第2話 クラゲの窓─二─
「私、しいちゃんに言わないといけないことある」
私は、いつものように彼の部屋で彼と向かい合って座り切り出した。
「あのね、私、しいちゃんのことそんなに好きじゃない。朝の目玉焼きも、お弁当のおむすびも、仕事の話も、どうやって受け取ったらいいかわかんない。だから、私、出ていきます」
しいちゃんは、困った顔になって、次に捨てられた子犬のような顔になった。しいちゃんの透明で優しい目。
「わかった、だけど、明日にしよう」
優しいしいちゃんは、30分説得したら条件付きでうなずいた。
「ねぇ、しいちゃん。ホットミルク飲みたい」
別れたがる女からこんなことを言われたら普通は怒るだろうけど、しいちゃんは立ち上がって、二人分のホットミルクを淹れ始めた。台所に立つしいちゃんの、影で青っぽい灰色に染まる背中をみて彼がどれだけ私のことを好きなのかなんとなく感じた。
「しいちゃん、私のこと好きだね」
「そうだね。好きだよ」
私が、荷物を全部積めて、スケッチブックを開いたところで、湯気をたてるマグカップを二つ持ったしいちゃんが戻った。
「ねぇ、しいちゃん、捨ててきた元カノの話して」
「別に捨ててきた訳じゃないよ」
私が、パレットに絵の具を出しながら言うと、しいちゃんはばつが悪そうな顔をした。
私は、しいちゃんに断りをいれずにアルミサッシの窓をほんの少し開けた。雨が入る、と心配するしいちゃんにこれだけだから入らないと言ってあげた。
「で、話してよ?」
「......名前は紀子さん。変わった人だったかな」
しぶしぶといったかんじで話始めたしいちゃんをみて私は、筆を持った。
「変わったってどんな風に?」
「なんとなく。はっきりとは言えないけど」
煮え切らない態度に、紀子さんを好きじゃなかったのか、と訊くと彼は困ったように首をかしげた。
しいちゃんはしばらく思案するような表情をしてから、お父さん座りの片方の膝を抱えると、その立てた膝の上に頬を乗せた。
「紀子は、あっさりした人だった。僕のどこが好きかってきくと誠実だからの一言で終わらせてしまうような人で、好きなものも言わなければ、記念日も作らない人だった」
私は、筆をおいて、冷め始めたホットミルクに口をつけた。
「しいちゃんのこと何て呼んだの?」
「しまだくん、だったかな」
「その人に会ってみたい」
「......のりこは、自分の部屋の窓をクラゲの窓って呼んだよ」
しいちゃんの、寂しそうな顔は今までみた中で一番きれいだと思った。
「クラゲの窓」
私は、窓の方を振り返り、雨粒が控えめに光るのを見た。確かに、クラゲが浮かんでても良いような気がした。
私は、スケッチブックのなかのしいちゃんの回りに雨粒と、雨に浮かぶクラゲを描いた。
「しいちゃん、その人のことちっとも好きじゃなさそうなのに、頭に住み着いてるのね」
私は、その知らない女の人としいちゃんのキスするのを想像してみた。それは、なんだか悪いことのような気がして、私がその人にキスをしたことにした。
そっちの方がなんだか正しいような気がした。
翌日、私は、家を出た。
多分、これからしいちゃんよりもかっこいい男の子と、恋をするけど、あの人のことを思い出すしいちゃんのさみしい顔は、一生色褪せないだろうな、となんとなく感じた。
私は、空の写る雲をみて、消えてしまったクラゲを思った。
クラゲの窓 三枝 早苗 @aono_halu
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