クラゲの窓

三枝 早苗

第1話

 私が、ドアをノックすると、隣の奥さんが、ちぎりぱんみたいな腕でドアを開けた。

「いらっしゃい、ゆるしの会へようこそ!」

奥さんは、金縁の眼鏡の奥の瞳にベッタリと、だけど、どこか優しい微笑みを浮かべ私の手を取った。

 「さぁ、みんな揃いましたねぇ?」

奥さんは、幼稚園の先生のようなトーンで話した。

「それでは、皆さん、椅子に座って」

ガタガタと音を発てながら女性たちはみんな、木の椅子にすわった。

「女性だって、ストレスがたまることもありますよね?誰かにイライラしてしまうこともあると思うの。でも、負の感情って疲れますでしょ?──だから──私たち、みなさんでそういった負の感情を追い出しましょう!」

数人の人がコクリコクリとうなずいた。

 「それでは、思い出して。負の感情を」

 私は、奥さんが、目を閉じて、というのをぼんやりと聞きながら、島田くんのことを思い出した。

 

 「ごめん、好きな人ができたんだ」

島田くんが、気まずそうに切り出したとき、私は、たいして驚かなかった。

 「誰?説明を聞く権利くらいはあるよね?」

その日、私は、とびきり綺麗な格好をしていた。

「もちろん。」 

島田くんは、控えめな黒淵の眼鏡を押し上げながら頷いた。

「僕は、──その──その子とは、友達の送迎会で初めて会ったんだけど、──絵を描く子なんだ──、それで、なんていうかビビっと来たんだ」

真面目な島田くんは、一字一句丁寧に話した。

「そっか。ビビっとかぁ......」

私は、あーぁ、と仰け反って髪をかきあげた。

「それなら、仕方ないね」

私は、島田くんの誠実そうで薄い瞳を見た。そとに出ると溶けちゃうクラゲみたいな瞳。

 「最後に、水族館に行かない?」

島田くんは、私をふったことに後ろめたさを感じていたのか、ゆっくりと、﹙しかし、浅く﹚うなずいた。

 「覚えてる?前に、ここ来たときに、クラゲのとこに長く居座ったこと」

「うん。紀子は、クラゲと僕が似てるって言っただろう、あれ、未だによくわかんないよ」

島田くんは、今日一番、愉快そうに笑った。

「それでさ、紀子の部屋の窓も、クラゲみたいだ、とか言い出してさ」

島田くんの話を聞きながら、私は、自分の部屋の窓を思い浮かべた。レースのカーテンから透ける湿っぽい曇り空が、クラゲのようだと思った。

「......クラゲの窓」

「クラゲの窓」 

私が言うと、島田くんも反芻するように言った。

 暗くならない内に水族館からでてあっさりと、さよならを済ませた。


 私は、本当は島田くんの新しいガールフレンドを見たことがある。

 軽薄そうな女の子。若くてエネルギーに溢れてるけど、島田くんのことはそれほど好きじゃない。そんなこと人目でわかるのに、島田くんは、私じゃなくてその子を選んだ。

 かわいそうな島田くん、心からそう思った。

 島田くんが、その選択を後悔することを知った上で私は、あの日、わざと綺麗な格好をして、わざと、水族館に誘った。

 私は、島田くんのことは本気で好きだったけど泣いたりしなかったし手料理も振る舞わなかった。引き留めるためのセックスさえしなかった。

 きっと、ぼんやりした島田くんは私のことを忘れられない。クラゲの窓、何て言葉、真っ直ぐで、真面目な島田くんは一生かかっても思い付けなかっただろうから。

 「私、許します」

目を開けると一番にそう言った。

奥さんは、ぽつんと、取り残されたヒヨコみたいな顔をした。

 「私、元カレのこと許します。......もう、帰りますね」

すみません、ありがとうございました、そういいながら私は、かわいらしいドアノブを押した。

 奥さんの、あれが手本よ、みんな頑張って、という声が聞こえた。

 後ろ手で扉を閉めてから、私のことは、お手本にしない方がいいと思うなぁ、と呟いて、家に向かった。


 かわいそうな島田くん。彼はきっと、別れの日におしゃれをして、水族館に行くような女の子にはもう二度と会えない。だから、私のことも忘れられない。私は、野菜を刻みながらスッキリとした気持ちで、かわいそうな島田くんを思った。

 ひょっとしたら、私は、最初から許す資格なんてないんじゃないか、そんな思いが、一瞬頭の片隅を横切ったが、夕食の肉じゃがを作る内に忘れてしまった。

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