第2話:積み重ならない景色
病室の扉を開けると、ベッドから上半身を起こしていた
「美琴……」
面会時間はとっくに過ぎていたが、家族という事にしてもらい、特別に入室を許可してもらうことができた。美琴は少しだけ痩せてしまったけれど、一か月前と変わらない大きな瞳で僕を見つめていた。
「美琴、
彼女の母親はそう言うと、僕をベッドわきにおいてある椅子に座るよう促す。
「美琴、大丈夫か?」
椅子には座らず、ベッドの脇で彼女の白い手を握る。すると彼女は振りほどくように手を払いのけ、明らかな敵意を含んだ表情で僕をにらみつけた。
「キミは……誰?」
「えっと……」
美琴は、言葉に詰まる僕から視線を外すと、「お母さん、この人誰?」と言って母親を見上げる。
「美琴? 楓太くん、
「こんな人、知らない……。出ていって」
僕の体が現実を受け入れることを拒否しているように、足が勝手に後ずさりを始める。
「あ、あの、今日は帰ります。お騒がせしてすみません」
呆然と立ち尽くす美琴の母親に頭を下げ、僕は踵を返した。
「颯太君。ごめんなさい。きっと、すぐにはいろいろ思い出せないと思うの。明日には主治医の先生とも相談して……。きっと良くなるから……」
「ええ。もちろんです。きっと、大丈夫。お母さんも無理なさらないでください。では、失礼します」
僕の記憶がないという事は、少なくともこの一年間の記憶がないということ。
――きっと大丈夫。
きっと……って、便利な言葉だな。
★
主治医の説明によれば、事故により受けた精神的なストレスが、記憶と司る脳の機能に何らかの影響を与えているのだろうという話だった。画像検査でも、脳自体に大きな障害は見られないのだという。彼女の症状について、なんとなく歯切れの悪い説明が終わった後、僕は美琴の母親と共に、病室横の小さなカンファレンスルームを出た。
「美琴に会っていく?」
美琴の記憶は、ただ喪失しているだけではない。その現実から目をそらさないで、彼女と向き合えるか、と言えば、正直なところ自信がない。結局、傷つくのが怖いのは自分自身なんだ。だから昨日、僕は急用を理由に美琴には会わなかった。
「これから先、僕のことを毎日忘れるのだとしても、僕は、美琴さんに会いに行きますよ」
言葉は感情と理性の境界で戸惑っていく。自分に素直に生きられるほど、世の中は単純でもないし、感情の波間を制御できるような冷静さを取り繕うこともまた難しい。
静かな病室のベッドの上で、窓の向こうに広がる微かな水平線を眺めながら、ゆっくりと僕を振り返った美琴は「キミは誰?」とつぶやいた。
「颯太君。昨日も説明したでしょ? あなたの恋人で一年前から付き合ってるって」
彼女は一昨日と同じ質問を僕にする。それは明日になっても、明後日になっても繰り返されるのだろう。美琴はただ記憶を失っているだけじゃない。今日の景色を明日に引き継げないのだ。
「昨日……。昨日、私は何をしていたの? 」
彼女にとって、太陽は日々新しい。
「昨日は車椅子に乗って、病院の中庭を散策したのよ。波の音が聞きたいって美琴が言ったから」
「分からない……。よくわからない」
彼女は頭を抱えて、「昨日は……」と何度か呟くと、ついには「分からない」と叫び、暴れ出してしまった。物静かで、落ち着いた声しか聴いたことがなかった美琴からは、想像もできない姿に、頭が真っ白になる。
「落ち着け、美琴っ」
僕は取り乱す美琴を抱きしめた。もともと華奢な体だったけれど、ひと月の入院でさらに痩せてしまった。でも、彼女の胸からは確かな鼓動が伝わってくる。生きていてくれてありがとう。もう、それだけで、それだけで十分だよ。十分なはずなのに……。
――なんで涙が出てくるんだ。
「大丈夫。ゆっくり深呼吸だ。お母さん、そこのナースコールで看護師さんを読んでください」
彼女の背中をそっとなでる。昨日のことが分からない。それはつまり、昨日の記憶もない。明日になれば今日のことも分からなくなる。美琴にとって、僕はいつだって知らない人。
『状況から考えられるのは、何らかの理由で一年ほど前からの記憶が喪失。新しく記憶を形成することもまたできなくなってしまったという事です。非常に珍しいケースですが、海外でも似たような症例報告がありまして、その患者さんでは、数か月後に、少しずつ記憶が戻っていったという話です。何がきっかけになるか分かりません。積極的に会話をされると良いでしょう』
カンファレンスルームでの医師の説明が、繰り返し頭の中で再生されていた。
その日、家に帰る途中で、僕は房具屋に立ち寄り、小さなスケッチブックを買った。彼女自身の中に記憶が維持できないのなら、彼女とは別の場所に記憶を積み重ねていけばいい。その日の出来事を、美琴と一緒にこのスケッチブックに残しておこう。僕たちの足跡が、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないのだから。
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