猫と金木犀

 金木犀の香り漂う初秋のある日、俺は夜の散歩と洒落込んでいた。

 などと言えば聞こえはいいが、家に入れない事情があって彷徨ってるだけと言ってしまえばそれまでだ。

 俺の名はアダム。

 名付け親は、野良猫だった俺をあるとき突然かっ攫った近所のサラリーマンで──以下、詳細割愛。知らなきゃ前回を参照してくれ、知ってたけど思い出せないって忘れん坊もだ。

 とにかく俺は家に入れず、ねぐらであるボロアパート『不忍荘』周辺をブラブラ散歩してる最中だった。

 夜風が運んでくる甘い香りに誘われて近所の塀の上を歩いていると、匂いの根源である金木犀の枝々が表の道路にまで張り出し、行く手を阻んでいた。が、今に始まったことじゃない。金木犀ってのは常緑樹だからソイツはいつだってそこにはみ出してやがって、だからつまりそこを通りたければ猫的にはいつだって軍事訓練だ。

 ただ、この時期だけは堅苦しい頑固オヤジみたいな深緑の葉の合間に、小遣いをねだる孫娘みたいなオレンジ色の小粒の花々が無数に纏わりつく。

 個人的には──個猫的には、彼女たちの姿と彼女らが放つ芳香は嫌いじゃない。しかし前に一度、駅近くの繁華街の路地裏で引っかけたメス猫に話したら、その女は顔を顰めてこう言った──アタシさぁ、あの匂い嗅ぐと気分が悪くなるのよねぇ。

 そして、こうも言った──甘ったるい花の匂いが好きだなんて、随分ロマンチストじゃない。

 人間風に表現すれば『唇を歪めた風情で一笑』されて以来、余計なことは言わないことに決めた。花の匂いでロマンチスト呼ばわりなんかされた日にゃ、男の沽券に関わるってモンだろう。

 ほろ苦い思い出を反芻していたら、不意に目の前の繁みがガサガサ揺れて1匹の猫が現れた。

「おー、アダム」

「よォ、ゴン太」

 金木犀の枝の中から出てきたのは、友人ならぬ友猫、キジ白のゴン太だった。この塀の内側に建つ一軒家の猫だ。初対面ではとっくみあいの喧嘩をやらかして互いに傷を負った俺たちも、何度か顔を合わせるうち次第に打ち解けていった。

 ちなみにゴン太ってのは、先代である柴犬の名前がスライドしてきた……否、名跡を襲名したらしい。

 初めて名乗り合ったとき、

「俺とお前の名前を足したら、カナダのバンドのヴォーカルっぽくなっちまうな」

 そう言ってみたけどゴン太には通じなかった。

 やっぱり、アダム・ゴンティアなんて名前を知ってる猫はいないようだ。が、人間である飼い主の湯島だって知らないと俺は踏んでる。何しろ、ニルヴァーナすら知らないミュージックライフだ。──という事実は、ある日の湯島と隣人の会話から仕入れた情報だった。

 そして俺に何故そんな知識があるのかは、相変わらず謎だけどまぁいい。

 いずれにしても通じなかったおかげで、くたびれた庶民リーマン並みのくだらないジョークを言うヤツだなんてレッテルを貼られずに済んで、むしろ良かったのかもしれない。

「こんな時間にウロついてるなんて珍しいじゃん」

 ゴン太が言った。

「ちょっとな、締め出し喰らってて」

「え、家に入れねぇの?」

「まぁ、来客中で」

「あのボロいアパートの何にもない部屋に?」

 飼い主の湯島が仕事に行っていて不在の時間、部屋で昼寝してると時々ゴン太が覗きにくる。玄関は日中、猫が出入りできるくらいの隙間を空けてあるから──これも前回参照。

「何もないとか関係ねぇよ、客ったって隣のヤツだしな」

 そう、部屋に来てるのは隣人の根津だ。

 どうせいつも勝手に出入りしてるヤツが来てるからって何故、俺が締め出されなきゃならないのか。

 事の発端は朝に遡る。



 その朝は珍しく平穏だった。

 もちろん、世間一般的には有り難いことで、それこそが日常に求められる光景であるべきだと俺だって思う。普通なら。

 が、このボロアパート『不忍荘』に限って言えば、そんなモノはむしろ住人に不審を抱かせる因子になりかねない。

 いつもなら大音量で鳴り響き続けるはずの202号室のアラームがスタートから2秒で黙り込み、いつもなら怒鳴り込んでくるはずの隣人が蹴破ることなく普通に、しかし無遠慮にドアを開けたのも、そんな胡散臭さに衝き動かされた結果に違いなかった。

 いつも通り鍵のかかってない玄関を、いつもとは違うテンションで開けた隣人は、室内にいる人物を数秒眺めてからこう言った。

「どちら様?」

 すると、問われたほうもこう応じた。

「そちらこそ、どちら様?」

 俺は定位置であるロウテーブルの下で箱座りして、そのやり取りを欠伸混じりに眺めていた。

 いつもの朝と同じく、隣人の根津は既にいつでも出勤できる戦闘態勢だ。が、今日この部屋で迎え撃った野郎もまた、あとはモーニングコーヒーさえ嗜めば準備完了という臨戦態勢間際だった。

 違うのはただ1人、未だに鼻提灯でだらしなく眠りこける、この部屋の主だけ。

 上半身は明らかに昨夜帰宅したままのワイシャツ、下半身はパンイチに靴下って姿で万年床に倒れてる湯島をチラリと目で舐めた根津が、ガス台の前でヤカンを手にしていた男に目を戻した。

「隣の部屋の者ですが、彼は具合でも悪いんでしょうか」

「え? いえ、多分そんなことないと思いますけど……あの、起こしましょうか?」

「いえ、何でもないなら結構です」

「はぁ、そうですか」

 若干の戸惑いを含みつつもそれだけ言ってヤカン男が黙ると、隣人もまだ何か言いたげな色合いを孕みつつも黙ってドアを閉め、部屋に戻っていった。

 小さく首を捻って見送っていた男は気を取り直したようにヤカンを火に掛け、俺のほうを見てこんなことを言った。

「おなか空いてない? ごはんあげたほうがいいのかな? ここにある缶詰、開けちゃっていいのかなぁ」

 俺は震撼した。

 朝っぱらからこんなに穏やかにメシをくれようとする人間は初めてだった。

 隣人はメシどころか、頭のひと撫ですら寄越したこともない。飼い主の湯島は逆に、全開の愛情が時々鬱陶しくなる。だから今、メシを勧めてくれてる野郎の程よい好意は、少なくとも俺の周りでは稀に見るテンションと言えた。

 何しろこのアパートの住人ときたら、2階の飼い主と隣人だけじゃなく、1階の連中の俺に対するスタンスもまともじゃない。アル中になりかけのオカマは、性差別的な理由からではない生理的嫌悪を呼び覚ますような馴れ馴れしさ。ギャンブラーのジジイは俺を見れば丸めた競馬新聞で追い回し、ジャンキー大学生はクスリを混入した餌で罠に嵌めようとする。

 ヤツらと比べたら、この客はいっそ神だ。

 この機を逃してなるものかと俺は駆け寄り、ここぞとばかりに尻尾をピンとおっ立てて足元に身体中擦り付け、猫らしい狡猾な甘えっぷりでアピールしてみせた。

「こら、待てって。毛が付いたら取んなきゃなんないから」

 ンなこと言ったって、猫には通じねぇんだぜ? 普通はな?

 わからないフリをしてやろうかとも思ったけど、神対応に免じて大人しく待ってやることにする。

「賢い猫だねぇ、君は。名前は何て言うのかな?」

「アダム」

 答えた俺の声は、しかし単なる猫の鳴き声にしか聞こえなかっただろう。

 男は缶詰のメシを盛った皿を俺の前に置きながら、しゃがんで覗き込んできた。

「もう一回言ってみて?」

 そこで再び、アダムと答えてやったら、結局うーんと首を捻ってこう結論を出した。

「うん、彼を起こして聞いてみるよ」

 まぁ、わからなくても仕方がない。

 俺がメシの皿に鼻先を突っ込むと、男は万年床に近づいて部屋の主を起こすという困難な作業に取りかかった。

 ところで、この客が誰かというと、実は俺も知らない。

 昨夜遅く、いかにも飲んだくれた成れの果てみたいな有り様の湯島を抱えるようにして一緒に帰ってきた、初めて見る野郎だった。

 2人ともスーツを着てたから会社の同僚なのかとも思えたが、とにかく湯島が頭にネクタイを巻いてるほど酔っ払ってやがって会話にならないから、傍で聞いてたってちっとも真相が窺えなかった。が、ツレのほうも、帰ってくるまでに頭のネクタイを取ってやろうという気が回らない程度には酔っ払ってたってことだろう。

 それでも万年床に倒れ込んだ湯島のスーツを四苦八苦しながら脱がせてやって、カーテンレールにぶら下がってたハリガネハンガーに丁寧に掛け、自分も同じ姿になって辺りを見回した挙げ句、湯島のスーツの上に無理矢理重ねて引っ掛けた。

 で、すっかり夢の住人となってる湯島の隣に潜り込んで狭い布団で一夜を共にし、朝になったらノーマルな音量のスマホアラームでさっさと目覚め──それも、コールドプレイの『Viva La Vida』ときた。朝っぱらから『美しき生命』で目覚めようとは何事か──部屋の隅に積み上がった衣類の奥からアイロンを掘り出して自身と部屋の主のシャツ2枚にアイロンを掛け、身支度を調えてからヤカンを手にしたところで、狂ったようにがなり立て始めた目覚まし時計のアラームに飛び上がって2秒で止め、5秒後に隣人が顔を出したというわけだ。

 昨夜の酔っ払い具合のせいもあってか、目を開けるまでにいつも以上に時間がかかった飼い主は、俺が皿を舐め終える頃にようやく頭をむくりと擡げて、開いてるんだかどうだかもわからない半眼で己を起こした男を13秒眺めた末に、掠れた声でこう言った。

「どちらさん?」

 なんと、知らないヤツらしい。

 が、そんな反応にも、客は戸惑う素振りすら見せなかった。

「ほら、ゆうべ蔵之助くらのすけで一緒になった……覚えてない?」

 蔵之助ってのは駅前にある居酒屋で、どこにでもありそうな屋号ではあるものの、まだ若い店主が営むれっきとした個人店だ。若いと言っても多分、湯島たちと同年代のはずだけど──この「たち」というのは湯島と隣人の根津と、今ここにいる身元不明の客の3人を指す。

 その同年代野郎たちの中で、1人だけ抜きん出て残念な生きざまである湯島は、ほとんどの髪が重力に逆らってるという、いつにも増して酷い寝グセ姿で大欠伸しながら煙草に手を伸ばした。

「あー、なんか、いたっけ……? で、なんでいんの?」

「コウセイさん潰れて、一緒にタクシーで帰ってきたんだよ」

 俺は再び震撼した。

 コウセイって何だ? 偽名じゃなければファーストネームしかない。じゃあフルネームは湯島コウセイ? 初めて知った。

 玄関に表札はなく、階段下の古びた郵便受けに『湯島』と汚い字で走り書きした紙切れが差し込まれてるだけで、これまで下の名前は今まで知りようがなかった。というより興味を持ったことがなかった。どんな字を書くのか、今度郵便物をチェックしておこう。

 それにしても、こぢんまりした個人店の居酒屋でネクタイ鉢巻きをしちまうほど飲んだくれて、たまたま知り合った野郎相手にファーストネームで自己紹介するとはな。

「あぁそう……ん? 帰ってきたって、あんたここの住人?」

 まだ覚醒しない面構えの湯島の鼻から、ゆるゆると煙が流れ出ていく。

「いや僕は駅の反対側なんだけど、1人で帰すのもなんか危なそうだったから」

「あぁそう……奥の空き部屋に新人でも入ったのかと思ったぜ」

「いや、うん、違うけど。えっと、とりあえず会社行く準備したほうがよくない?」

「あぁまぁ……だよなぁ」

 口ではそう言いながら一向に起き上がる気配のない湯島は、客の男の驚くべき根気強さでどうにか出勤態勢に仕立てられ、お上のもとへ引っ立てられる罪人みたいな風情で出て行った。



 そしてすっかり暗くなった夜、つまりさっきのことだ。

 昨日あれだけ飲んだくれたばっかりだから、今日はそろそろ湯島も帰ってくるだろうかと散歩から戻った俺は、外廊下で隣人の根津とバッタリ出くわした。

 目が合い、玄関の前で立ち止まって見ていると、根津は近づいてきてドアの隙間から暗い室内にチラリと視線を走らせた。

「お前のご主人様は、まだ帰ってねぇのか」

 勘違いすんなよ、どっちかっつーと俺のほうがご主人様だぜ? 俺は思ったが、しっぽ巻き座りの姿勢で背筋を伸ばして無言で見返してやった。

 きっと目付きが気に食わなかったんだろう。忌ま忌ましさを浅く眉間に刻んだ根津は、それでもビジネスバッグを脇に挟んで、珍しく俺のそばにしゃがみ込んだ。

「なぁ。お前、何か知ってんだろ? 朝いた野郎は誰なんだ?」

 へぇ……?

 ちょっと面白い気分で俺は野郎を見返した。コイツ、そんなことが気になるのか。

 けど俺が知ってたって、持ってる情報をどうやってお前に話せばいいんだよ?

 優越感たっぷりに鼻先で笑ってやったら、ニャンじゃわかんねぇだろ、と根津が仏頂面で舌打ちして立ち上がった、そのときだ。

 いかにもかったるそうな足取りで階段を上がってくる緩慢な音が聞こえて、ほどなく湯島の腑抜け面が現れた。

「あれ何やってんだよ俺んちの前で?」

 既にネクタイは弛み、スーツの上着の前は開けっ放しで両手をポケットに突っ込んだ湯島が、咥え煙草のまま煙を吐きながら尋ねた。頑なに重力に屈しなかったらしい脳天の髪が、妖怪アンテナみたいに天井を指している。きっと1日中こうだったに違いない目は、朝の寝起きと大差ない眠たげな半眼だ。

 溢れんばかりの倦怠感が漲る全身を目で舐め、隣人が言った。

「今日は客はいねぇのか」

「まだ昨日のアルコールが抜け切んねぇもん、飲まねぇよ」

 手すりの向こうに灰を落としながらやってきた湯島は、部屋の前に立つ根津を押し退けて玄関のドアに手を掛けた。

 が、その手首を素早く掴んだ根津が強引に湯島を押し込んだかと思うと、次の瞬間、俺の鼻先で乱暴にドアが閉まっていた。あっという間の出来事だった。

 おい何、締め出してんだよ……?

 抗議を込めて引っ掻くドアの向こうから、飼い主の喚き声が聞こえてくる。

「オイ何閉めてんだよ、アダムが入れねぇだろ!?」

「ちょっとお前を借りるだけだ、長くは待たせねぇよ」

「借りるって──ちょ、フザけんなよ何しやがんだ、眠ィし疲れて腹減ってんだよ!」

「いて、引っ掻くなよ、お前まで猫化してんじゃねぇ、爪立てんなら背中にしろ」

「馬っ鹿じゃねぇの、付き合ってらんね……てかマジでっ」

 そんなやり取りと争うようなガタついた物音が少しずつ遠ざかるとともに、湯島の罵声がだんだん乱れていくのがわかった。

「ッ……クソ、死ねこの──ん、ぁっ……!」

 奥のほうから途切れ途切れに届く悪態に、隣人の声が時折低く混じる。が、何を言ってるのかはもはや聞き取れない。

 コイツはどうやら、しばらく部屋に入るのは無理なようだ。

 やれやれと諦め、そこらへんでもブラついてこようと向きを変えたとき、向かいに建つ家の2階の窓の隙間に顔を見つけて俺は動きを止めた。

 どうやら飼い主と隣人の揉め事を除き見してたらしい野郎は、俺と目が合うなりハッとしたツラでピシャリと窓を閉めた。

 その家は、このボロアパートを含めここら一帯に物件を持つ大家んちで、覗いてたのはロクでなしの長男だった。ロクに行きもしなかった5流大学を6年かけて卒業したあと、ロクに家から出ることもないまま、少なくとも3年は引きこもってるニートだ。

 ──なんてことまで俺が知ってるのも、何故なのかはわからない。

 俺がこのアパートに棲みついてから、まだ1年足らず。そうでなくとも、いくらこの辺をテリトリーとする野良だったからって、地域住民の学歴まで把握してるのはおかしいと思う。けど、把握できちまってるモンは仕方ない。

 とにかく外に出るとすれば深夜にジャージ姿でコンビニに行くぐらいで、はっきり言って生きてる意味なんかまるでないようなニート野郎は、たまにあぁして細く開けた窓の向こうから食い入るようにこちらを窺ってやがる。俺の気のせいでなければ大抵、というかほぼ、湯島が部屋の外で誰かに絡まれてるタイミングだ。

 その、やたら暗くて粘着質な目は要注意だとは思うものの、残念なことに俺は飼い主に忠告する術を持たない。

 そろそろ隣人が気づいてくれりゃいいんだけどな……

 どういうつもりだかは知らないが、湯島が見知らぬ野郎と朝を迎えただけでピリつくぐらいなら、向かいから監視してるストーカーだって察知してもいいんじゃねぇのか。

 俺はそんなことを考えながら、時間潰しをするべく階段に向かって歩き出した。



「と、まぁ、そんなわけだ」

 俺が締め括ると、ゴン太はふーんと相槌を打ってから続けた。

「ウチのばーさんなんかさぁ、アダムんとこの飼い主見かけるたんびに眉顰めて、また歩き煙草してたとか鼻に指突っ込んで歩いてたとか、いちいちじーさんにチクってんだぜ? けど、ばーさん受けはイマイチでも結構他人に好かれてるよなぁ」

 ゴン太のねぐらには、じーさんばーさんと出戻りの娘、そのまた娘、つまり孫娘の計4人が暮らしてる。

 孫娘ってのはまだ小学校にも通わないチビスケで、自分のことしか考えてないネグレクトの母親と甘やかし放題のばーさんのおかげで、ちっとも躾けのなってねぇクソガキだ。じーさんは1人だけマシなお人好しだけど、メスどもの勢いに押されて口出しできないらしい。全く、この近所にはロクでもねぇ住人しかいやがらねぇ。

 ただゴン太にとっての救いは、『どちらかと言えば犬派』程度のばーさんに対し、度を越した猫派であるじーさんがゴン太のこととなると人格が豹変するジキルとハイドってところだった。おかげでチビスケ以外の家族からは、下にも置かない丁重な扱いを受けてる。

「好かれてるっつーか、何なんだろうなアレは、食虫植物っつーか?」

「食虫植物?」

「何にもしねぇでダラダラしてりゃ誰かが世話焼いてくれんだから、まさにそうだよな」

 つまり栄養不足を虫で補ってるウツボカズラみたいに、近寄ってくるヤツで何かを補ってるってわけだ。何しろ飼い主の湯島には、猫の俺から見たっていろんなものが不足しまくってる。

 世の中ってのは上手くできてるモンだよな──

 摂理ってヤツに改めて感心していると、ふとゴン太の脳天に目が止まった。

 キジトラ部分の黒っぽい毛並みに、オレンジの小粒の花がちょんと載っかってる。

「何だよゴン太お前、頭に花なんか飾りやがってよ」

 手を伸ばして肉球でポンと払ってやると、えー? とゴン太は額をゴシゴシやって、照れ臭げな上目遣いでこう言った。

「なんだよ、ワザとだぜ?」

「またお前はそうやって……」

 言いかけてハッとした。何だ、このいい雰囲気──!?

 三たび震撼した俺は背筋を伸ばして、さりげなくゴン太から距離を取った。

 危ねぇ危ねぇ、飼い主と隣人の異常行動にすっかり慣れて、うっかり毒されちまうところだった。

 気を取り直して、とりあえず適当に話を切り上げようとしたとき、ゴン太ぁ、ゴン太ぁ、と呼ぶ声がして金木犀の下にじーさんが現れた。

「あぁゴン太、なんだ友だちといたのか。でも風邪引くからもう家に入れ、な、ほら」

 また遊びにきてくれな、と猫好き全開の愛想の良い笑顔を俺にも向けてくるじーさん。

 ゴン太は肩を竦めて──あくまで人間風に表現すれば、だ──呆れ声でこう言った。

「全く、心配性で困るよな」

 じゃあまたな、とピョンと塀から飛び降りるゴン太を──正確にはゴン太の股間にくっついてるタマを何気なく見送り、俺は思った。ひょっとしてあのじーさんも、湯島みたいに動物病院で雄叫びを上げたんだろうか?

 ゴン太と別れた俺は、その足で不忍荘に戻ってみた。

 アパートの階段を上がり切ると、既に隣人は帰ったらしく、玄関ドアに隙間が見えた。

 が、部屋を覗いたらボヤかと思うほど空気が白く煙っていて、とても入れたものじゃない。

 ドアの外からニャンとひと鳴きしてやったら、靄の向こうの万年床で胡座を掻いて煙草を吸っていた湯島が気づいて立ち上がった。

「あっやべ、悪ィなアダム、換気すっからちょっと待っててくんねぇ?」

 言って窓を開け、換気扇も回して近づいてきた飼い主は、オレンジ色のローライズボクサーだけ穿いたパンイチ姿だ。

 部屋は換気の努力をしつつも唇には紫煙が昇る煙草を咥えたまま、湯島は裸足で三和土に降りて俺の頭を撫でた。ひっくり返ってたビーサンを足先で転がして突っかけ、ドアを大きく開け放って外廊下に出てくる。

 待て、いくら公道から見えないからって、その格好で外に出るんじゃねぇ──

「全く根津の野郎、お前を締め出して好き勝手しやがって、マジ頭にくるぜ」

 しかも、聞こえよがしの大声で隣人の悪口を喚くんじゃねぇ──

「あれ、金木犀の匂いがすんな」

 金木犀の花の色をした腰骨剥き出しのローライズ1枚に緑色のビーサンって格好の湯島が、手すりに寄り掛かって鼻をヒクつかせながら煙草の灰を1階に落としていると、案の定だ。大家んちの2階の窓がそっと開いて、細い暗がりにニートの目が覗いた。

 言わんこっちゃねぇ、気づけよ湯島、オイ!

 が、4時の方向を向いてる本人は気づかない。風呂に入ったのか、濡れてる髪を鬱陶しげに掻き上げて欠伸をしながら「そういやメシ何食おうかなぁ」などとのんきなことを言ってやがる。

 こうなったら仕方ねぇ、俺が威嚇してやるしかないな。そう決意して毛を逆立てかけた瞬間、頭上で盛大なクシャミが炸裂して出鼻を挫かれた。

「お、さみ、さすがにもう風呂上がりにパンイチで外出る季節じゃねぇな」

 パンイチで外に出ていい季節なんかねぇっての──

「よし、中入るかアダム。もうだいぶマシになったんじゃねぇ?」

 湯島に促されて玄関に入る寸前、俺は立ち止まって振り返った。正面の窓の隙間にじっと目を据えてやると、毎度変わらぬ慌てようでピシャリと閉まる。

 全くウツボカズラだからって、あんなモノまでおびき寄せるこたぁねぇよな?

 何から何まで世話が焼ける飼い主に溜め息でも吐きたい気分で、俺は煙草臭が染みついた部屋に戻った。

 こんなロクでなしたちに囲まれた、ロクでなしたちの棲息地、ボロアパートの不忍荘。

 その2階奥の空き部屋だった残り1室を『美しき生命』が埋めに来て、俺を性懲りもなく震撼させることになるのは、それから2週間後のことだ。

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