不忍荘の猫

M06

不忍荘の猫

 俺様は猫である。名前は──あることは、ある。

 が、正直言って名乗るのが微妙に恥ずかしい。だから猫同士で自己紹介するときも、さりげなく素早く名乗ることにしてる。

 アダム。

 なんだ、この取り澄ました名前?

 ただ、その気恥ずかしさを嗅ぎ取った猫は、幸いにも今のところいない。誰もが、ふーんと相槌を返すだけだ。

 名付け親は俺を拾った庶民サラリーマンで、どこから引用したんだかは知らない。

 イヴのダンナか? それともカナダのロックバンドのヴォーカルか?

 そもそも、俺には何故そんな知識がある? 他の猫にはないというのに。

 どこで生まれたのかは記憶にないけど、薄暗くもなくじめじめもしてない近所の駐車場の日当たりの良い空きスペースでぬくぬくと昼寝していたある日、いきなり人間にかっ攫われた。

 そして見知らぬ狭苦しいアパートの部屋に連れて行かれ、メシを食わされ、風呂場で水責めにされて泡だらけにされ、全身こざっぱりとして病院に連れて行かれて血を抜き取られ、危うくタマまで切り取られるか否かって決断を迫られた野郎が、小肥りの獣医と乳のデカい看護師を前に天井を仰いで頭を掻き毟り、

「あぁぁあ我が身に置き換えたら身の毛もよだつぜ、タマ取られるなんてよォオ!!」

 と叫んだおかげで難を逃れ、俺は股にタマを──別に駄洒落じゃない──くっつけたまま、再び狭苦しいボロアパートの一室に帰宅した。否、させられた。

「ただし」

 部屋に入ると野郎はまず煙草を咥え、その顔を振り向けて押しつけがましくこう言った。

「発情期になっても欲情すんじゃねぇぞ」

 いや、無理な相談だよな……?

 ただ、ささやかな救いは、ソイツが全く知らない人間じゃなかったことだ。

 だったらいいってもんでもないけど、通りかかって俺と目が合ったときにコンビニ袋でもぶら下げていれば、何かしらメシを置いて去るヤツだった。何も持ってなくても、わざわざ引き返して買ってきたこともある。

 ちなみにコイツは、ちょっと機嫌が悪いと際限なく煙草を吸い続けるヘビースモーカーだ。そんなときは部屋の空気が白っぽく霞むほどで、一度あまりの煙たさに目が痛くなったから毛を逆立てて引っ掻いてやったら、以来、そんなときだけはベランダで吸うようになった。少しくらいはこっちの身になってくれる余地もあるらしい。

 だからってわけでもないが、敵と看做すべき野郎なら他に存在する。

 俺のねぐらの家主となった男は先述の通り庶民のリーマンで、週に5日は朝出て行って夜帰ってくる。たまには翌日まで帰らないこともある。

 が、それだけなら規則的で聞こえはいいものの、実はそう単純でもない。

 何しろ、起きられない。

 一体どんな耳をしてるのか、大音量のアラームが盛大に鳴り響き続ける中、のんきな面構えで惰眠を貪り続ける呆れた根性だ。初めてこの部屋で迎えた朝なんか、俺は聴覚への攻撃で死ぬのか? と本気で思った。

 拾われた早々そんな末路を迎えた日にゃ、何のために野良の身分を捨てたんだかわかったもんじゃない。しかも望んで家猫になったわけじゃないってのに。ひょっとしてコイツは新手の動物虐待目的で俺を拾ったのか? と疑いさえした。

 とにかく一向に起きる気配のない飼い主の顔面に、俺はまず飛び乗ってやる。するとヤツはフガフガと寝ボケたまま俺を布団に引きずり込もうとする。そこですかさず顔面に猫パンチを喰らわせてやったらギュッと押さえ込まれ、いよいよ引っ掻く瞬間がやってきた刹那、大抵ソイツがやってくる。

湯島ゆしまぁ!」



 怒鳴り声とともに玄関のドアを蹴破らんばかりの勢いで入って来たのは、隣の住人だ。

 既にいつでも出勤できるパリッと決まったスーツ姿で、つっかけたビルケンシュトックのサンダルを脱ぐのももどかしく──実際、三和土じゃなく畳に脱ぎ散らかして──騒音の元まで大股で歩み寄る。

 普通なら、ここで疑問が湧くだろう。

 何故、他人がそんなに易々と乱入できるのか?

 答えは、この部屋の主が鍵を掛けるということをしないから。

 おかげで毎朝、眉間に物騒という名の縦皺を刻んで殴り込んでくる隣人は、素早くアラームを止めると次に布団──クッション性なんかとうに失った万年床──の上でだらしくなく眠りこける野郎の胸倉を押さえ込み、片手で鼻と口を塞いで覚醒するまで呼吸を止める。

 やがて、そのまま死んじまうんじゃねぇかって思うくらい経過した頃、酸欠で真っ赤になった部屋の主が突然暴れて跳ね起きるのが常だった。

「死ぬだろ……!?」

「いや、むしろよく死なねぇよな」

 平日は毎日、この繰り返しだ。

 そして跳ね起きた野郎は今日も己が生き延びたと知るや、瞬く間にゾンビみたいな有り様に成り下がり、畳に転がる煙草の箱に手を伸ばして1本抜くと、半分寝たまま咥えて火を点ける。

 その姿を見るたび、ヤツがアパートごと丸焦げにしちまわないうちに、どうにかしてこの部屋から脱走しなきゃならないと俺は気持ちを新たにするものの、安定してメシにありつける生活に一旦味を占めてしまえば捨てがたいのも事実で結局居座り続け、それもまた毎日の繰り返し。

「ちょっとは片付けろ、せめてこの灰皿の状態を何とかしろ。猫が食ったらどうするつもりなんだ?」

 台所の流しの横で吸い殻の山を作ってるアルミの灰皿を指して隣人が言う。

 が、まともに意見してるように聞こえるその実、コイツが本気で俺の心配をしてるとは到底思えない。何故なら、この男が友好的な眼差しを寄越したことなんか一度たりともないからだ。

 なのに飼い主はそんなことに気づいてるのかいないのか、Tシャツの腹が捲れた上半身は畳の上、下半身は布団の中という自堕落っぷりで、寝ぐせだらけのまま鼻から煙を吐きつつこんなことを宣う。

「うるせぇなぁ毎日毎日乗り込んできて俺の城にイチャモンつけんのやめてくんねぇ? アダムは賢いんだよ、ンなモンうっかり食っちまうようなそこらの猫とは違うんだよ」

 最後の部分については同感だった。たとえヤツの飼い主としての姿勢が正しくなくとも、だ。

「確かに動物とも思えない、底意地の悪そうな目でガン見しやがるけどな」

「失礼なこと言うんじゃねぇ、猫特有の聡明な眼差しと言え」

「お前が聡明って言葉を知ってることに驚きを禁じ得ねぇよ、俺は」

「キンジエネエ? なんでいちいちめんどくせぇ言い方すんの?」

「それよりお前、ここがペット禁止なのは知ってんだよな?」

「拾ってきて以来ほぼ毎日おんなじこと訊くな、知ってるよ。いややっぱ知らねー、知らねーよ俺? てかさぁルールなんてモンは破るために存在するんだぜ? てかこのアパートなんかロクでもねぇヤツしか住んでねぇじゃん、住人だけで既に動物園なのに今更猫が増えたからってそれが何なんだよ」

「俺をオカマやジャンキーやギャンブラーやお前と一緒にするな」

「え、今お前、オカマやジャンキーやギャンブラーに俺を混ぜたか?」

 ヤツらの会話は誇張でも何でもない。

 この全6戸のボロアパート『不忍荘しのばずそう』の1階には、半ばアル中のおかまバーのホステスとジャンキー大学生、ギャンブル中毒の年金暮らしジジイが生息してる。2階の住人は現在このリーマン2人だけで、残る1戸の空き部屋に正しい性別でのメスが入居する日は、まず来ないとみて間違いないだろう。

「リーマンのくせに、この時間にまだそんな格好で布団に転がってるお前も下のヤツらと大差ねぇよ」

「はっ、アウトローな俺様は出勤時間なんつーくだらねぇルールになんか縛られねぇんだよ」

「勝手にしろ、お前の会社のルールなんか知ったこっちゃねぇし」

 畳の上でビルケンシュトックを履き直す隣人を見て、部屋の主──湯島が腑抜けた声を投げた。

「あー待った根津ねづ、出てく前にアダムのメシやっといてくんねぇ?」

「お前の猫だろ、自分で世話しろ」

「俺のものはお前のもの。だから鍵も開けてあんだろ? 何でも好きなモン持ってけよ」

 欠伸混じりに灰皿で煙草を消す湯島を、隣人──根津は数秒黙って眺めていた。かと思うと紺色のビルケンを再び脱いで二歩で近づき、ダメンズのお手本みたいな野郎を身体ごと布団の上に引き摺り戻した。

「お前のものは俺のものなんだよな?」

 片手でネクタイを緩めながら片手で飼い主の両手を押さえ、そう確認する。

「は? ちょ、オイ」

「で、欲しいものをもらってっていい、と」

 言って首から抜いたネクタイを、押さえていた湯島の手首に器用に巻き付ける。

 ロウテーブルの下に陣取り、毎朝のルーティンに退屈して眠気すら覚えていた俺は、閉じかけた目を上げてその光景を眺め、思った──またアレが始まったか。

 ヤツらは時々こうやってじゃれ合う。否、じゃれ合うって表現は正しくないかもしれない。少なくとも湯島のほうは、いつも抵抗する。初めのうちは。

 今も両手を縛られたまま、気迫の籠もったツラで身体を捻って逃げようとしていた。が、下半身を剥き出しがてら力尽くで腰を引き戻されて、俺が伸びをするときみたいな格好で後ろから隣人に押し入られると、やがては「馬鹿野郎」だの「ふざけんな変態」だのという悪態に代わって短い単語しか出てこなくなる。

「クソ、死ね、てか、おま、会社、いけよっ」

 揺すられる動きに合わせて、切れ切れに漏れる呻き声。

「会社は、お前の中にイッてからだな」

「は? 中っ、てめ、んン……!」

「布団を汚されるよりマシだろ?」

 隣人が動くたび、垂れ下がるベルトのバックルが湯島の腿をノックする。

 左右から掴んだ尻を更に開かせて、ぐっと押し付ける素振りが感じられた途端、部屋の主は布団に突いた肘に顔を埋めて苦悶の恨み節をひと息に喚いた。

「てめぇ絶対ェ殺してやる今夜にでも寝込み襲って鈍器で執拗なまでに殴るとかしてな!」

「そんだけ喋る余裕がまだあんのか」

「ッ、ちょ、待っ、そこ!」

 一変して慌てた語尾が不意に悩ましげな尾を引き、掠れて消える。その先はもう、湯島の口がまともな言語を紡ぐことはなかった。



 初めの頃は、いつになったら湯島が孕むんだろうかと思いながら2人の交尾を眺めたものだ。が、あるとき俺は気づいた。

 アイツら、両方オスじゃねぇか? と。

 実を言うとそのときまで俺は、初日に病院で叫んだ飼い主のセリフを正確に理解していなかった。というより、さほど重視してなかった。とにかく野郎の雄叫びによって自分のタマが守られた、それだけわかっていれば十分だった。

 しかしヤツらの交尾を観察するようになって、よくよく見てみれば、穴を穿たれてる飼い主の股間にも硬そうな棒切れが立ってるとくる。今だってそうだ。

 縛られた両手を四苦八苦して腹のほうに潜らせた湯島は、ソイツを掴んで布団に預けた顔を忌々しく歪め、もどかしげな手つきで擦り始めた。自分でどうにかしないことには、いくら待ったって後ろにいる野郎は何もしてくれない。

 まぁそりゃあ俺だって、仮にオスに突っ込んだとしても、相手の股間の世話まではしないけどな?

 それ以前に、オスに突っ込む意味からしてわからない。

 何考えてんだろうなぁ、あの隣人は……?

 子孫を殖やせるわけでもないのに、何のために同じオスの、しかもこんなどうしようもないダメリーマンと交尾なんかしなきゃならないんだろう?

 根津ってヤツは別に、メスにモテないわけじゃない。むしろ、この部屋の住人と違い、適当に連れ込んでは交尾を繰り返してるのを俺は知ってる。それも決まった相手どころか、いろんなタイプを取っ替え引っ替えだ。ただし外見はどれも、よくこんなボロアパートに足を運ぶ気になるもんだと感心するような一定のランク以上。

 そんな恵まれたセックスライフを満喫しつつ、更にこんな珍味にまで手を出すとは、どんだけ好奇心旺盛な欲張り野郎なんだか。

「ん──あっ……だむが」

「だむが?」

「アダムが!」

「あぁ」

 隣人の目がチラリと流れてくる。

「だから、猫に見られて恥ずかしがるなって」

「いいから早く──終わっ」

「いつも言ってんだろ。猫が見たって、何やってるかわかんねぇんだから」

 いやわかってんだな、一応これが。

 俺は欠伸をして身体を起こすと、さっきまでの飼い主と同じポーズで伸びをしてから2人のほうへと近寄っていった。

 お前ら、いつまでやってんだよ? 仕事に行かなくていいのかよ? それを口に出して言ったところで、どうせヤツらの耳には無邪気な鳴き声にしか聞こえやしない。

「アダム、ちょ、くんな、今ダメ、今っ」

 布団に伏せた飼い主の煙草臭い髪を嗅ぎ回り、顔を覗き込んでわざと甘えた声で鳴いて頬を舐め回してやる。

 その間にも隣人は野郎の尻をいいように使い、使われてる当人は遣り場のない股間のモノをどうにかしようと奮闘し続ける。手首から垂れ下がるネクタイが頼りなく揺れるのを見ながら、あの握った棒切れをいっそ俺が舐めてやったら面白いことになるだろうかと考えた。

 が、絶対旨くはなさそうだし、今は妄想だけに留めて今度は剥き出しの膝に頬を摺り寄せ、額も擦り付け、最後は全身でこれでもかとばかりにモフモフしてやった。

「っ、だむ、膝はやめ、今特に……!」

 何を隠そう膝は飼い主の弱点のひとつで、普段でも乗ってスリスリなんかしようものなら、ギャッと喚いて放り出されかねない。

 更にこういうときにはまたちょっと別の作用をするらしく、いつもとは違う反応でビクビク震えた湯島は、普段は絶対聞かないような掠れ声でやめてくれと懇願する。

「こら、面白ェけど邪魔すんな」

 後ろのオスが言って、手のひらで俺を押し退けた。それが癇に障ったから、飼い主の股間で揺れるネクタイをこれ見よがしに爪で引っ掻いてやったら、危うくマジギレされかけた。

「俺のヴィトン!」

 どうせ自腹じゃなくてメスからのプレゼントだろ? そんな蔑みを目に込めつつ飛び退くと、野郎は舌打ちしながらも気持ちを切り替えたらしい。掴んだ尻を責めることに専念して程なく、動きを止めて息を吐き出した。どうやら気が済んだようだ。

 だけど湯島が自分で掴んでるものは、まだ相変わらずの形状を維持してる。

 尻から抜け出た隣人が、ネクタイを取り戻そうとしてそれに気づいた。

「あれ、お前、猫にモフられてイッたのかと思ってたぜ」

「うるせぇ、テメェに関係ねぇ、さっさと出勤しろ」

 もはやどうでもよさげな半眼で気怠く投げ返した湯島は、しかし次の瞬間その目を眇めて喉の奥で呻いた。根津が、抜け出たばかりの穴に指を捩じ込んだせいだ。

「ばっかやろ、余計なこと、すんなっ……」

「けど、指でされるのもいいんだろ? 手伝ってやるから早くやっちまえよ」

 恩着せがましく唆した隣人が強引に埋めた指3本を執拗に蠢かし、文句を垂れていた湯島の唇が無言になって息を詰めたかと思うと、やがて部屋の主は見るからに弛緩して万年床に崩れ落ちた。



「結局、布団汚れたなぁ」

「あぁクソ、洗濯する時間ねぇってのによォ! 死んじまえ、二度とくんな!」

「お前があのクソうるせぇアラーム止めてさっさと起きりゃ来ねぇよ」

 それはどうだろうな。段ボールの爪研ぎでガリガリやりながら俺は思った。

 止まらないアラームに毎朝怒鳴り込んで来るからって、コイツらは毎朝交尾するわけじゃない。やるのは大抵、隣の部屋にしばらくメスが出入りしなかったタイミングだ。

 つまりアラームが鳴ろうが鳴るまいが、隣人はご無沙汰していれば欲求の不満を発散しにやって来る。

 嫌なら叩き出せばいいのにな。トイレに入って砂をザリザリ掘りながら俺は思った。

 飼い主はそれができないわけじゃない。俺はそれも知ってる。

 だからどうしようが本人の勝手であって、俺が口出し──実際できるのは手出し──することではなかった。

 後始末をして元通りに身なりを調え、湯島の煙草の箱から1本抜いて咥えた根津が、畳の上で裏返ってたビルケンを足でひっくり返して履きつつ万年床のリーマンに目を投げた。

「そういや湯島、こないだ1階のジャンキーに迫られたらしいじゃねぇか」

「あぁ? そうだぜアイツ、なんかゴキゲンなヤツをキメてやがって──てか誰に聞いたんだよ?」

「オカマ」

「クソ、見てたんなら助けてくれりゃいいのに」

「仕事に遅刻しそうだったから急いでたんだよってよ。で、どうなったんだ? 掘らせてやったのか」

「馬鹿か、するわけねぇ、フラフラだったから2、3発ほっぺた撫でて部屋に放り込んでやったぜ」

 その現場なら俺も見た。

 仕事から帰ってきた飼い主が、階段の下の方に座り込んでたジャンキー大学生に脚を掴まれて倒され、向こう脛を打って悶絶してるところを鉄骨階段に押し付けられてベルトを外されかけたものの、蹴飛ばして地面に転がして滅多打ちにしてから野郎の部屋に引き摺って放り込んでくる一部始終を、俺は階段の上から見物していた。

 よく晴れて風が強かった日で、暗くなる頃に散歩から戻ったらドアが閉まって部屋に入れなくなってたせいだ。

 湯島は、天気のいい日は俺が出入りできるように玄関の隙間を開けて出かける。今どきあり得ない不用心だとは思うけど、前に隣人に咎められた当人はこう答えてた。

「盗られて困るモンって布団ぐらいだぜ?」

 確かに盗るようなものは見当たらないし、泥棒だって見るからにカネのないヤツしか住んでなさそうなアパートの、それも2階までわざわざ侵入しにくる気はそうそう起きないだろう。加えて、玄関側の外廊下も道路に面してはいないから、回り込まないと様子を窺えない造りでもある。逆に言えば人目につかずに侵入しやすくもあるとは言え、とにかく見るからにカネのないヤツしか──以下同文。

 ただ、1人だけ一般的な生活水準に見える隣人が、何故こんなところに住んでるのかは俺も知らない。

「まぁとにかく、気をつけろよ」

「え、何、俺のこと心配しちゃってんの?」

「お前が妙な病気もらったら俺にまで感染るじゃねぇか」

「だったらお前が二度と妙な気起こさねぇようにジャンキーと寝てやるよ」

 だらしない面構えで煙草に手を伸ばす部屋の主を、ほんの少しの間眺めていた隣人は、

「俺以外の野郎と寝られるもんなら寝てみろよ」

 気のない風情で小さく笑い、手にネクタイをぶら提げて出ていった。俺が爪を引っかけたから、別のやつに替えるのかもしれない。

 根津が消えると、湯島は途端に何を考えてんだか見当もつかない無表情になって、布団に寝そべったまましばらく無言で煙草を吸っていた。さっきまでの気怠さとも違う静けさで、ゆっくりと瞬きする目にはどんな色合いも浮かばない。

 普段は単純極まりない飼い主がこういう表情を見せるときだけは、俺も未だにその内面を掴み取ることができなかった。

 なのに近付いて甘えた声で擦り寄ると、まるでバネ仕掛けみたいに飛び起きてガバッと俺を抱き竦め、腑抜けた顔をグリグリ押し付けてきて堪りかねるようにこんなことを言う。

「コイツめ、可愛い声出しやがって! 腹減ったんだな? ちょっと待ってろ。あっクソ、アイツのせいでシーツも洗わなきゃなんねぇしっ」

 会社はどうすんだよ──?

 玄関ドアの向こうに、出勤していく隣人の物音が聞こえる。が、こちらの住人は時間を気にする風もなく、すぐに心配してやるのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。

 そもそも、俺が心配するようなことか?

 答えは否だ。

 なのに、困ったことに何故か下手に人間のいろいろがわかっちまうもんだから、面白くもある反面これで結構気苦労が多い。

 猫すらヤキモキさせてしまう飼い主は、今は台所とは名ばかりの流し台の前で床にウンコ座りして、ささみとまぐろの猫缶を皿にあけている。姿勢のせいで下がったスウェットの腰から覗くパンツのゴムと尾骨の陰影を、俺はやれやれという思いで眺めた。

「アダム、メシ食えよー。お前の好きなささみだぜ?」

 振り返った野郎が弛みきった顔で呼ぶから、仕方ない。期待に応えて駆け寄ってやることにしよう。

 まったく人間ってヤツは単純に見えて、何とも面倒くさい生き物だ──

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