記憶の欠片、夕空を舞う

星崎ゆうき

第1話:夕景に奪われる感情

 緩い風が、白いレースのカーテンを跳ね除け、その隙間から西陽が差し込んでくる。茜色の病室で、美琴みことは白いベッドの上で眠ったままだ。あの事故以来、一度も目覚めていない。


 風が緩むと、カーテンは窓に張り付き、部屋の茜が少しだけ陰る。光を失いつつあるこの部屋で、無意識にため息がこぼれ出てしまう。


「どうして……」


 遠くない場所から聞こえてくるのは微かな波の音。それをかき消すかのように、ベッドの脇に置かれたモニターから断続的に鳴り響く電子音。それは美琴の鼓動と同期しながら、ただ空白の時を刻み続け、そして一か月が経ってしまった。


 この病院は海辺の幹線道路に隣接している。だからこの病室にも、潮の香りが舞い込んでくる。僕は椅子に腰かけたまま、顔を上げて窓の外に視線を向けた。陽が沈みかけた空は色彩が濃い。


颯太そうたくん、まだいたのね」


 そう言って病室に入ってきたのは美琴の母親だ。


「ええ」


「もう、今日は大丈夫よ。あとは私がついているから」


「はい……」


「大丈夫、時機に意識も戻るし、きっと心配ないわよ」


 幾度となく繰り返される言葉は、やがて説得力を失っていく。だけれど、希望の灯を絶やさないようにと、人は同じ言葉を繰り返す。


 薄暗い廊下を抜け、入院病棟を抜けると人気は少ない。外来が既に診療を終えているからだろう。誰もいない受付を足早に通り過ぎ、病院の外へ出ると、太陽は穏やかな水平線に沈みかけていた。


 西陽を浴びながら、僕は海沿いの道を歩く。また明日、同じ太陽が東の空から上ってくるのだと、誰しもが信じているし、そこに疑いの余地はない。


 でも、天文学も物理学も存在しなかった時代に生きた人々は、西の水平線に沈んだ太陽が、東側から上ってきた太陽と、全く同一のものだなんて、本当に信じていたのだろうか。太陽は日々新しい、そんなふうに考えた人もいたと思う。昨日と今日を繋ぐもの、それは僕らが想像するよりもはるかに脆くて、つかみどころのないもののはずだ。


 歩道わきから砂浜に向かう小さな石段を降りていく。波の音が近づくにつれて、美琴と初めて出会った時のことを思い出す。


 僕はこの海岸で、夕景の写真を撮るのが好きだった。高校一年の夏、それは一年ほど前。あの日も歩道わきのベンチで、陽が沈みかけるのを待っていたんだ。そんな僕の横に一人の女の子が座った。


 彼女が同じクラスの上原美琴うえはらみことである事には気が付いていた。朱に染まる陽の光の中で、彼女はただ夕空を眺めていただけなのだけれど、理由もなくその姿に釘付けになってしまった。そんな僕の視線に気が付いたのか、彼女はゆっくりこちらを振り向いた。ショートボブの後ろ髪が風に揺れ、大きな瞳が僕の視線を捉える。「キミは何を見ているの?」とつぶやいた彼女のインパクトは圧倒的だった。


「僕は……」


 あの時、僕は何を見ていたのだろう。世界の色彩が移ろいで行く、その瞬間を垣間見たいと思って、カメラを握りしめていたのは確かだ。そう、あの日も、こんな夕景が僕らの前に広がっていた。


「私はね、この景色の中に溶け込みたいと思うんだ。昼と夜の境界線が消えていく瞬間。ねえ、知ってる?」


 彼女の問いかけに僕は何も答えることができず、ただ、水平線に飲み込まれていく太陽を見つめているだけだった。


「太陽の下の端が水平線に触れてから、太陽の上の端が完全に地平の彼方に沈むまで、たった百二十秒」


 彼女はそう言って、ベンチから立ち上がると、僕の目の前に立って両手を広げた。たった百二十秒で、世界の色彩が大きく変化していく。一瞬で感情を奪い去っていく彼女の存在が果てしなく眩しかった。


 海の向こう側まで続いていた赤い光は徐々に藍色に飲まれ、やがて闇に変わっていく。ふと気が付けば、僕の背中から照らす街灯の光が、真っ黒な砂浜に微かな影を落としていた。


 すっかり陽が沈んだ住宅街を抜け、僕は自宅に帰る。誰もいないリビングを足早に通り過ぎ、自分の部屋に入るとベッドにうつ伏せた。


 机の上には、美琴の写真が置かれている。あの砂浜で僕が撮ったものだ。何も変化のない日々。変わりない、というのはしばしば大切なことだと思う。しかし、変化の無さはまた、希望を損なわせる力を併せ持っている。もう一度、君の声を聴きたい。そう願わずにはいられないのだけど、願い続けるだけの心の強さを持てるほど、僕には余裕がない。


 写真たての脇に置いた携帯端末が鈍く光を放ち、着信を知らせていた。重たい体をベッドから起こし、暗い部屋にぼうっと浮き上がる端末に手をのばす。画面を確認すると着信は、美琴の母親からだった。


『颯太君? 美琴の意識が戻ったのよ。今日はもう遅いから明日にする?』


 それは確かな奇跡だった。時刻を確認すると十九時を少し回ったところだ。自宅から病院までは自転車なら十五分ほどしかかからない。


「いえ、今から行きます」


 止まってしまった一カ月という時間が動き出す。僕はそう信じていた。

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