猫の同居人【後編・夜】
その夜、俺は駅周辺まで出張してみることにした。
思い立ったきっかけは、台所の皿に盛ってあるメシが普段よりも多めだったことだ。となれば十中八九、湯島の帰りが遅い。
もちろん、メシが大盛りじゃなくたって遅い日はある。が、そんなときは大抵酔っ払って帰ってくるし、逆にメシが増量されてた日は絶対に飲んだくれて帰らない。
ということは、だ。
ひょっとしたら、オカマの言ってたバイトとやらって可能性もあるんじゃないのか──? マグロとささみミックスのカリカリを貪りながら、俺は不意にそう閃いた。
ついでに、湯島に拾われて以降どんどん行動範囲が狭くなり、ここのところ運動不足気味なことも気になってはいた。この機にご無沙汰してるエリアまで足を伸ばせば、しばらく会ってない仲間とも顔を合わせるかもしれないし。
というわけで、俺はメシの皿を空にするとブラブラ偵察に出かけた。
ちなみにメシの量と飼い主の帰宅パターンの規則性に気づいたのは、わりと最近のことだ。
何かあるんだろうと薄々思ってはいたものの、まさか仕事帰りのバイトだとは考えもしなかった。
他でもない湯島だ。よくこれでリーマンとして通用するもんだと感心するほど、日々やっとのことで通勤してるような野郎にダブルワークが務まるなんて、どこの誰が思いつく?
オカマの言う駅北側の住宅地付近のバー、という情報には心当たりがあった。
大通りから一歩入った閑静なエリアに佇む、小ぢんまりとした雑居ビルの一階。落ち着いた木目の重そうな扉、看板はない。黒い壁には縦長の細い窓が等間隔で嵌め込まれていて、暗いガラスの向こうに客らしき影がぼんやりと窺える。
オカマの話を聞く限り、該当するのはここしかなかった。
が、そうそう都合よく期待通りのものを目撃できるなんて甘い考えは俺だって持っちゃいない。まぁ、あわよくば……くらいの軽い気持ちだった。
開いた扉から出てきた2人の女のうち片方が、こんな声を上げる瞬間までは。
「ごちそうさまでしたぁ、今日はコウセイくんいてラッキーだったぁ。ほんっと、たまにしかいないんだもんねぇ」
今朝の巨乳に負けず劣らずの甘ったるい声を弾ませたのは、ピンクのヒラヒラスカートの女だ。
その隣で脚線美を強調する黒いスキニーの女が、拗ねたように頬を膨らませた。
「せめて週イチとか入ってくれたら、もっと通うのにぃ。それどころかシフトもギリギリまでわかんないとか、もうさぁ……連絡先も教えてくんないしね!」
女たちの手前で、こちらに背を向けた店員が愛想良くあしらうのが聞こえてくる。酔客たちほどのボリュームはなくとも、俺の聴覚はその声をしっかり捉えていた。
「俺の連絡先はスタンプカードのポイント交換ノベルティなんで」
「スタンプカードとか見たことないんだけど」
「ちょうだいよ、スタンプカード」
「すいませんね、ここにあるんで配れないんっすよ」
軽く笑って己の胸を指す仕草に、俺は震撼した。
なんだ? その、連絡先を知りたきゃオレのハートにポイント加算してくれ的な、歯の浮くようなリップサービスは……?
が、内容もさることながら最も戦慄すべきポイントは、声といい滑舌のかったるさといい、それが間違いなく湯島だという事実に他ならなかった。
オカマの言うとおり、コイツは別人みたいなよそゆきバージョンだ。
もぉう、コウセイくんったらぁ、などと可愛くフテくされて去っていくメス2匹。彼女らを見送る後ろ姿は、頭が寝グセだらけじゃないこと、背筋がまっすぐ伸びてることさえ除けば、確かに目に馴染んだ飼い主の背格好だった。
身長はもちろん、細身のくせに意外と筋肉質な白シャツの背中だとか、でもやっぱり細いブラックエプロンの腰だとか、その内側で黒いボトムスに包まれた小さな尻だとか。
店内に戻るときに振り返りでもすれば顔も見えるんだろうが、あの向きのまま引っ込まれたら確認のしようがない。
──まぁ確認なんかするまでもなく、湯島だけどな。
いつのまにか飼い主の存在が骨身に浸透しちまったらしい己を、我ながら不甲斐ない思いで俺が実感したときだ。ヤツが突如、何かを察知したようにハッと振り向いた。
その顔は果たして、オカマの言葉を借りるなら「どっからどう見てもやっぱりコウセイくん」だった。
が、何かを警戒するように素早く周囲に目を走らせた表情は、普段見せる怠惰とは無縁のものだ。
何だ、あの顔……?
もう一度、今度はゆっくり視線を巡らせてから、湯島は何事もなかったかのような風情でドアの向こうに消えた。どうやら、俺の気配に気づいたわけではないらしい。
何たって、巨乳の言葉を借りるなら「あんな真っ黒い」俺だ。ボロアパートの部屋でも、寝ボケた飼い主に踏まれかけること数知れず。闇に紛れるなんてのはお手の物だった。夜の暗がりで植え込みの陰に潜んでいれば、まず気取られる恐れはないと言っていい。
それともボロアパートではうっかり俺を踏みそうになるアイツも、別バージョンには暗視装置かソナーでも付いていて、自分ちの飼い猫の気配を嗅ぎ取りでもしたんだろうか?
飼い主が帰ってきたのは、俺がウトウトし始めてしばらくした頃だった。
万年床からゴソゴソと顔を出すと──寒さが増すにつれ、俺は定位置のロウテーブル下じゃなく布団に潜り込むことが多くなった──妙に疲れた顔で靴を脱いでいた湯島は、それでもこっちを見た途端にだらしなく表情を弛めた。
「あー、起こして悪ィな、アダム」
言いながら近寄ってくる野郎は、白シャツにブラックエプロンはどこへやらのくたびれたスーツ姿だ。
目の前に屈み込んだ気の抜けた姿勢も、弛緩しきった笑顔も、やたら執拗にグリグリと俺を撫で回す手のひらも、いつもと変わらない。呆れたことに、よく見れば髪すら普段通りの寝グセ頭っぽく戻してやがる。
何故、そこまでゴマかす必要がある──?
一体、誰に対する隠蔽工作なんだ? まさか俺ってことはないだろう。
ひとしきり俺を撫で回して気が済んだらしい湯島は、皿にメシを補充して水を入れ替えると、上着を脱いでネクタイを外し、ベルトのバックルを解いてシャツも脱ぎ、紫色のパンイチ姿になって風呂に消えた。
そして黄色いパンイチ姿に変身して頭を拭きながら出てきたときには、万年床の上で胡座を掻く隣人を見ても表情ひとつ変えず、やっぱりいつもと同じテンションでこう言っただけだった。
「こんな夜中に人んちで何やってんだ?」
「お前、そんな格好でウロつきたきゃ鍵かけろよ、いい加減」
「もうすぐ丑三つ時だぜ?」
「だったら何だ、話聞いてんのか」
「鍵のことなら、別にお前にグダグダ言われる筋合いねぇし」
「てか、ペットがいるのに丑三つ時までほっつき歩いてんなよ」
「はぁ? 失礼なこと言うな、アダムはペットじゃねぇ」
「だったら何なんだ」
「同居人だ」
そうだったのか、初めて知ったぜ──
布団の端っこで丸くなっていた俺は、身体を起こして伸びをしてから台所に歩み寄り、メシの皿に鼻先を突っ込んだ。
部屋の主が風呂に入ってる最中、当たり前のように入ってきて当たり前のように布団の上に腰を据えた隣人は、落ちていた煙草の箱から1本引き抜こうとして俺と目が合うなり、気のないツラで蓋を閉じて畳の上に放った。
それから俺に向かって訊いた。
「なぁ、お前の飼い主は新入りとも寝てんのか?」
知らねぇよ。
俺はできる限りそんな意を目に込めて見返したが、伝わったとは思ってない。
根津は鼻で軽く笑い、立てた片膝に頬杖を突いて表情を引っ込めた。そしてポツリと漏らした。
「アイツは一体、何なんだ?」
呟きの意味はわからなかったが野郎はそれ以上何も言わず、部屋の主が現れるまでの間、俺たちは互いに適度な距離感を保って無言で過ごした。
「──んで、何しにきたんだよ?」
風呂から出てきた飼い主、否、どうやら俺の同居人だったらしい男が隣人に尋ねた。
かと言って別に答えを聞きたいわけでもないようなツラで、カーテンレールにぶら提げてあったTシャツを針金ハンガーから剥がして被り、布団の上に放ってあったジャージに手を伸ばす。
その手を隣人が掴んで万年床の上に引き摺り倒す光景を、俺はニボシとカツブシ混じりのカリカリをがっつきながら眺めていた。
蛍光灯の白々しい灯りの下、穿きたての黄色いローライズを剥ぎ取られた湯島がTシャツ1枚で万年床に縫いとめられ、根津がのし掛かる。
まとめて押さえ込まれた両手は、でも本当は跳ね除けることができるんじゃねぇのか。俺は思ったが湯島はそうはせず、真上にある隣人の顔を眠たげな目で見上げて醒めた声を投げた。
「昨日さんざん巨乳のお姉ちゃんとやってたくせに、まだ足んねぇのか?」
「なんで昨日が巨乳だったことを知ってんだ?」
「俺は何でも知ってんだよ」
「とにかく、昨日は昨日じゃねぇか」
「なら今日は今日で、貧乳のお姉ちゃんでも連れ込めばいいだろ? てか俺マジ眠ィし、お前がいたらうるさくてウチの同居人だって寝らんねぇし、さっさと部屋に帰ってエロ動画で抜いてクソして寝ろっつーの」
「だったら要望に応えて、さっさとしてやるよ」
言うなり股間に突っ込んだ手でフニャけたチンコを引っ掴んだ瞬間、それまでチンコと同じくらいダラけてた湯島が跳ね起きた。
「何触ってんだよ!?」
珍しく泡を食った様子なのは、初めてそこに触られたからなんだろうか?
これまでは俺の知る限り、交尾の最中に湯島の棒切れがどんなに存在を主張しようが、根津がどうにかしてやることは一切なかった。なのに、まだ立ち上がる気配も見せないソイツをわざわざ握るとは一体どんな風の吹き回しなのか。
「やめ──!」
湯島は湯島で、いつもの行為なら何だかんだ言いつつ大した抵抗もしないくせに、今は布団に押し戻されながらチンコを死守せんとばかりに身体を捩ってる。
「触んな、お前はそこに用ねぇだろ……!?」
「誰ならここに用があるんだ?」
「お前に関係ねぇ」
「何なんだ一体、お前はケツの穴よりこっちのほうが大事なのかよ?」
「当たり前だ、そこは俺の子孫繁栄のための国宝級の性器だぜ? ただの排泄器官より大事に決まってんじゃねぇか」
納得したのか、逆にしかねたからか、あるいは納得しようと努力してみたのか、とにかく根津は黙った。
で、無言のまま、湯島の股間に頭を突っ込んだ。
「ちょ──根津!!」
湯島が切羽詰まった声を上げ、引き換えに自由になった両手で隣人の髪を掴む。が、膝を立てて逃げかけても、すかさず腰を引き戻されて元の木阿弥だ。
ヨレたシーツを掻いた湯島の右手が、もどかしげに万年床の下に潜った。
ソイツは探るような動きを見せたあと、不自然に止まった。数秒後、忌々しげな勢いで出てきた手の中は空だった。何かを引っ張り出そうとしてやめたのか、もしくは、あるべきものがなかったのか。
ひょっとしたら──俺はふと思った。
万年床は不精の賜物じゃなく、その何かを隠すためだったりするんじゃねぇか?
降って湧いた可能性について考えていると、飼い主……否、同居人が苦し紛れの口実のつもりか、こんなことを口走るのが聞こえた。
「アダムが見てっから!」
「いつものことだよな?」
「お前まさか、俺以外の野郎とも寝てんのか? 女だけじゃなくっ?」
「なんだ急に、嫉妬か?」
「馬鹿、そうじゃねぇ、ンなモン平気で舐めやがるとか……てかマジで嫌だって!」
国宝級の何とやらをしゃぶる根津の頭を、湯島が鬼気迫る面構えで鷲掴む。
そんなに嫌なら返り討ちにしてやりゃあいいのにな──俺はまた思った。
アイツにできないはずはない。そう確信する根拠はアレだ、1階のジャンキー大学生に襲われたときの反撃っぷり。
躊躇、容赦、無駄、三拍子揃って微塵も感じられなかったあのファイティングスピリットを、どうして根津に対しても発揮しないんだろうか? 何故、股間に挟まる脳天に拳を叩き込んでやらない?
そりゃ、見るからに不健康なナリでクスリまでキメてる学生と、実際はどうだか知らねぇが趣味はジム通いと言われても違和感のない根津とじゃ、手応えは段違いかもしれない。けど勝負にならないなんてことは決してないはずだ。
なのに、口では頑なに拒みながらも必死の形相で押し遣ることしかしない理由は何なのか。その面構えに見え隠れするジレンマみたいな色合いの正体は、一体何なのか。
結局、根津のいいようにさせたまま、やがて声を発しなくなるまでの間、湯島は俺の名を7回呼んだ。
いつのまにか雨が降り出していた。
おかげで一段と気温が下がった深夜、ベランダで煙草を吸う背中がガラス越しの仄暗い闇に浮かんで見える。
室内でも暖房が必要な寒さだってのに、半袖Tシャツにジャージ穿きという姿で手摺りに寄りかかって煙を吐く、あの心ここに在らずの風情は何なんだろうか。
隣人が自分の部屋に引き上げてから、ずっとあぁだった。
結論から言えば今夜、ヤツらは珍しく交尾に至らなかった。
俺を呼ぶ声が途絶えたあとは、ささやかな物音だけが淀むように部屋を満たし、湯島が身体を硬くして呼吸を乱したのを最後に静寂が訪れた。
次は当然、いつもの行為に及ぶんだろうなと俺は思った。
が、予想に反して、根津は背けた湯島の頬をしばらく眺めた末にこう漏らした。
「お前は誰なんだ?」
ポツリと、低く。
再びやってきた沈黙は、今度はそう長くはなかった。
根津を押し退けるようにして起き上がった湯島が、煙草の箱を引き寄せた。1本抜いて唇に挟み、眠たげな目が畳の上を滑ってライターを捉えたとき、根津の手がソイツとティッシュの箱を拾い上げた。
重たい目蓋のまま、湯島が渡されたライターを擦る。穂先を炙り、一発目の煙を吐いてから口を開く。
「誰って言われてもな。湯島コウセイ、お前の隣人だ」
咥え煙草で灰皿に手を伸ばすその顔からは、股間を翻弄されながら7回も俺を呼んだ、どこか悲痛にすら見えた影は既に消え失せていた。
「何を知りたいんだか知らねぇけど、それ以外の誰でもねぇよ」
根津が丸めたティッシュを無言でゴミ箱に放り投げた。
「てかさぁこの年になりゃ、ヒトに明かせねぇような何かのひとつやふたつぐらい、誰にだってあんだろ?」
「──」
「とにかく、これ以上余計な探りを入れてみろ。翌日には……」
言いかけた湯島が言葉を切って天井を仰ぎ、煙を噴き上げた。
「何だ」
訊き返す声には構わず、そのままゆっくりと煙を吐き出し終えてから、湯島はようやく続けた。
「翌日には、お前んちの隣は空き部屋になる」
謎の言葉に根津が眉を寄せたが、言った当人は急に表情を弛めて気怠く笑った。
「だったら何だよな、どうだっていいか」
「どういうことなのか、今は訊かねぇ」
「いつ訊かれたって話すことはもうねぇよ」
ヤツらのやり取りはそれ以上発展することはなく、結局何ひとつ見えてこないまま根津は出て行った。ただし、知りたいことを諦めた顔には決して見えなかった。
ひょっとしたら──俺はふと思った。
根津もあの店に行ったんじゃないのか?
中にまで入ったのかどうか、湯島と顔を合わせたのか否かは知る由もないし、知る必要もない。けど多分、俺と隣人の神経には全く同じ違和感が引っかかってる。
立て続けに煙草を吸って気が済んだのか、ベランダのガラス戸を開けて部屋の主がようやく戻ってきた。
雨が当たっていたらしく、前髪の先から雫が垂れ落ちる。冷え切って青白く強張る頬も濡れていて、鼻の頭と首筋の傷痕だけが赤い。
朝とはまるで違う顔をを引っ提げて暗がりから帰還した野郎は、しかし俺と目が合うと硬いツラをみるみる弛緩させて、普段通りの気怠い滑舌でこう言った。
「さて寝ようぜぇ、アダム」
その腑抜けた笑顔に向かって、俺は隣人と同じ疑問を投げかけた。
「お前は誰なんだ?」
更に、こうも尋ねた。
「ここが空き部屋になるときは、俺も連れていくのか? それとも置いていくのか?」
が、どちらの問いも、湯島の耳には猫の鳴き声としか聞こえなかっただろう。
「うん? 何だよコイツめ、甘えた声出しやがってぇ」
まるで見当違いな反応を寄越してますます眦を弛めた飼い主ならぬ同居人は、濡れたTシャツを替えてパーカーを羽織りながら、デカいクシャミを3発ぶっ放した。
このクソ寒い雨の深夜に、薄着でベランダに出て5本も煙草を吸うからだろ? 馬鹿野郎が──
呆れて溜め息を吐いたところで、伝わりゃしない。
ほどなく部屋の明かりが消え、呼ばれるまま仕方なく布団に潜り込んでやった俺を、湯島は大切なものでも愛おしむような手つきでいつまでも撫でていた。
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