猫の同居人
猫の同居人【前編・朝】
朝の光景を語ることが多いのは、まぁ間違いなく飼い主の寝起きの悪さのせいだろう。
確かに野郎の特徴であるだらしなさって属性の中でも、最もわかりやすいポイントだ。しかも週7日のうち最低5日の日常茶飯事となれば、そりゃあネタが集中するのも無理はない。
ヤツの名は湯島、俺の名はアダム。
出勤時間が刻一刻と近づいてるってのに未だに高鼾の湯島は、野良猫だった俺をある日突然かっ攫ってボロアパートに連れ帰った近所のサラリーマンで、この取り澄ました名前の名付け親でもある。
それにしたって一向に目覚める気配のないコイツが、これでリーマン稼業が務まってるってのは、もはや七不思議の領域なんじゃねぇのか。
飼い主の腑抜けた寝顔を覗き、煙草臭い髪を嗅ぎ回っていた俺は、ふと首筋に残るひと筋の変色に目を止めた。
怠惰でぞんざいなイメージにそぐわず意外と色白な肌に、そこだけ赤味を帯びて走る傷痕。負ったときの深さを感じさせる引き攣れたようなそれは、下手すりゃ出血多量で死ぬんじゃねぇかって場所にある。が──そんな知識が何故、俺にあるのかも、人間の言葉や概念が理解できるのと同じく依然として謎だ。
そして余談ながら、湯島の傷痕の色味を識別できるのは、おそらく猫仲間の中では俺だけのようだった。
あるとき、友猫のゴン太んちの塀の上で一緒に日向ぼっこをしてたときのことだ。
眠気と空腹を覚えながら縁側のほうに目を遣ると、ばーさんのライフワークである編み物に使う毛糸玉がいくつか転がってるのが見えた。で、何気なく「あの真ん中のヤツ、色と形とサイズが林檎みてぇだよな」とゴン太に言ったら、どうも話が噛み合わない。
それから何度か同じような経験を重ねるうち、どうやら俺以外の猫には見えない色があることがわかってきた。少なくとも俺の周りには、その系統の色が見えるヤツはいない。こないだまで咲いてた金木犀の葉と花のコントラストも、実はゴン太には見えてなかっただろうと思う。
まぁ、俺が他の猫といろいろ違うってのは今更だし、そもそも視覚能力なんてものは脳味噌の特性によるところが大きい。それを言ったら人間の見え方だって実は千差万別で、視認性は一概に括れないはずだ──なんてことを考える時点で、やっぱり猫としておかしいのかもしれないけどな。
が、ひとつ確かに言えるのは、どんなに猫らしくなくとも人間じゃなくて良かったってことだ。ヤツらみたいな俗世のしがらみとやらに縛られるなんて、俺は真っ平御免だった。
そりゃあ猫の世界にも義理や仁義は存在する。完全室内の一匹飼いでない限り、多少なりとも浮き世のしきたりってモノはついて回る。だけど人間の生の世知辛さとは比較にならない。
ただし、何事にも例外はあった。
たとえば目の前の男。コイツの脳内辞書に『しがらみ』なんて言葉が載ってるとは到底思えない。
何しろリーマンのくせに出勤時刻も気にしない。隠棲したジジイの閑居並みに、部屋には何もない。
無根拠に他人を惹き寄せる何かを持ってるくせに、親しい友人がいる様子もない。
相変わらず目蓋の隙間が開く気配もない飼い主、湯島の首筋の傷痕を前足の肉球でポフポフ叩いてやると、野郎は寝ボケた唸りとともに寝返りを打った。
弾みでさっきよりも露わになったそこに鼻先を近づけてペロペロしてみると、今度は寝ボケた声で呻いて指先でシーツを掻く。
「んン──こら、アダム……」
寝ボケてるわりに相手を認識してるとは意外だな。
感心しつつも、いい加減起きろとばかりに軽く噛み付いた途端、湯島がビクリと跳ねて小さな悲鳴を上げ、直後に俺は両脇を掬われてヒョイと持ち上げられていた。
「朝から何だか不健全な気持ちになるから、そのくらいにしといてね」
マイルドな笑顔でそう言ったのは隣人だった。
言うまでもなく根津じゃない。つい最近越してきたばかりの、新しいほうの隣人だ。
先日、駅前の居酒屋『蔵之助』で一緒に飲んだくれて、湯島の部屋で一夜を共にしただけのリーマンは、何を思ってかロクでもねぇヤツらの巣窟でしかないボロアパートの空き部屋に引っ越してきた。
おかげで『不忍荘』は満室御礼となり、バラエティ豊かな1階とは対照的に、2階はリーマン一色で埋め尽くされた。
古いほうの隣人である根津は事態を知ったとき、これまで見た中で最高の物騒を眉間に刻み、有無を言わさず湯島を自室に引き摺っていって拉致監禁した。
根津の部屋でヤツらが何をしてたのかは俺にも想像がつく。どうせいつもの如く交尾してたんだろう。が、ひとつだけ意外な点があった。俺の知る限り、隣人が湯島を自宅に入れたのはその日が初めてだった。
やがて深夜と言ってもいい時間に帰ってきた湯島は、消えたときに羽織ってたはずのジャージはどこへやら、上半身は白い半袖Tシャツ1枚だった。
どこかぼんやりした風情で入ってくるなり晩秋には寒々しい姿のままベランダに出て、立て続けに煙草を吸う間に何度も掻き毟った髪は、そのまま固めればアニメキャラにでもなれそうなほど四方八方を向いていた。
──なんてのはさておき、話を現在に戻す。
何故、爆音のアラームもなく、根津が怒鳴り込んでくることもなく、新しい隣人によって穏やかな朝がもたらされてるのか?
答えは単純、ここが湯島んちじゃなく隣人宅だから。
では何故、湯島がここで朝を迎えてるのか?
答えは昨夜、古いほうの隣人が連れ込んだメスの声がうるさくてムラムラして眠れねぇって理由で、湯島が新しいほうの隣人宅に避難したから。
2階の配置は階段に近いほうから根津、湯島、そしてこの新入り、神田って順だ。
夜遅く、根津んちから壁越しに聞こえてくる交尾の物音を聞きながら鼻に指を突っ込んでスマホを眺めていた湯島は──コイツの部屋にはテレビなんてモノも当然ない──しばらくすると立ち上がって俺を抱え上げ、玄関を出て奥の部屋のドアを叩いた。
もうすぐ日付が変わろうって時刻に猫連れでアポもなく突撃されたって、そこはさすがジェントルマン神田だ。嫌な顔ひとつせず快く迎え入れてくれた。
入居したばかりの部屋は新しい畳が仄かに香り、ついでに何かの香料も加わって老朽アパート臭を見事なまでに掻き消していた。
しかもだ。
奥半分はフローリングカーペットの上にソファが据えられてるという和洋室的な風情で、シンプルながらもモダンな内装に俺は目を疑った。湯島んちと同じ建物内だとは到底思えなかった。
というよりも、壁に立てかけられたアートフレームといい、天井から垂れ下がる無駄にスタイリッシュな照明といい、このボロアパートにはとことん似つかわしくない。
が、既に入ったことがあったらしい湯島は、自室とはまるで別種の異空間を気に留める風もなく、出されたボトルビールをグッと呷ってヤサグレた口ぶりでこう愚痴を垂れ流した。
「久々だぜ、あんな喘ぎ声デケェ女がくんのはよう。寝れねえっての全く」
すると同じボトルを手にした神田が、アハハと笑ってこう返した。
「だけど聞かせたくて、わざと連れてきたのかもしんないよ?」
「聞かせるって誰に?」
「コウセイさんにだよ」
それを聞いて俺は思い出した。そういえば未だに飼い主の下の名前、コウセイの漢字を確認していない。でもまぁ知る必要があるわけでもなし、急ぐことじゃない。
「ンなモン俺に聞かせてどうすんだ? 寂しい隣人にオカズでもお裾分けしてやろうってか? 残念ながらヴィジュアルがねぇと勃たねぇ体質なんだよ俺は」
「じゃあ、隣にカメラでも仕込んでみる?」
ジェントルマンが謎の提案を口にする。
「アイツの濡れ場なんか覗く気にもならねぇ」
投げ出すように言った湯島の白けた眼差しをちょっと眺めてから、神田はさりげない調子で話の軌道を逸らした。
「ところで、泊まるつもりだよね? うち、客用の布団とかないけどソファベッドの添い寝でもいい? それか、部屋から布団持ってくる?」
この部屋にあのしみったれた万年床を敷いた有り様を、俺は想像してみた。あまりにもそぐわない。
そういう理由でもないだろうが結局、湯島の布団が持ち込まれることはなく、野郎どもはベッドに早変わりしたソファに2人並んで転がった。
だからといって多分、根津とやるような交尾はしてないと思う。ただ、俺が眠ってる間のことまでは知ったこっちゃない。
とにかく、ここで朝を迎えた経緯についてはそういうわけだった。
神田は湯島から引き剥がした俺を、ささみ缶を盛った皿──隣室から持ち込まれた俺専用の容器──の前に置き、続いて湯島を起こすという高難易度のミッションに取りかかった。
俺はメシを食い終えると、神田に要求して部屋から出してもらった。その頃にはソファベッドの上で飼い主の上半身がようやく地球に対して垂直になり始めていたが、もう付き合ってられない。
玄関から外廊下に滑り出た途端、2つ向こうのドアに施錠している根津と目が合った。ついでに、スーツの腕に絡みつく乳のデカいメスとも。
「やーん、見て! 猫が出てきたよ? ここってペット、オッケーなのぉ?」
唇の厚みと垂れた目尻がエロい女が、鼻に掛かった甘い声を上げる。
問われた野郎は俺を掠めた目を、俺が出てきたばかりのドアにチラリと走らせた。
この瞬間、アラームが響き渡らなかった事実と奥の部屋がヤツの脳内で繋がったことだろう。
ほんの一瞬、顔面に走った獰猛な色。
ソイツを素早く振り捨て、根津は低く返した。
「オッケーなわけねぇ、隣の野郎が無断で飼ってんだ」
「隣? でも今、向こうの部屋から出てきたわよ?」
「──」
無言で歩き出した根津の後を追いながら、女がこんなふうに続ける。
「でもどうせ飼うなら、私だったらあんな真っ黒いのじゃなくてフワッとした感じの色がいいなぁ」
あんな真っ黒いので悪かったな、こっちこそお前みたいなメスに飼われんのは願い下げだぜ。
ハッ、と内心で吐き捨てた俺が、階段の上まで歩み寄って下を覗き込んだときだ。
ちょうど地面に降り立った2人の前に、両手にゴミ袋をぶら提げた1階のオカマが現れた。
「あらぁ根津ちゃあん、今回の女はまた随分とデッカイわねぇ!」
隣近所を憚ることなく大音量で感嘆したのは、乳のサイズについてだろうと思う。女の身長は俺の見たところ標準サイズだ。
いずれにしても中年に差し掛かったスッピンの無精髭野郎が朝っぱらからオネェ言葉で喚くような内容ではなく、巨乳のメスは案の定ドン引きで根津の陰にそそくさと隠れちまった。
が、オカマはお構いなしだ──言っとくがシャレじゃねぇ。
「んもう根津ちゃぁん、コウセイくんとヤリまくってんのに女の身体も欲しいなんて贅沢よう! ていうかぁ、コウセイくんに飽きたんだったら、そろそろアタシにも味見させてくれていいんじゃなぁい!?」
それを聞いた女の顔に、第二のドン引きの波が押し寄せた。
「え、何? コウセイ……くん? どういうこと? 男? まさか根津くん、男とも寝てんの?」
さっきまでの甘ったるさはどこへやらの強張った声だった。本人には余計なお世話だろうが、その我に返ったような硬い口ぶりのほうが俺的には遥かに好感が持てた。
そして当の根津が何か言うより早く、オカマが口を挟んだ。
「コウセイくんってのは、根津ちゃんの隣の部屋の男の子よォ。なんていうか彼、どこがどうってわけじゃないのに妙な色気があんのよねぇ……根津ちゃんが執着すんのもわかるわぁ……何しろアタシですら、彼の尻穴だったら一発お見舞いしてみたくって、顔見るたびに股間が疼いちゃうんだからさぁ」
しみじみと溜め息を吐くオカマの言葉をどこまで真に受けたんだか知らないが、不意にこっちを見た巨乳は俺と目が合うや、一夜を過ごした楽園が実は廃墟だったことに今頃気づいちまった顔でジリジリ後退したかと思うと、パッと身を翻して驚くべきスピードで逃げ去った。
みるみる遠ざかる後ろ姿を無言で見送ってから、根津がオカマに目を戻した。
「なんか俺に恨みでもあんのか?」
「別にないけど、面白いしぃ」
「ふざけんじゃねぇ」
「あ、いや、あるわね! コウセイくんのお尻を占領してる恨み? 恨みっていうか嫉妬?」
「ンなモン占領してねぇっつーの」
「それにしても今どきジェンダー・バイナリな女子だなんて、若いのに化石みたいなコねぇ」
「個人の勝手だろうが」
「てかさぁ、上に入った新しい男の子? 彼と随分仲いいみたいじゃない、コウセイくん。てか彼がコウセイくんって呼んでんの聞いて、アタシも真似することにしたんだけどさぁ。もしかしてコウセイくん、あのコとも寝てんの?」
「コウセイコウセイうるせぇな、んなこた知らねぇし、俺は寝てねぇ」
「またまたぁ、わかってんのよもう、丸聞こえなんだからね! それにしても新入りの彼、神田くんだっけ? あんなお行儀いいコがなんでまたこんなトコに入ってきたのかしらねぇ?」
「俺が知るわけねぇ」
「けどアタシ的には神田くんの事情より、やっぱコウセイくんが気になるのよねぇ。彼さぁ、なんか仕事帰りに駅のほうでバイトしてるっぽいの知ってる?」
「──あ?」
腕時計を覗いていた根津が、オカマの問いに顔を上げた。怪訝が刻まれた眉間を見る限り、どうやら初耳だったらしい。バイト? そんな話は俺だって知らない。
「あらやだ、根津ちゃんも知らないの? アタシもさぁ、たまたま見かけただけだから真相は知らないんだけどぉ」
何故か急にボリュームの落ちたオカマの声を聞き漏らすまいと、俺は忍び足で階段を降りて近づいた。
「駅ったってこっち側じゃなくて、反対側の住宅街に近いとこにあるバーでね? こないだちょっと野暮用で通りかかったとき、客を見送りに出てる現場を目撃しちゃったのよ。あ、野暮用ってのはさぁ、うふふ、彼氏っていうかぁ、最近いい感じになってるカレんちに……」
言いかけたオカマは、根津の顔を見て素早く話を戻した。
「あ、んで、向こうはアタシに気づかなかったんだけど何て言うかぁ、ここでのコウセイくんとは雰囲気違ってて。頭は寝グセじゃないし、背筋は伸びてて姿勢がいいし、喋ってる感じとかも別人みたいで、一緒にいた客の女にはやたらベタベタ懐かれてるし。他人の空似かとも思ったけど、でもやっぱどっからどう見てもコウセイくんなのよねぇ。本人には確認できてないんだけどさ、まだ」
無精髭のオカマが人差し指を頬に当てて小首を傾げたときだ。2階の外廊下で物音がして、神田の部屋から2人が出てくる気配があった。
俺からは見えなかったが、どうやら湯島はそのまま自分の部屋に入ったらしい。やがて階段の上に現れたのは神田ひとりだった。
その姿を見た途端、根津が背を向けて歩き出した。
2軒隣の住人の態度を気にする風もなく、降りてきた神田は穏やかな笑顔で俺の頭をひと撫でした。
「アダム、ここにいたんだね」
いってくるね、とまるで円満家庭の亭主みたいなひとことを残してオカマと挨拶を交わし、根津と同じく駅の方向に消える。その背中を好奇心ダダ漏れの目で見送ってから、オカマがようやくゴミ置場へと歩き去った。
ダメリーマン湯島は多分、これから着替えてようやくの出勤だろう。
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