元に戻るって、そう信じるよりないけどな……。じゃ」


 僕はそう言って、飯田をその場に残し、面会時間の終了が迫る美琴の病室へ足を向けた。


「新しいことも覚えられないって、美琴のお母さんから」


 飯田の少し大きな声が廊下にこだまする。その声にこもった感情に、僕は思わず後ろを振り返った。


「颯太くん、苦しくないの?」


「えっ?」


「大好きな人に忘れられて、やり直したくても、もう美琴は楓太くんのこと覚えていられないなんて……」


「飯田?」


 飯田は泣いていた。その悲しみの矛先は一体、誰に向けられているのだろうか。


「美琴は楓太くんをいつだって忘れられる、でも楓太くんはいつまでも美琴を忘れられない、そんなの不公平よっ」


「飯田、お前、美琴に何を……」


 直観的に嫌な予感がした。胃の底から不安の情動が湧き上がる。僕は薄暗い廊下を駆けださずにはいられなかった。


「颯太くんっ」


 飯田の声が、誰もいない外来受付に響いていた

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